久下橋の面影を追体験しよう

久下橋のような冠水橋は、いろいろな呼び方をされていますが、一般的には潜水橋と呼ばれます。
四万十川の沈下橋群(高知県)はその数と景観から全国的に有名です。冠水橋は最近でこそ
数が減っていますが、昭和40年代には日本のあちこちで日常的に見られました。
ある年齢以上の人にとっては懐かしい想い出が甦る、いわば水辺の原風景です。
2003年6月の新久下橋の開通で、その貴重な原風景がまた一つ消えてしまいました。
それでも埼玉県には、冠水橋がまだ30基以上も残っています。それらの冠水橋と比べながら、
久下橋の特徴を追ってみましょう。

県道の冠水橋

久下橋は全国でも珍しい県道の冠水橋でした(香川県と徳島県にも数基あるようです)。
なお、インターネットで検索すると、四国の国道439号線には全国で唯一の国道の潜水橋がある、
という情報が見つかりますが、これについては所在と現況がはっきりしません。
久下橋のあった路線はもとは市村道だったのですが、地元の人々が昭和38年から数度に渡り
埼玉県へ陳情をおこなった結果、昭和41年4月に県道へ昇格しました。
その背景には
荒川大橋の補修工事と荒川河川敷での砂利採掘があったと思われます。
久下橋の上流にある荒川大橋は頻繁に補修工事がおこなわれた橋で、その度に交通渋滞を
引き起こしていました。昭和36年から昭和38年にかけては中央部100mの狭い部分を広くする工事、
工事完了後の昭和40年には台風17号によって橋が一部損壊してしまいました。
それらの補修工事の毎に迂回路や近道として久下橋も使われ、交通量は増大していました。
一方、荒川の河川敷では砂利の採掘が盛んに行なわれていました。砂利採掘のために、
昭和29年には
大麻生陸閘(現存)も建設されています。陸閘とは堤防に設けられた切り欠きのことで、
車は堤防を乗り越えずに河川敷の中へ入っていけます。昭和30年代、荒川では砂利を積んだトラックが
河川敷の中を往来するのは、日常的な光景だったそうです。このような社会背景から久下橋の交通量は
かなり増大していたと思われます。それなのに荒川が増水するたびに、久下橋は頻繁に通行止めとなり、
地元の人々の苦悩は深まる一方でした。そのような情状況下での県道への昇格でしたので、
きっと地元の喜びもひとしおだったことでしょう。それから約40年が経過した2003年6月、
埼玉県の県道に架かる冠水橋は久下橋を最期に全て消え去りました。ところが驚くべきことに、
近くの利根川には、橋の架かっていない県道が現存します(県道83号の
葛和田の渡し:妻沼町から
群馬県千代田町の間は渡船による県道)。久下橋もその前身は久下の渡しと呼ばれる渡船でした。

圧倒的な大きさ

久下橋の最大の特徴は、冠水橋であるにもかかわらず、その大きさでしょう。
日本最長と思われる潜水橋は、高瀬橋(吉野川、徳島県、コンクリート製)で約522m、
四万十川の沈下橋で最も長いのは、佐田沈下橋(高知県中村市、コンクリート製)で約292mです。
久下橋は車の渡れる木造の冠水橋としては、おそらく日本最長だったと思われます。
大きさの秘密は久下橋の建設経緯にあるようです。久下橋が建設されたとされる昭和30年当時、
架橋地点の荒川の中央には現在よりも
大きな砂州が形成されていて、水は二又に分かれて
流れていたそうです。それらの流れを跨ぐ2つの橋が大里側、熊谷側にそれぞれ架けられたのが
久下橋の始まりです。荒川の中央部約100mの区間は橋がなく、砂州が道路として使われるという
非常に珍しい形態の橋でした。この当時の新聞報道では久下橋ではなく、荒川冠水橋と呼ばれていますが、
これは正式名でなく荒川にある冠水橋という意味のような気がします。
つまり、正式名称もはっきりしない奇妙な形の橋だったのです。しばらくはその形で使われていましたが、
砂州自体が洪水で流されてしまったことや洪水による橋の破損箇所の修復を重ねるうちに、
2つの橋が合体してやっと1つの橋になったのです。これが架橋から12年後、昭和42年の6月上旬でした。
こうして全長約280mの木の橋が誕生しました。久下橋は橋の中央部約100mだけ幅が広くなっていましたが、
あの部分はこの時に継ぎ足されたのです。現在、埼玉県に残る最大の冠水橋は
若宮橋(高麗川、坂戸市、
全長約103m)ですから、あらためて久下橋の大きさにはびっくりさせられます。
若宮橋は久下橋のように橋の中央だけ幅が広くなっています。なお、埼玉県には昭和30年当時の久下橋の
形態を彷彿させる橋が残っています。都幾川と越辺川の合流地点に架かる2つの冠水橋、
長楽落合橋(都幾川、川島町〜東松山市)と赤尾落合橋(越辺川、東松山市〜坂戸市)です。
合流地点の堤防間は約300mあり、その中に長さ50mと70mの2つの木の橋がL字形に架けられています。
2つの橋は中州に設けられた約50mの連絡路で結ばれています。久下橋から5Km下流の大芦橋(荒川と
和田吉野川の合流付近)も、昭和54年までは吹上町側の大芦橋(冠水橋)と大里村側の
吉見橋
2つの橋でした。余談ですが、大芦橋の下流に架かっている赤いアーチ橋、
荒川水管橋
日本最長(一説には東洋最長とも)の水管橋です。

