荒川 - 大芦橋から糠田橋 [荒川のページ一覧]
撮影地:左岸:埼玉県北足立郡吹上町、右岸:埼玉県比企郡吉見町
(1)水辺の神様 比企郡吉見町中曽根 荒川の周辺(堤防付近)には、江戸時代に建立された、 民間信仰の石仏が意外に多く残っている。荒川に 隣接するという地理的条件から、水神宮、九頭龍、 弁才天などの水の神様を祀ったものも多い。 荒川水管橋から500m下流の右岸堤防の裾には地蔵1体、 2基の庚申塔、明王1体が祀られ、お申堂(おさる)と 呼ばれている。写真の左端から地蔵(首が破損)、 隣の庚申塔は明治三十年(1897)建立の笠付の文字塔。 庚申御寳前と題されている。中央の庚申塔は延宝二年 (1674)の建立。像容は青面金剛ではなく、三猿の像と 二羽の鶏。講中六名の名が記されている。荒川の 中流部には、このような古い庚申塔が数多く分布する。 右端の明王は享和三年(1803)建立。 なお、吉見町では路傍の庚申塔の脇に、鳥居が建てられて いる事例が多い。写真の石仏群にも鳥居がある。 |
(2)上砂堤の修堤記念碑(右岸堤防) 比企郡吉見町上砂 荒川水管橋から1.3Km下流。大正2年(1913)8月27日の 洪水で、この地点の右岸堤防(上砂堤)は113間(203m)に 渡って決壊した。復旧工事は地元が請負い、埼玉県の 直営(松山工区)の下、地元民を動員して人力作業で おこなわれた。この石碑は工事の竣工を記念して、 北吉見村上砂の人々によって、大正三年(1914)八月に 建てられたもの。題字は△洲田櫓。 この年の洪水は荒川水系に甚大な被害を及ぼし、 川島町長楽では都幾川の左岸堤防も決壊している。 明治43年の大水害の復旧もままならぬ、3年後の災禍である。 なお、時代の変化と技術の進歩は凄まじく、この付近から 対岸の吹上町明用にかけての荒川の底には、 帝国石油(株)の天然ガス輸送管が埋設されている。 上砂の村社である氷川神社には、荒川の近代改修に関連した 土地収用記念碑(昭和4年建立)もある。 |
(3)左岸堤防(上流から) 北足立郡吹上町小谷(こや) 日枝神社から400m南の付近。左岸堤防上には 荒川北縁水防事務組合の水防倉庫が設けられている。 水防倉庫の脇には明治25年(1897)建立、大正15年 (1926)再建の九頭龍大神が祀られている。 この付近の河川敷内には、昭和初期まで河岸場と 渡船場があった。五反田河岸と五反田の渡(注1)だ。 対岸は写真(5)の吉見町地頭方である。 九頭龍とは水の神様なので、渡船の安全と 水防(荒川の氾濫を鎮める)を祈願したのだろう。 |
(4)荒川の河川敷と河道(左岸から) 北足立郡吹上町小谷 水防倉庫の付近からの眺望。この付近では堤防上から 荒川の河道が見える。左岸側の河川敷には広い範囲に 農耕地が残っている。水田は少なく、ほとんどが畑地で 野菜などが栽培されているようだ。養蚕が盛んだった頃は 一面が桑畑だったそうだ。砂地の土壌が桑の生育に適した のだという。河川敷には所々に小規模な河畔林も見られる。 宝勝寺の西側から河川敷にかけての一帯には、戦国時代に 小谷城があったそうだが、遺構はおろか所在地すらはっきりしない。 なお、ここから500m程下流には荒久の渡(注1)が設けられていた。 |
(5)右岸堤防と荒川自転車道(上流右岸から) 比企郡吉見町地頭方(じとうほう)→(注2) 大芦橋から糠田橋までの区間、荒川の右岸側の 河川敷にはスポーツ施設が連なる。上流からゴルフ場、 下流には吉見総合運動公園が整備されている。 また右岸の堤防は荒川自転車道となっている。 堤防天端が自転車道のようだが、路面が荒れている のだろうか、裏小段を走る自転車が多い。 なお、右岸堤防の裾を流れる横見第一用水路 (下流では文覚排水路)は、中の淵(大芦橋の 右岸にある沼)が起点である。 |
