星川 (その1) (その2)(その3)  [星川のページ一覧

 撮影地:埼玉県熊谷市

 星川は延長34Km、流域面積45Km2の中川水系の一級河川。
 管理起点は熊谷市上川上にあり、熊谷市から南河原村、行田市と東へ向かって流れ、
 見沼代用水と合流してからは流路を南東へ変え、川里町、騎西町、菖蒲町と流れる。
 菖蒲町上大崎で見沼代用水と分かれてからは、白岡町、久喜市と流れ、
 最後は白岡町西と蓮田市根金の境界で元荒川の左岸へ合流する。
 星川の主な支川には、
青木堀江川落、沼田落、弥右衛門落源兵衛落
 旧忍川(廃川)、古川落などがある。なお、星川の流路は武蔵水路、関根落、隼人堀川と
 立体交差しているが、それらは星川の下を伏越(サイフォン)で横断している。

 3つの星川:
 星川の源流は新星川であり、新星川は荒川扇状地の湧水や農業用水の落ち水
 (大麻生堰用水や成田堰用水:荒川の六堰頭首工から取水)を水源とするようである(注1)
 六堰用水は往古の荒川の氾濫跡や派川網状流(荒川が扇状地内で乱流していた跡)を
 整備した用水路であり、星川も古い時代には荒川の派川の一つだったといえる。
 とりわけ、星川の場合は古代には荒川の主流筋だったこともあり、現在、星川は元荒川へ
 合流して終了するが、合流地点から下流の元荒川は元来は星川の流路だったとする説もある。
 熊谷市の北東部の荒川扇状地は、妻沼低地へと連続する低地であり、ここは古い時代には
 荒川と利根川の乱流域だったので、星川が利根川の派川だった時代も存在したはずである。
 同様に現在は利根川の支川である
福川は、古代には荒川の支川(あるいは主流)だったこともある。
 紛らわしいことに、熊谷市内にはもう一つ星川という河川があり、市の中心部を
 流れているが、そちらは
忍川(一級河川、元荒川の支川)の源流となっている。

 2つの側面〜農業用水路と排水路:
 星川の上流部(管理起点から行田市小見までの約8Km)は上星川、
 下流部(菖蒲町上大崎の十六間堰から終点までの約8Km)は下星川と呼ばれている。
 ただし、上星川、下星川という名称は歴史的・地域的な通称であり、河川管理上の正式名ではない。
 中流部の行田市小見から菖蒲町上大崎までの区間は、見沼代用水の水路として使われている。
 この区間は古くは星川通見沼井筋などと呼ばれたが、現在は共用区間という。
 もっとも地元の人は共用区間とは呼ばずに、単に[見沼]と呼んでいる。三面護岸が施され、
 用水路としての印象が強すぎるので、確かに自然河川としての星川の存在は希薄になっている。

 星川は中流部までの区間では、少なくとも5つの用水路(上流から古宮用水、斎条用水、
 酒巻導水路、新川用水、黒沼・笠原沼用水)が取水していて、農業用水路としての役割が大きい。
 酒巻導水路は昭和初期の新設だが、それ以外は江戸時代から存在する古い用水路である。
 酒巻導水路の利水形態はちょっと変わっていて、福川から酒巻導水路を経由して星川へ農業用水を
 送水し、合流地点のすぐ下流で再取水している。いずれにせよ福川と星川は水利的に繋がっている。

 また、現在の星川に流れている水は、その水源を辿ると、荒川(成田堰用水経由)、
 福川(酒巻導水路経由)、利根川(見沼代用水経由)と多彩である。
 下星川から下流は排水専用河川となる。下星川への流入量
の調節をおこなうために
 下星川の起点(見沼代用水との共用区間の終点)に設けられた施設が
 十六間堰と八間堰(共に見沼土地改良区が管理)である。

 星川の近代化遺産:
 星川の上流部では昭和初期に実施された元荒川及び支派川の改修事業によって、
 河道の改修と構造物の改築がおこなわれた。星川にはその時に建設された古い橋や堰が
 今も数多く残っている。→
星川の古い橋
 なおこの事業のさいに、星川の支川だった
長野落関根落は流路が変更され、
 現在は共に
野通川の支川となっている。旧忍川が廃川となったのもこの時である。

(追補)星川の馬見塚橋、大和橋、見沼代用水橋梁は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産の
オンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

  星川の起点
(1)星川の起点 (上流から:熊谷市上川上〜上之)
 龍淵寺の西側200mの地点に設けられている。
 大理石に[一級河川
 星川起点]と刻まれている。
 標高約20mの市街地が一級河川の起点なのだ。
 武蔵国郡村誌の埼玉郡上之村には、”龍淵寺の
 付近に湧水があり、星川の水源となっている”と
 記されているが(注1)、現在は枯れている。
 なお、熊谷市には一級河川の管理起点が
 3つある(星川、元荒川、
忍川)。
   星川の起点付近(下流から)
  (2)星川の起点付近(下流から)
   手前の左岸堤防上に星川の管理起点が設置されている。
   奥は新星川(準用河川)、新星川には清水尻橋が架かる。
   新星川の左岸(写真右側)には、上之調節池の建設が
   進められている。洪水時にはピーク流量の一部は
   左岸堤防に設けられた横越流堰から、上之調節池へと
   導水される。調節池の建設に伴い、新星川は河道が
   拡幅されているようで、星川の起点付近では、
   星川よりも新星川の方が川幅が広い。

上之調節池
(3)上之調節池 (左岸から:熊谷市上川上〜上之)
 市街化の進展に伴う洪水対策として建設された、
 上之調節池だが、市街地に出現した大きな水場は
 野鳥の憩いの場ともなっている。
 奥に見えるのは、2004年開催の埼玉国体に向けて、
 急ピッチで建設中のくまがやドームと陸上競技場(注2)