独特な橋脚

[まちの駅くまがや]でおこなわれた企画展には、子供達の描いた久下橋の絵がたくさん展示されました。
それらを見ると子供達の興味は、久下橋の橋脚に集中していたことがわかります。
それだけ子供達の眼には、傷だらけで錆びついた久下橋の橋脚は強烈に焼き付いていたのでしょう。
久下橋には独特な形をした4種類の橋脚が、実に44本も使われていました。その外観はムカデの足とも
称されましたが、橋脚の数が多かったのは橋桁が木製だったからです。
というのは、木材の長さには限界があり、それが6〜7mだからです。久下橋の全長約280mを
木材の平均長6.5mで割ると約43で、これは橋脚の数とほぼ同じになります。
次に橋脚の形ですが、一番記憶に残るのは、やはり左岸(熊谷側)のコンクリート製の橋脚でしょう。
この橋脚は4種類の中で最も大きく、かつ数が多く、しかも最も古いものでした。昭和32年3月に
撮られた写真で、既にそれらしき形が確認できます。巨大な流木よけ(橋の上流側に斜めに付けられた棒)は、
久下橋のトレードマークともいえました。橋の中央に使われていた鋼製の丸い橋脚も、
よく見ると上下流が非対称で、ちょっと変わっていました。
現在、埼玉県には久下橋のように4種類もの橋脚が使われている冠水橋は存在しません。
過去には、
押切橋(荒川、江南町、昭和29年完成、長さ約232m)がありました。押切橋は橋脚の形と木の桁が
久下橋と非常に良く似ていて、久下橋の兄ともいえる橋でした。
また、大芦橋(荒川、吹上町)と糠田橋(荒川、鴻巣市)の橋脚も久下橋の中央部と似た(ただし斜めの部材は
上下流に付いていた)丸い鋼管でした。現存する橋では
吉見橋(和田吉野川、大里町)の橋脚が、
久下橋の熊谷側の橋脚(コンクリート製)を彷彿とさせます。ただし、吉見橋には、あの流木よけは
付けられていません。流木よけの付いた冠水橋は、近隣では
滝馬室橋(荒川、鴻巣市)、原馬室橋(荒川、
鴻巣市)があり、
越辺川高麗川にも数多く存在します。滝馬室橋と原馬室橋には以前は流木よけが
付いていませんでしたが、平成13年の台風15号で流出した後に鋼管製の流木よけが付けられました。
越辺川と高麗川の橋には、木製の流木よけが付けられています。

木の桁

久下橋は、その圧倒的な大きさにも拘らず、橋桁が木製でした。久下橋を見て工事用の仮橋だと
勘違いした人が多いそうですが、それもうなずけます。久下橋の誕生から新久下橋の完成までの
経緯を振り返ると、久下橋は仮橋のまま、その一生を終えたともいえます。
昭和30年前後、荒川には久下橋の他にも数多くの冠水橋が架けられましたが、それらの形式は
どれもが橋脚はコンクリートや鋼製、桁は木製でした(例外はすべてコンクリート造りの植松橋)。
当時の荒川は改修と新しい堤防を建設する工事が終了した直後でしたから、洪水に対しては
まだまだ危険な可能性が残っていたと思われます。そのため冠水橋は潜水橋というよりは、
流れ橋に近い発想で設計されたようです。洪水に対して、潜水橋は橋桁が壊れないことを前提にしますが、
流れ橋は橋桁が流れてもかまわないことを前提にして設計します。
それにしても久下橋は、橋桁を鋼またはコンクリート製に取りかえる機会は何度もあったのに(洪水で
ちょくちょく壊れましたからね)、何故か最後まで桁は木製でした。橋面(路面)も最初は木製でした。
荒川は昭和30年代には砂利の採掘が盛んで、久下橋の上は砂利を積んだ10tトラックが平気な顔で
通っていたそうです。そのため路面の板がすぐに折れ大きな穴があいてしまって、
修理におおわらわだったそうです。この防止策として、後に路面はアスファルトで舗装されました。
なお、久下橋の橋詰には大型車の進入を阻止するコンクリートのブロックが設置されていましたが、
これは昭和37年8月から始められました。埼玉県には、橋桁が木製の冠水橋としては、
高尾橋(荒川、北本市)、
樋詰橋(荒川、桶川市)、流川橋(市野川、東松山市〜吉見町)、長楽落合橋(都幾川、東松山市〜川島町)が
残っています。高尾橋と樋詰橋は、久下橋と同じように路面がアスファルトで舗装されています。
なお、越辺川と高麗川には一見すると、桁だけでなく橋脚までもが木でできた冠水橋が数多く存在します。
でもよく見ると、どの橋も桁は修復工事の時に交換してあり鋼製です。

