福川 (起点から唐沢川まで) [福川のページ一覧]
撮影地:埼玉県大里郡岡部町、深谷市、熊谷市
福川は延長21Km、流域面積77Km2の利根川水系の一級河川。
源流(最上流)は大里郡岡部町にある。岡部町岡を管理起点とし、流路は小山川の
南側1.5Kmに並行して、深谷市、熊谷市、妻沼町と東に向かって流れ、最後は行田市酒巻で
利根川の右岸へ合流する。流路の大半は平地(妻沼低地)にあり、平均的な河床勾配は緩い。
福川の主な支川には新奈良川、道閑堀、奈良川がある。
福川は用排水兼用の河川である。農業用水の水源としても重要であり、北河原用水、
酒巻導水路などが取水している。福川から取水された水は再び福川に戻ることはなく、
最終的には他水系(荒川水系や中川水系)へ排水されている。北河原用水の流末は見沼代用水、
酒巻導水路の流末は忍川を経由して、元荒川へ流れ込んでいる。
現況:
福川の上流部は、農村風景の中をのんびりと流れる農業排水路の印象が強いが、下流部は
巨大な堤防に囲まれ(河道貯留による洪水調節を目的としている)、支川が福川へ合流する地点には、
排水機場(全部で5箇所)が設けられている。つまり、洪水時には福川の水位が高くなり、支川は
自然排水が不可能ということである。利根川の背水の影響は福川の支川にまで波及している。
排水機場は現在のところは内水排除に効果があるだろうが、福川の流域は都市化が進行しているので、
洪水時に最下流の福川水門を閉じると、今度は上流域の内水被害が顕著になる日がやがて来るだろう。
福川を起点から終点まで辿ってみると、河相の変化が極めて大きいことが実感できる。
大河:利根川の支川という宿命を背負った河川である。
改修の歴史:
福川は太古には(利根川ではなく)荒川の派川であり、昭和初期に改修がなされるまでは、
頻繁に蛇行を繰り返して流れる老朽化河川だった。河床勾配が緩く、河積が小さい
(川幅が狭く、かつ土砂の堆積で流路が埋まっている)うえに、本川には5箇所に農業用水の
取水堰が設けられていた。さらに合流先である利根川の水位が高いために、排水不良が
顕著で流域に湛水被害をもたらしていた。しかも福川の下流部は明治時代末期まで、
利根川の遊水地として利用されていた。その名残りである中条堤が現在も残っている。
大正10年から昭和6年にかけて実施された県営の河川改修(13河川の改修事業)によって、
福川は河積の拡大(拡幅と浚渫)、取水堰の撤去・改良、流路の変更がおこなわれた。
これによって蛇行部分の大半は取り除かれたので、現在の流路はおおむね直線となっている。
福川の旧流路は延長が24Kmあったが、新流路の延長は16Kmへと縮小されている。
特に妻沼町の区間では旧流路のほとんどが廃川とされ、新規に水路が開削された。
旧流路の路線がそのまま残されたのは、上江袋と西城の合計約3Kmくらいである。
なお、県営河川改修での工事区間は、唐沢川との合流地点(写真5)から利根川への
合流地点までだった。最下流には利根川からの逆流を防ぐために福川樋門が設けられた。
ただし、福川樋門(煉瓦造り。現在の福川水門の一代前)を建設したのは、埼玉県ではなく
内務省であり、当時実施されていた利根川の第3期改修工事(1909-1930)の特殊工事として
建設された。その福川樋門も後年の河川改修に伴い、施設規模が河川計画にそぐわなくなり、
現在の巨大な福川水門が建設されるに至った。
![]() (1)福川の源流のひとつ(下流から) 岡部町岡 源流は櫛引台地の北端にあるのだが、湧水などの いわゆる山地水源ではないので、源流から既に コンクリートの水路である。流れが急なのか水路には 落差工が設けられている。哀しいかな、既に水路には 生活排水が流入している。写真上部は旧中山道に 架かる岡の煉瓦橋。付近には岡の百庚申がある。 百庚申を過ぎると、旧中山道の路線は崖下へ降りる。 |
![]() (2)福川の管理起点(上流から) 岡部町岡 源流(1)から400m下流、道の駅おかべの南側に一級河川の 管理起点が設置されている。福川の源流は台地からの 排水(雨水や表面流)を集める複数の細流だが、平地へ 移る中宿歴史公園の付近で一つの流れとなる。 中宿歴史公園は、7世紀末の古代倉庫群の跡地。 岡には四十坂古墳群もある。この付近では古い時代から、 人々が生活を営んでいたのである。 |
