北河原用水元圦 (きたがわらようすい もといり) (その1)(その2)(その3)
所在地:行田市北河原字里前、中条堤 建設:1903年
長さ | 高さ | 天端幅 | 翼壁長 | 袖壁長 | 通水断面 | ゲート | その他 | 寸法の単位はm 巻尺または歩測による *は推定値 |
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上流側 | 50* | 4.2 | 6.5 | ― | アーチ1.3*×2 | 鋼スルース×2 | 塔 | ||
下流側 | 3.8* | 4.3 | 5.6 | 1.1 | アーチ3.1* | ― | 塔 |
立地状況:
北河原用水元圦は、福川(利根川の支流)右岸の中条堤に設けられている。→この付近の利根川
中条堤とは、福川と利根川の合流地点から約2.5Km上流に位置し、福川や利根川の堤防に対して
直角方向に南へ約4km続く堤防である(北河原用水元圦の仕様書には、利根川本堤と記されている)。
利根川、福川、荒川の洪水を一時的に湛水させ、下流側を守ることを目的とした控堤(水除囲堤)であり、
諸説はあるが、1620年頃に伊奈忠次によって築かれた(改築整備)とされている。
当初の下流側とは、忍藩(おしはん:現在の行田市、松平十万石の城下町、徳川家康の4男が城主であったこともある)の
ことであったが、中条堤は時代を経て、徐々に規模(延長や堤防高)が拡大されている。
このため、治水と利水の利害関係をめぐって上流と下流の紛争が絶えず、いわゆる論所堤と呼ばれた。
明治43年(1910)に廃止されるまで、中条堤は利根川治水の要であった。
北河原用水:
北河原用水は、1644年に伊奈忠治によって開削された農業用水路で、福川の右岸から取水している。
福川には備前渠用水(1604年、伊奈忠次が開削)のかんがい流末が流れ込んでいる。
北河原用水は見沼代用水を伏せ越して流れ、流末は下流の羽生領用水への加用水(補給水)と
なっている。なお、福川の流路は大正末期から昭和初期にかけての河川改修によって、
大幅に変更されたため、北河原用水の現在の元圦は、ここからさらに約2.5Km上流の
八幡樋管(福川右岸、妻沼町上須戸)に変更されている。
八幡樋管から北河原用水元圦までの用水路は、福川の旧流路を改修したもの。
用水路の右岸には福川の旧堤防である、四方寺堤と上中条堤が残っている。
治水の難所に設けられた利水施設:
この煉瓦樋門は明治36年(1903)に北河原用水普通水利組合(注1)が、県税の補助金と
埼玉県の技術指導を得て、北河原用水の元圦(取水口)として建設したものだ。
総工費は約15,612円、工事は明治35年10月1日に着手し、明治36年7月に竣工している。
樋門に付けられた銘板には明治36年4月竣工と記されているので、工事完了は
予定よりも3ケ月遅れたことになる。
北河原用水元圦は今も現役の施設であり、中条堤を横断するカルバートとして機能している。
改良前の旧元圦は木造だったが、当時の樋門としては破格の大きさであった。
武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡北河原村(13巻、p.256)には、
”圦樋:村の申の方 利根川堤にあり 長18間巾9尺”と記されている。樋管長が33m、
通水断面の幅が2.7mであり、通水断面はおそらく2門以上だったと思われる。
北河原用水元圦は利水施設だが、洪水時には中条堤によって貯留された水の余水吐としても機能する。
洪水時に北河原用水元圦のゲートが閉じたままだと、中条堤の上流側の大里郡(妻沼町)は、
水の逃げ道がなくなるので、洪水の被害をもろに蒙ることになる。逆にゲートが全開だと、
洪水流は中条堤の下流側の北埼玉郡(熊谷市の一部、行田市、羽生市)に押し寄せる。
中条堤と北河原用水元圦の関係〜控堤(治水施設)に伏せ込まれた樋管(利水施設)〜と
よく似た形態は、横手堤と分量樋(大里郡大里町〜比企郡吉見町)でも見られる。
北河原用水元圦は、中条堤をめぐって繰り広げられた、上下流の対立や紛争を
見守ってきた歴史的な構造物である。付近には弁財天や石仏も数多く祀られている(注2)。