(6)椀箱淵(わんばこぶち) 比企郡吉見町一ツ木 糠田橋の1.2Km上流、荒川の右岸堤防から西へ300mの 地点にある沼。この付近の荒川は狭窄部となっていて、 これまで1Km以上あった堤防間の幅は、ここでは600mとなっている。 椀箱淵は落ち堀(切れ所)跡の沼だと思われる。沼にまつわる伝説も 多いようで(注3)、水辺には竜神を祀った祠もある。現在は椀箱淵は 農業用の溜め池として使われていて、沼の南端には宮川揚水機場が 設けられている(注4)。椀箱淵は文覚排水路へ繋がっている。 椀箱淵の隣の氷川神社、200m北にある荒神社(右岸堤防の裾)にも 九頭龍大権現(水神)が祀られている。荒神社には荒川の近代改修に 関連して内務省が昭和5年に設置した測量の水準点も残っている。 |
(注1)武蔵国郡村誌の足立郡小谷村(3巻、p.233)には、
五反田の渡と荒久の渡について、以下のように記述されている。
なお、武蔵国郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂されたもの。
五反田の渡:”松山道に属し村の西方 荒川中流にあり
渡船人渡一馬渡一 地頭方村に属す 私渡”
荒久の渡:”村の西南隅 荒川下流にあり 小船一艘 私渡”
荒久とは小谷村の小字名である荒句であろう。
荒句と荒久は共に荒地という意味である。
五反田河岸の存在は、武蔵国郡村誌の小谷村の以下の記述から知れる。
”荷船7艘(六十石積1艘、五十石積2艘、五石積1艘、三石積3艘)”とある。
大型の荷船(おそらく帆船で高瀬船)が記録されている。六十石積の船だと
米俵が150俵も積める。小谷村の対岸の地頭頭(当時は北吉見村)にも、
小規模な河岸場集落が形成されていた。こちらも五反田河岸と呼ばれていたようだ。
地頭方の天神社には、境内社として頭殿社が鎮座するが、これは元来は河岸場に
祀られていた。御神燈には天明八年九月 武州横見郡五反田川岸総氏子中とある。
頭殿社は水神を祀った社だろうか。埼玉県には意外に多い。 → 頭殿社について
なお、寛政三年(1791)に建立された五反田の渡の道標が
吉見町地頭方には今も残っている。
(注2)地頭方という変わった地名は、鎌倉時代の荘園制度と
下地中分(したじちゅうぶん)に由来しているのだろう。
下地中分とは荘園領主と地頭の間の土地紛争を治めるために、
鎌倉幕府が仲介した方策であり、荘園領主(領家)の土地の取り分に
対する地頭の取り分が地頭方である。
荒川の流域には上尾市にも地頭方(じとうかた)がある。
上尾市の地頭方には、なんと平方領領家が隣接している。
なお、吉見町地頭方の上流左岸の吹上町には、三丁免という大字がある。
これも鎌倉時代の土地制度に由来するのだろうか。地頭の取り分が壱町免だった。
(注3)新編武蔵風土記稿の横見郡一ツ木村(10巻、p.76)には
”椀箱沼:村の中程にあり、或は宮川とも云、昔此沼に怪異あり、
農家に来客多き時、沼中へ書を投て請求すれば、椀具用に隋て弁ずと云、
故に沼に名くとぞ”とある。
つまり、椀が足りない時に、[お椀をお願い]と書いた紙を
沼に投げ込むと、水中からお椀が現れたというわけだ。水神伝説の一種である。
比企郡川島町の安藤沼(現在は埋め立てられて存在しない、跡地は安藤川)にも
まったく同じ伝説が残っている。
武田信玄の家臣である原氏にまつわる竜神伝承もある。諏訪湖(長野県)の竜神の
加護によって育てられた原氏は、後に一ツ木村に移り住んだのだという。
風土記稿には、椀箱淵を宮川とも言うとあるから、この付近に宮川という河川が
流れていて、その淵(水深が深い箇所)を椀箱淵と呼んでいた可能性もある。
なお、武蔵国郡村誌の比企郡一つ木村(6巻、p.512)によれば、
一つ木村は古来は足立郡箕田郷に属し、建長の頃(鎌倉中期:1250年頃)は
箕田六の郷と称していたが、江戸時代初頭(1610年頃)には
比企郡下吉見領に属していたようである。
箕田郷とは吹上町小谷から鴻巣市箕田一帯を指していた。
(注4)吉見町一ツ木、地頭方周辺の水田は昭和20年代に暗渠排水が施工されている。
一ツ木の氷川神社、地頭方の天満宮にそれぞれ、暗渠排水記念碑が建てられている。
工事面積はそれほど大きくなく、一ツ木が39ha、地頭方が34haである。
暗渠排水とは地下水位を低下させることで、水田の水はけを良くする施設である。