忍川 (おしかわ) (その2) (その1)(その3)  [忍川のページ一覧

 撮影地:埼玉県行田市(ぎょうだ)

 国道17号バイパスの付近
(1)国道17号バイパスの付近(右岸から) 行田市小敷田
 忍川は掘込河道であり、はっきりとした堤防はない。
 上流の左岸へ平戸都市水路(雨水)が合流している。
 古い時代から忍川の流域では人々が生活を営んでいた。
 左岸の小敷田地区では、弥生時代中期(紀元前一世紀頃)
 の方形周溝墓(埼玉県現存最古)の遺跡も見つかっている
 この付近は荒川扇状地の扇端に位置し、湧水が豊富
 だったため、古くから水田として開発され、一帯には
 条里(律令体制化の区画整理された土地)があった。
 右岸の持田地区には、油免という地名も残っている。
 なお小敷田の東隣の中里地区には、蔵殿(ずどん)という
 地名があるが、忍川の周辺にはこれと似た杣殿、ソウトノと
 いう地名も分布している。→
 蔵殿やソウトノについて
 ここから1Km下流の忍川の右岸、持田地区の長福寺には
 文化八年(1811)銘の
石橋七箇所建立供養塔(道標と
 巡礼供養塔を兼ねる)がある。
 かつては忍川に石橋が架けられていたのだろうか。
   吹上橋の付近
  (2)吹上橋の付近(上流から) 左岸:行田市谷郷、右岸:矢場一丁目
   (1)から2.4Km下流。秩父鉄道は熊谷駅から行田市駅までの
   区間、忍川の右岸側に並走しているが、この付近では路線は
   忍川に最も近づいている。忍川の右岸堤防が秩父鉄道の
   築堤盛土を兼ねている印象さえある。秩父鉄道には
   
煉瓦造りの鉄道橋が数多く残っている(もちろん現役である)。
   行田市に入ると、忍川の特徴として目に付くのは数多くの
   樋門(例えば写真左端の水門)が設置されていることだ。
   ほとんどが左岸側にあり、忍川へ農業排水や生活廃水を
   放流している。吹上橋の上流から行田市駅までの区間には、
   境堀、中里排水路、持田川、和田堀、和田排水路、谷郷排水路が
   合流している。和田排水路と谷郷排水路には、昭和12年竣工の
   
神橋(春日神社の参道橋)が架かっている。春日神社は
   戦国時代に忍城主だった成田氏が、奈良県の春日神社を
   勧請したのだという(注1)
   なお、ここから500m上流の左岸、
皿尾地区には
   明治34年(1901)竣工の煉瓦造りの堰などが3基も残っている。

 翔栄橋の付近
(3)翔栄橋の付近(上流から)
 左岸:行田市栄町、右岸:行田市中央
 (2)から700m下流。翔栄橋の右岸には秩父鉄道の
 行田市駅が位置する。この付近になると、忍川の川幅は
 約30mとかなり広くなる。(2)で述べたように数多くの支川が
 合流しているので、それらからの排水を安全に流下させる
 ために、近年に河道の拡幅工事が実施されたからだ。
 反面、忍川の水質は見た目にも極端に悪くなる。
 かつては忍沼(跡地は水城公園や行田市役所)へ
 落とされていた悪水(農業排水や雨水)は、昭和初期に
 実施された
忍川の改修工事によって、主に忍川へと
 落とされるようになった。ここまで東へと流れてきた
 忍川だが、翔栄橋の下流付近から流路を南へと変える。