![]() (3)美済橋の付近(上流から) 岡部町普済寺 写真(2)から1.3Km下流。岡部町内での福川流域の 典型的な景観。直線河道の福川が、広大な水田地帯の 中を流れる。福川は法面勾配が緩く計画されているので、 川幅が広く、上流部なのに意外に通水断面は大きい。 低水路が設けられた複断面だが高水敷はほとんどない。 右岸からは櫛引用水(荒川から取水)の流末が合流する。 |
![]() (4)新菱川堰の付近(上流から) 深谷市起会 写真(3)から1.4Km下流。この付近から緩傾斜の護岸から 石積み風の護岸へと変わる。新菱川堰は農業用水の取水堰。 形式はラバーダム(ゴム堰、河床幅14m)で右岸から取水している。 菱川とはこの付近の福川のかつての名称。ここから下流では 丈方川(注1)とも呼ばれていた。昭和初期におこなわれた河川改修で 菱川、丈方川が福川へ統合されて現在の形態となった。 |
![]() (5)唐沢川を横断(上流から) 深谷市西島 写真(4)から1.8Km下流。福川(手前)が唐沢川(奥)の 下を伏せ越しで横断する。一級河川同士の立体交差は 珍しい。奥に見える建物は福川伏越(2001年竣工)の 上屋。伏越にはローラーゲート2門と除塵機が装備され ている。昭和初期まで、この地点では上唐沢川、 下唐沢川、菱川の3河川が合流していた。唐沢川は 福川(丈方川)の支川であったが、現在は合流先が 小山川へと変更されている。なお、福川伏越から600m 下流の左岸には、ブリッジパークが整備されている。 |
![]() (6)別府沼落(上流から) 熊谷市西別府 かつて福川には菱川以外にも源流があった。その一つが 深谷市と熊谷市の境界に広がっていた沼沢地、別府沼である。 別府沼の水源は荒川扇状地の湧水だったと思われる(注2)。 国道17号線のバイパス(上武道路)の西側に位置する、 別府沼公園は別府沼の跡地を公園化したもの。 別府沼からは北方に向かって、落し(排水路)が流れ出す。 これが写真の別府沼落であり、1Km北東の江袋沼 (妻沼町上江袋〜原井)へと繋がっている。 江袋沼は福川の右岸に位置し、福川とは水利的に連続している。 |
(注1)丈方川の名は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の
幡羅郡(10巻)で随所に見られる。以下の村を流れていたことがわかる。
上流から順に、東方村、宮ヶ谷戸村、上増田村、本田ヶ谷村、
堀米村、下増田村、市の坪村、飯塚村、原井村、道ヶ谷戸村。
上江袋村から福川という名称に変わるので、江袋溜井から下流が
福川と呼ばれていたことになる。現在の国道407号妻沼バイパスから下流である。
なお、丈方川の南側には、城北川と呼ばれる別の流れが存在した。
例えば原の郷村(前掲書、p.190)には
”城北川:深処四尺浅処二尺巾八間乃至四間三尺 緩流濁水堤防あり
村の北方上敷免村より来り 東に流れ東方村に入る 其の間二十町五十間”とある。
城北川の流末は東方村から西別府村へ入り、別府沼へ流れ込んでいたと思われる。
深谷市東方の熊野神社付近には、当時の流路跡と思われる段丘崖が広範囲に残っている。
(注2)熊谷市西別府の付近は、利根川水系と荒川水系の分水界でもある。
別府沼は荒川扇状地の扇端に位置している。かつては別府沼の西に位置する、
湯殿神社の境内にも湧水があり、別府沼へ注いでいたようだ。
新編 武蔵風土記稿の幡羅郡西別府村(11巻、p.187)に沼と記述されているのが、
別府沼である。”長十六町、幅三十間、鎮守権現の御手洗池と呼び、
即村の用水とす、これ福川の水上にて、流末江袋溜井に入る”とある。
長さ1.7Km、幅54mと細長いので、沼というより河川に近い形態だったようだ。
福川の水上(源流)とはっきり記されている。前掲書の原井村(11巻、p.203)には
別府沼落は江入川と記述されている。
なお、別府地区は荒川扇状地と櫛引台地の境界に位置するので、
湧水が豊富だったのだろう、古くから水田として開発され、この一帯には
幡羅郡の条里があった。当時の土木技術では荒川や利根川などの大河川から
直接、取水する水路を建設することは不可能だった。それ以前にそれらの大河川の
周辺には堤防など築かれていなかったので、洪水の危険が大きく、定住するには
不向きだった。当時のかんがい方式は、天水(雨水)や湧水に依存した。
写真(6)から南東へ600mの地点には、別府条里再現の碑(昭和51年建立)がある。
土地基盤整備事業を記念して建てられたものである。