久下橋 (くげばし)  荒川の冠水橋

 場所:(左岸)埼玉県熊谷市(くまがや)久下、(右岸)埼玉県大里郡大里町小泉
     県道257号熊谷冑山線  建設:昭和30年(1955)?
 
形式:桁橋(主桁は木製、桁厚0.5m、45スパン、コンクリート・鋼製橋脚) 全長約282m、幅2.6m(4.5m)

 久下橋は、埼玉県が管理する冠水橋(洪水になると水没してしまって通行不能になる橋、潜水橋)である。
 これほど大きな木製の冠水橋(しかも県道の道路橋)は、日本では他に例がないと思われる。
 日本最長の流れ橋(木造)は、上津屋橋(
こうずや:木津川、京都府八幡市)で、356m、
 日本最長の木造橋は、蓬莱橋(
ほうらい:大井川、静岡県島田市)で、930m。ともに歩行者専用橋である。
 なお、四万十川の沈下橋で最も長いのは、佐田沈下橋(高知県中村市)で、約
292m。
 (昭和46年建設のコンクリート製の橋、幅員が4mもあり、大型車も通行できる)

 久下橋の構造は、0.3m角・長さ6.5mの木材4本(橋の中央部は5本)を、主桁として橋脚間に配置。
 その上に、0.1m角・長さ2.6mの木材を、線路の枕木のように敷き詰め、アスファルトで路面舗装を施してある。
 橋中央部の約100mの区間は退避所を兼ね、幅が4.5mと広くなっている。車幅制限2m、重量制限3t。
 昭和30年の竣工時
(注)には、河川敷内の左右岸側に長さ約90mの2つの橋が架けられたのみで、
 中央部に橋は架けられていなかった。中央部は砂州を道路として利用していたというから驚きだ。
 その後、久下橋は洪水のたびに被災し数度の修復を得て、昭和42年6月に現在の形となった。
 久下橋の中央部約100mは、この時に継ぎ足されたものである。

 構造的には一般的な桁橋であり、珍しくはないが、橋の形態は極めて特異である。
 数が非常に多く、形式が不揃いな橋脚には、冠水橋として長い間、運用された歴史(洪水による破壊と
 復旧工事の結果)が刻み込まれている。

 左右岸非対称の外観(橋脚の形式が不揃い、しかも木の橋なので、仮設?って感じ)は、
 非常に違和感があるが、大里町と熊谷市を結ぶ架け橋として、地元では親しまれ大いに利用されている。

    久下橋の全景  4種類の橋脚  冠水した久下橋  久下橋からの風景  この付近の荒川の様子

 2003年6月の新久下橋の完成に伴い、久下橋は約半世紀にわたる使命を終え、
  同年11月に完全に撤去されました。河川敷には久下橋があったという形跡はまったく残っていません。
  しかし、久下橋を渡った人、見た人、遊んだ人、修理した人の心の中には、久下橋は今でも
  楽しいあるいは苦々しい思い出として残っています。
  現在、久下橋を偲ぶ地元の有志やボランティアは、旧久下橋の顕彰活動を展開しています。

  久下橋の記念碑建設: 募金活動のお知らせ 説明板が完成 久下橋の面影 記念碑が完成

 (注)本ページの画像は、CAMEDIA C-2000Z(211万画素)で撮影しました。(2001年4月14日、9月11、12日)

久下橋の全景
 久下橋の全景(左岸堤防の上流から) F3.2,105mm
 望遠側で撮影したので距離感は実際より圧縮されている。
 対岸(車が8台待機)は、右岸堤防ではなく高水敷(主要地方道257号線)。
 荒川の右岸堤防は、さらに遠方の木々が並ぶ付近(900m先)である。
(追補)この写真は、久下橋の説明板(2004年3月建立)に使われています。
   久下橋の欄干と橋脚
   欄干と橋脚(低水敷の右岸上流から) F7.0,65mm
   欄干(高さ約1m)は洪水時には取り外せる構造、
   鉄柱と鋼製ワイヤーでできている。
   この写真でも、桁と橋面が木製なのが確認できる。
   荒川の水位は低かったが(およそ1m)、久下橋の
   橋脚(鋼製)には流木が引っかかっていた。

 久下橋〜大里村から熊谷市へ
 大里町から熊谷市へ(高水敷の右岸上流から)
 東京からわずか1時間の地に、こんなレトロな橋が。
 奇しくも、ここは
荒川の瀬替え地点である。
 久下橋の路面には、[タバコ投げ捨て禁止]と
 書かれている。写真上部に見える橋は、
 500m下流に現在建設中の新久下橋。

   久下橋の中央部
   久下橋の中央部(低水敷の下流から) F5.6,35mm
   写真の状態(低水位以下?)から、水位が4m位上昇すると、
   久下橋は冠水し、交通止めとなる。
   橋脚の数が多いので、冠水した時は水の抵抗が大きそうだ。

(注)久下橋の竣工年については、公的な記録が発見できないために、曖昧な点が多い。
 昭和30年竣工とされているが、実際にはそれ以前に熊谷側には橋が
 存在していた可能性が高い。昭和29年度の埼玉県議会の請願陳情審議の
 件名一覧(埼玉県議会史、第8巻、p.1171)に熊谷市長提出の久下橋の
 復旧架設費補助願が記録されている。件名は”熊谷市の東部より大里郡市田村に
 通ずる市道の荒川に架設せる久下橋の復旧架設費に対し県費補助方の件”である。
 この件は審議が保留のまま、翌年2月に不採択となっている。災害復旧工事であるのに
 県から補助金が得られなかったのは、熊谷市の単独事業で建設した橋だったからだろうか。
 当時、久下橋の架かる道路は市道であり、県道へ昇格したのは昭和41年4月である。
 ともかく、昭和29年の時点で既に、荒川には久下橋と呼ばれる橋が架けられていて、
 しかも(渡河方法は不明だが)市田村へ通じていた。

 昭和29年には、左岸の久下地区は既に熊谷市と合併していたが、右岸はまだ大里郡市田村だった。
 市田村と吉見村が合併して、大里郡大里村が誕生するのは昭和30年1月1日である。
 大正末期に設置された
市田村と吉見村の道路元標が今なお残っている。
 両元標の設置地点は、奇しくも久下橋の延長上、県道257号線(当時は市道)の傍らである。
 両村にとって、県道257号線は熊谷市へ通じる主要道だったことを示している。
 なお、県道257号線は鎌倉街道の脇往還に比定されている。800年以上もの歴史を持つ古道である。
 さらに久下橋の左岸には、
久下村の道路元標が旧中山道の脇に残っている。
 久下橋は中山道と鎌倉街道を結ぶ、荒川の渡河地点に架けられた橋ということになる。


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