   酒巻導水路の合流
  (4)酒巻導水路の合流(下流から)
   右岸:行田市宮本町、左岸:行田市桜町一丁目
   (3)から500m下流。右上隅の白い建物は谷郷ポンプ場。
   雨水の排水機場だ。ポンプ場の横では
酒巻導水路
   忍川へ合流している。福川(利根川水系の一級河川)から
   取水する農業用水路である。昭和初期の元荒川支派川
   改修事業のさいに開削された。支線水路である
玉野用水路
   忍川の左岸に並行して、忍川の終点付近まで続いている。
   酒巻導水路は忍川へ合流して役目が終了というわけではなく、
   その余水は忍川を間接的に経由して、元荒川へ送水されている。
   酒巻導水路が忍川へ合流する地点に架かるのは花見橋。
   この付近の忍川は、かつては花見の名所であったという(注2)
   忍川の左岸側と酒巻導水路の両岸には桜並木が整備されている。

 秩父鉄道の忍川橋梁
(5)秩父鉄道の忍川橋梁(下流から)
 右岸:行田市宮本町、左岸:行田市桜町一丁目
 (4)から100m下流。写真は小沼橋から撮影。
 秩父鉄道の
忍川橋梁は、大正10年(1921)頃に
 北武鉄道によって建設された。北武鉄道とは羽生町と
 熊谷町を結ぶ私鉄だったが、その名で営業していたのは
 わずかに1年間であり、大正11年には秩父鉄道と
 合併して消滅している。忍川橋梁は筆者の知る限り、
 忍川に架かる最も古い橋だ。桁は鋼製であり、橋台と
 橋脚は当時の先端の建材である煉瓦で造られている。
 この付近の川幅は大正時代から変わっていないことになる
 なお、忍川橋梁の左岸側には、元禄四年(1691)銘の
 
弁財天(水の神様)が祀られているが、立像は珍しい。
 (6)で述べる河岸場との関連性があるのか、興味深い。

   小沼橋の付近
  (6)
小沼橋の付近(上流から)
   左岸:行田市桜町一丁目、右岸:行田市行田
   忍川(下忍川)は見沼代用水と繋がっているので、明治時代には、
   この付近に小沼河岸(
見沼通船会社の第1会社)が置かれていた。
   第1会社は星川(見沼代用水)の
須戸橋付近にも設けられていた。
   かつては忍川では見沼代用水、芝川、隅田川を経由して、
   神田や日本橋(共に東京都)の河岸場との間で舟運が
   展開されていたのだが、今ではその面影はみじんもない。
   小沼橋の橋詰に設置された階段式の親水護岸は河岸場への
   オマージュなのだろうか。また小沼橋の右岸橋詰付近には、
   かつて忍城の長野口(15あった門のうちのひとつ)があった。
   明治から大正期にかけては、吹上町との間を運行していた、
   忍馬車鉄道の発着点でもあった(注3)。なお、右岸下流の
   大長寺には寛政年間(1790年頃)建立の
芭蕉の句碑がある。

(注1)埼玉県伝説集成 中(p.401)には、谷郷の春日神社に関して、
 「春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。
  そのため谷郷の人の片目は細い」と記されている。いわゆる片目伝説である。
 行田市埼玉の
小埼沼にも、沼にまつわる片目の伝承がある。

 行田市本丸に鎮座する諏訪神社は、成田氏が忍城を築いたさいに
 勧請したとされている。境内社として残る多度神社・一目連神社は
 元来は忍城内に祀られていた。武蔵国郡村誌の埼玉郡成田町(13巻、p.177)に
 よれば、これらは文政九年(1826)に忍城主
 松平氏(伊勢桑名から移る)が
 旧領である伊勢国多度山から勧請したもの。多度神社の祭神は天津彦根命、
 一目連神社の祭神は天目一箇命(天津彦根の子)だ。
 近隣には
吹上町大芦に一目連が2社あるが、多度神社は珍しい存在である。

