都幾川 -
長楽落合橋の付近(長楽堰から終点まで) [都幾川のページ一覧]
撮影地:左岸:埼玉県比企郡川島町長楽(ながらく)、右岸:東松山市早俣(はやまた)、都幾川の河川敷
(注)本ページの画像は、Nikon COOLPIX 995 (334万画素)で撮影しました。
↑長楽堰(右岸から) 長楽堰は長楽用水(農業用水路)の取水堰。 長楽落合橋から上流へ約1.2Kmの地点に設けられている。 形式はコンクリート製の斜め堰(川岸に対して斜めに 配置された固定堰、都幾川には数多く見られる)であり、 全幅は約50m。左岸から農業用水を取水している。 水叩きの長さは2.5m、堰の中央部には幅5m、 深さ0.3mの水通しが設けられている。これは流心を 安定させるためだろう、あるいは筏流しが盛んだった頃の 名残りだろうか。 |
↑長楽樋管(左岸堤防付近の河川敷から) 長楽用水の元圦である。長楽堰から下流へ約400mの 左岸堤防に設けられている。長楽堰から長楽樋管までは 堤外水路(都幾川の河川敷に設置)で導水されている。 堤外水路の幅は約4m。長楽樋管は昭和43年(1968)年に 現在の施設に改修されたが、それまでは煉瓦造りの 樋管だった。 → 埼玉県の煉瓦水門 なお、長楽用水には現在も煉瓦造りの水門が3基残っている。 長楽用水掛樋(明治30年建設)、京塚樋管(明治36年建設)、 山王樋管(明治34年建設)である。 |
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↑修堤記念碑(都幾川の左岸) 早俣橋から北へ150m、 左岸堤防の裾、 長楽氷川神社の境内。 |
大正3年(1914)12月建立。 大正2年8月27日の洪水で 都幾川の左岸堤防は長楽地区で 4箇所、百間(約182m)に渡り、 決壊した。この碑はその修復工事の 竣工を記念したもの。 工事は地元(中山村)が請負い、 県の松山工区の監督の下、 大正3年1月10日に起工し、 同年8月27日に竣工している。 被災から完全復旧までに 丸一年を費やしている。 784間(約1425m)の築堤を 行なったと碑文にある。 決壊部分の修築だけでなく、 堤防の増強も行われたのだろう。 裏面には埼玉県技手 小林近蔵、 土木技手 光山三次、村田幸吉、 地元請負人 宇津木松五郎、 工事委員5名の名前と共に、 長楽住民一同と記されている。 なお、この洪水では荒川の右岸堤防も 吉見町上砂で決壊している。 その修堤記念碑も残っている。 |
←都幾川の終点(越辺川への合流地点) 東松山市を南下してきた都幾川は、この上流付近から 流れを東へと大きく変える。写真の手前が都幾川の左岸、 中州を挟んで奥が越辺川。都幾川は越辺川の左岸へ 合流して終わる。合流地点の上流側は漏斗状に広がっていて、 (増水時には遊水と河道貯留を兼ねるのだろう)、最も広い所は 堤防間の距離が約500mもある。合流地点では堤防間は約300mへと 狭まる。河川敷内には長楽落合橋と赤尾落合橋という2基の 冠水橋(潜水橋、沈下橋)が架けられている。ここはかつては 渡し場であり(注)、都幾川の左岸堤防の裾には[早俣渡 落合渡]と 記された丸太の道標が残っていて、往時を偲ばせる。 写真の左側に見えるのは、越辺川水管橋と天神橋。 なお、この地点から500m上流の都幾川の左岸、 東松山市正代〜早俣には、煉瓦造りの水門、 小剣樋管(大正3年建設)が残っている。 |
(注)武蔵国郡村誌の比企郡長楽村(6巻、p.132)には、長楽河岸と渡しの様子が
わずかだが記録されている。なお、郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されている。
荷船二艘(五十石積)、渡船一艘とある。五十石積の船は米俵が125俵積める、
かなりの大型船である。これらはヒラタ船あるいは高瀬船(大型の帆船)であろう。
同書の早俣村にも河岸場(早俣河岸)の形跡が記されていて、
似ヒラタ船六艘、川下船六艘の合わせて12艘が計上されている。
なお、2つの落合橋(冠水橋)の付近には、似たような変わった地名がある。
川島町長楽が蔵殿(づうどの、ぞうどの)、坂戸市赤尾(堤外)がズウドン。
埼玉県にはこれらと似た(転訛したと思われる)地名や神社名:頭殿(づどの)、
重殿(じゅうどの)、十殿、尉殿、通殿などが意外に多く分布している。