   龍門橋の付近
  (4)龍門橋の付近(上流から:熊谷市上之)
   管理起点から400m下流、国道17号熊谷バイパスの
   上之(北)交差点の付近。龍門橋(りゅうもん)の下流から
   星川はコンクリート護岸となる。なお、この地点から800m南の
   一乗院の脇には明治36年竣工の
秋葉前堰(煉瓦造)が
   残っている。成田堰用水(荒川の六堰から取水)の末流である。

古宮堰
(5)古宮堰 (上流から:熊谷市下川上〜上之)
 管理起点から1.3Km下流。雷電橋の下流には
古宮堰
 設けられていて、右岸から古宮用水(農業用水)へ送水
 している。写真の奥は古宮神社(岩倉大明神)の社叢林。
 社殿の右には、忍領に顕著な
塞神が祀られている。
 なお、雷電橋の名前は上流右岸に鎮座する上之村神社に
 由来する。雷電社、久伊豆神社などが合祀されている。
 星川は昭和初期に実施された
元荒川支派川改修事業
 関連して大規模な改修が行なわれている。現在の
 古宮堰は同事業によって、昭和7年(1932)に建設された
 古宮堰自体は江戸時代から存在する歴史の古い堰だ。
 なお、星川のコンクリート護岸はこの付近で終了する。

   愛染橋の付近
  (6)愛染橋の付近(上流から:熊谷市下川上〜池上)
   管理起点から2Km下流。右岸の熊谷市池上には行田市の
   飛び地が広範囲に分布している。近世以前、利根川(および荒川)は
   幾筋にも乱流して流れていたが、星川はその準本川だったという。
   周囲の地形には自然堤防が見られ、かつての氾濫原や
   氾濫によって形成された微高地の面影が残っている。
   愛染橋(注3)の100m上流には、
木の橋が架かっているが、
   実は100m下流(写真中央)にも木の橋がある。こちらは
   鉄パイプの橋脚の上に板を渡しただけの非常に
   チ−プな造りなので、渡るのには勇気がいる。
   なお、ここから600m下流の右岸、行田市上池守の
   天満宮(天神社)には
芭蕉の句碑が祀られている。

(注1)江戸時代末期に編纂された新編武蔵風土記稿の埼玉郡之一(10巻、p.93)には
 ”星川:大里郡広瀬村にて荒川を分水す、是を成田用水と云、それより
 石原村にて二流となり、一流は上ノ村小宮堰の下に至り、始て星川と名づく、
 同村成田龍淵寺の境内龍ヶ淵より湧出する水と合ひ、東流し郡中篠津村にて
 元荒川に合す、川幅十三間余”とある。
 上ノ村小宮堰とは写真(5)の熊谷市上之の古宮堰のことであり、
 かつてはここから下流が、星川と呼ばれていたことがわかる。
 成田用水とは成田堰用水のことであり、忍城主だった成田氏が
 農業用水や生活用水確保のために開削した水路。
 成田氏は久伊豆神社を信仰し、成田堰用水の沿線に用水路の守護として、
 久伊豆神社を祀った。例えば赤城久伊豆神社(石原)、上之村神社などである。
 なお、龍淵寺は成田家時が応永十八年(1411)に開いたもので
 以来、成田氏の菩提寺であり、現在も境内には成田氏の7基の墓が残っている。
 忍城に移るまでの約400年間、成田氏の館は現在の熊谷市上之にあった。
 写真(4)から南へ300mの付近は、上之字堀の内という。成田小学校から北東へ
 200mの地点に成田氏館跡と刻まれた石碑が建てられている(熊谷市指定文化財)。

(注2)熊谷市上川上のスポーツ文化公園の一帯は、天神河原と呼ばれ、
 かつては湧水が多い沼沢地だった。明治9年編纂の武蔵国郡村誌、
 埼玉郡上川上村(13巻、p.275)によれば、天神河原には三畝溜井と
 呼ばれる農業用の貯水池が設けられていて、六ヶ村(上川上、下川上、
 上中条、大塚、南河原、中江袋)のかんがい水源として利用されていた。
 旧中条村や奈良村には昭和20年頃まで、数多くの溜井が分布していたが、
 それらは耕地整理のさいに潰されて、今は水田に変わってしまったのだという。
 なお、地元では溜井ではなく、種井と呼んでいたという。
 この付近は荒川扇状地の扇端に位置し、湧水が豊富だったため、
 律令制頃の古い時代から人々が居住し、水田が開発されていた。
 熊谷市の北東部から妻沼町にかけて、
余計堀やさすなべ落新奈良川の周辺には
 荒川と利根川の氾濫原だった頃を彷彿とさせる地形が今も残っている。
 荒川扇状地は現在の荒川の流路とは、まったく別の方向である北東に
 向かって放射状に展開している。古代の荒川の流路変遷の跡である。

(注3)愛染橋(あいぜん)の名前は星川の左岸に隣接した愛染堂に由来する。
 愛染堂は大同三年(808)の洪水の時に、星川に流れ着いた愛染明王像を村人が見つけ、
 この地にお堂を建てて祀ったものだという(→熊谷の歴史、熊谷市立図書館、p.10)。
 愛染が藍染に通じることから、愛染堂は染色業者の信仰が厚いのだそうだ。
 ちなみに、中川水系には愛染堂の事例の様な仏像の漂着伝承が多く、
 近隣では観音堂(
元荒川、吹上町前砂)、天洲寺(見沼代用水、行田市荒木)、
 総願寺(不動尊、
会の川、加須市不動岡二丁目)にも同様な伝承がある。


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