欄干(手すり)

一般的な潜水橋の形式は、欄干のないコンクリートの桁橋が主流です。欄干がなければ洪水で潜った時の
水の抵抗は小さいし、橋へのゴミや流木の付着も防げます。治水上の観点から埼玉県の冠水橋でも
欄干のない橋が多いのです。でも、久下橋にはワイヤーと鉄柱で作られた欄干が付けられていました。
橋を渡る側からすれば、貧弱な欄干でも付いていれば安心感と安全性は高まります。
これらの妥協結果が、あの形式の欄干だったのでしょう。昭和43年当時、荒川下流の冠水橋(荒井橋や
羽根倉橋)では車輌の転落事故が相次ぎ、住民からは冠水橋への欄干設置の要望が高まっていました。
これに対応して、橋梁修繕工事の扱いで、久下橋にワイヤー欄干が付けられたのが、昭和43年6月頃です。
ところで、この欄干、着脱可能だったことをご存じですか。荒川が増水すると久下橋を管理する人達が
駆けつけて来て欄干を外し、久下橋と堤防を守っていたのです。
現在、埼玉県に残っているワイヤー欄干の冠水橋は、
滝馬室橋(荒川、鴻巣市)、原馬室橋(荒川、鴻巣市)、
高尾橋(荒川、北本市)、樋詰橋(荒川、桶川市)、西野橋(荒川、上尾市)、出丸橋(入間川、川島町)の6基です。
荒川に残っている冠水橋は5基全てにワイヤー欄干が付けられています。

記念碑

埼玉県には、江戸時代に建てられた石橋供養塔が数多く分布しています。
供養塔とは橋の労をねぎらい、その功績に感謝した、いうなれば橋のお墓のことです(当時の供養は
現代よりも感謝の意味が強いので、供養塔とは竣工記念碑であるという説もあります)。
いずれにせよ、昔の人の橋への思い入れは現代人よりも遥かに強かったのです。
現在、埼玉県に残っている冠水橋関連の碑は以下の3基です。植松橋(荒川、川本町、
昭和26年建立?)、
原馬室橋(荒川、鴻巣市、
昭和33年建立)、稲荷橋(都幾川、東松山市、昭和30年建立?)。
これらはみな竣工記念碑ですが、今回、新たな碑が加わりました。
埼玉県史上初の冠水橋顕彰碑、思いやり碑です。

久下橋初期の出来事

昭和30年?  久下橋誕生。2つの橋が大里側、熊谷側に架けられる。橋名は荒川冠水橋
昭和32年   砂利運搬トラックの通行が多く、橋面(板貼り)に大穴
昭和33年9月 台風21号で両岸の10mが流出
昭和34年8月 台風7号で流出
昭和35年6月 部分的にコンクリートへの改修が完了(工期は3ケ月)
昭和37年8月 大型車の進入を阻止するコンクリートのブロックが設置される
昭和40年8月 台風17号によって一部流出(2週間後に復旧、開通)
昭和41年4月 県道へ昇格
昭和42年6月 やっと一本の橋となる。この頃から久下橋の名称が一般化する
昭和43年6月 欄干が付けられる

最後に

荒川が自然河川の雰囲気を残すのは、久下橋の付近が最後で、ここから下流はもう人工河川の
色合いが強くなっています。久下橋は、この付近の自然景観と調和・融合した貴重な橋でした。
橋は単なる道路の延長ではありません。荒川の堤防の上から眺める久下橋、対岸で数台の車が
待機する光景はもう見られません。

(補足)この文章は[思いやりの譜〜久下冠水橋記念誌、久下冠水橋跡碑建設委員会、2004年]に寄稿したものです。


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