 なお、諏訪神社の周辺には変わった神社が多い。八幡神社(行田市行田)の
 境内社には目の神社(めのかみ)があり、祭神は味鋤高彦根命(あじすき)。
 これは出雲系の神であり、月輪神社(比企郡滑川町月輪)、
 高負彦根神社(比企郡吉見町田甲)、高根神社(大里郡江南町小江川)、
 千勝神社(北葛飾郡鷲宮町中妻、大己貴命との二柱)などにも祀られている。
 行田市持田には剣神社がある。日本武尊が当地で休息したとの伝承があり、
 草薙の剣を御神体とする。行田市には剣神社が他にも2社ある。
 行田市斎条、行田市中江袋(旧南河原村)である。

(注2)正確には桜の名所は花見橋の付近ではなく、花見橋から北東へ500mの
 長久寺の付近だったようである。武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
 埼玉郡長野村(13巻、p.191)には、「桜塘:〜中略〜長久寺前にあり長さ百間巾三間
 往時桜樹数百株ありて近辺の美観なりと云ふ
 又塘の傍ふて一道あり古来桜馬場と称す
 是れ字馬場の名称の起源なり」とある。
 今は馬場(ばんば)という地名は残っていないが、記憶している古老は多い。
 なお、現在の桜町という名称は桜塘に由来するのだろうか。

(注3)馬車鉄道とは馬車がレールの上を運行する方式であり、通常の
 馬車よりも牽引力が小さくて済むという利点があった。つまり同じ馬立ての
 馬車よりも旅客や荷物を多く輸送できるのである。
 明治16年(1883)に高崎線(当時の呼称は中山道鉄道)が開通し、
 明治18年には吹上駅も開業している。しかし、忍町は高崎線の路線から
 外れたために、最寄の駅は吹上駅のみであった。
 そして、忍町と吹上村を結ぶ交通手段の必要性を痛感した忍町の有力者が
 設立したのが、忍馬車鉄道である。忍町は明治中期から足袋産業が発展し、
 最盛期には全国の生産量の8割を占めていた。今も行田市の中心部には
 
足袋産業に関連する建築物と約100基もの足袋蔵が残っている。

 しかし忍馬車鉄道の開業は明治34年(1901)と遅かった。
 明治38年には、経営の悪化を理由に営業体制の刷新を図り、行田馬車鉄道と改称している。
 延長約4Kmの路線を一日12往復する馬車鉄道だったが、経営状況は困難を極めた。
 大正9年(1920)に忍町〜吹上村間に乗合自動車が営業開始、
 大正11年(1922)には忍町〜羽生町間に北部軽便鉄道(のちに北武鉄道)が
 開通したことによって、経営は大打撃を受け、大正12年(1923)4月に
 行田馬車鉄道は全線が廃止された。なお北武鉄道設立の中心人物である指田義雄は
 北埼玉郡袋村(現在の吹上町袋)の出身である。

 現在、忍馬車鉄道の痕跡は、行田市、吹上町に一切残っていない。
 ただし、下町(しもまち)の小沼橋バス停(行田市行田25付近)の脇には、
 行田市教育委員会による、行田馬車鉄道発着所跡の碑が建っている。
 行田市の前身となったのは忍町だが、忍町には行田という小字が
 存在したので紛らわしい。北埼玉郡忍町は行田町、成田町、佐間村が合併して、
 明治22年(1889)に誕生した。忍町には北埼玉郡の郡庁が置かれた。
 さらに紛らわしいのは、忍町の近隣には北埼玉郡成田村が存在したことだ。
 成田村の村域は現在の熊谷市上之、箱田、上川上に相当する。
 ともかく、忍馬車鉄道創設時の取締役は忍町行田在住だった。

 一方、がんがら大橋(がんがら落、行田市前谷〜吹上町鎌塚)には
 忍馬車鉄道の運行の様子を図化したプレートが埋め込まれている。
 なお、忍馬車鉄道は佐賀橋(木製桁の鉄道橋)で元荒川を横断して
 吹上町へ入ったのだが、その施工図(1900年、飯塚工業製図)が、
 2002年に発見された。これは現在、吹上町郷土資料館に収蔵されている。


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