←北河原用水元圦(上流側から) 中条堤に伏せ込まれているので、土被りが非常に大きく、 樋管長も長い。使われている煉瓦の数は、約19万4千個。 表積は選一等焼過煉瓦が6万3千個であり、埼玉県に現存する、 煉瓦樋門では最大だ(一部残存である瓦葺掛樋:25万個は除く)。 ゲートの戸当りと水切り(柱)以外は、全て煉瓦造りである。 翼壁の構造は、もたれ式で、天端の煉瓦は小口縦-長手横に 積まれている。翼壁はかんがい期の水位以下は白く変色している。 (その上が黒く変色してるのは何故だろう) 2門のゲート(鋼製?)は、表裏別々に取り付けられている。 これは下流側からの逆流防止のためだろうか? 北河原用水元圦は、呑口(上流)と吐口(下流)でアーチの数が異なる。 呑口2連、吐口1連である。上流側のアーチは2連で、アーチリングは 小口縦の3重巻き。面壁に設けられた石造りの銘板には、 施設名が刻まれている。書体は隷書体(他の樋門は楷書体が多い)。 下流側のアーチは1連で、アーチリングは小口縦の4重巻き(竪積み)。 下流側の銘板には竣工年が刻まれている。 |
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塔の装飾→ 塔は正方形断面で一辺56cm、高さ80cm。 笠石部には煉瓦の小口を斜めに配置し、 鋸状の装飾が施されている。 塔に鋸状の装飾があるのは、埼玉県では この樋門と甚左衛門堰枠(草加市)のみ。 写真の手前側の塔は、天端の煉瓦2段分が 損壊している。奥の塔の天端には笠石が 4段積まれていて、上敷免製(日本煉瓦製造の 深谷工場)と刻印された煉瓦が確認できる。 煉瓦の平均実測寸法は220×106×57mm。 目地の幅は約9mm。モルタルに 使われているセメントは愛知セメントの製品 (→埼玉県行政文書 明2497-34)。 このセメントが収賄事件を引き起こした。 |
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←北河原用水元圦と中条堤(下流側から) 上部に見えるのが中条堤。中条堤は北河原用水元圦の 建設前後の明治29年と43年に破堤している。 写真の左側にある五郎兵衛沼は明治43年の洪水による切れ所跡。 利根川や福川から離れた広大な水田の中に延々と高い堤防が続くので、 初めて中条堤を見た時は、不思議なだけでなく、かなりビックリした。 (元来、中条堤は福川の右岸に沿っているのだが、この付近の福川の 流路は河川改修によって大きく変わってしまっているので、なおさらだ) なお、中条堤という名称は総称のようで、この付近では 北河原堤、西側の熊谷市上中条付近は上中条堤、さらに西側では 四方寺堤(しほうじ)と呼ぶそうだ。村囲い堤に特有な命名である。 北河原用水元圦の周辺は親水公園化されている。 写真右側の階段も煉瓦製で、景観に対する配慮が見られる。 写真左側から合流する水路は、さすなべ落(排水路)。 さすなべ落には六堰頭首工(荒川)から取水している玉井堰用水からの 落ち水が集められている。さすなべ落は約2Kmの区間、北河原用水と 水路を共有した後、最終的には利根川へ放流される。 |
(注1)北河原用水普通水利組合は、その前身の北河原用水組合の頃は
忍領と羽生領を合わせた34村で運営されていたが、天保11年(1840)からは
羽生領が分離し、忍領のみで管理・運営されることになった(→文献5、p.194)。
北河原用水元圦を建設した当時は、水利組合は北河原村、星河村、須加村、
荒木村(以上、現.行田市)、南河原村、新郷村(現.羽生市)の6村によって
構成されていた(→埼玉県行政文書 明2497-34)。
なお、新郷村は古来から羽生領ではなく忍領に属していた。
その後、水利組合は北河原用水土地改良区と名称を変え、
昭和56年(1981)には見沼土地改良区と合併している。
(注2)北河原用水元圦の西側100mには白龍弁財天と
己待弁天供養(元禄十四年:1701建立)、北側100mには
庚申塔(寛政二年:1790建立)が祀られている。
また東側500mには地蔵尊、切れ所沼の付近には石仏群がある。
(注3)北河原村(現.行田市北河原)には、北河原用水元圦が
竣工した4年後の明治40年(1907)に、武蔵煉瓦第一工場が設立されている。
これは従業員7名の小規模な煉瓦工場であった。付近には福川や利根川の
氾濫土(粘土や砂)が豊富に分布するので、それらを原料として手作業で
煉瓦を製造したのだと思われる。なお、煉瓦を焼く燃料(石炭ではなく、おそらく薪だろう)は、
地元では調達困難だったはずなので(付近には炭鉱はおろか森林すらない)、
利根川または見沼代用水の舟運で入手したのであろう。
追補:北河原用水元圦は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。