笠原堰 (その1)(その2)
所在地:鴻巣市(こうのす)笠原字沼向、元荒川 建設:1902年
笠原堰は、元荒川にあった農業用水取水のための堰である。その起源は不詳だが、
新編武蔵風土記稿(文政年間:1830年頃の調査を基に編纂)の菖蒲領笠原村(10巻、p.129)に
”承応三年の新造にして、当村及び足立郡鴻巣領の村々、すべて十一村組合の用水とす”とある。
つまり、最初の堰は元荒川上流の堰群よりもやや遅れて、承応三年(1654)に建設されたことになる。
明治期には形式が堰枠になっていたようであるが、木造の堰なので構造的に弱く、
腐朽も激しいので、明治8年、23年と頻繁に補修がおこなわれている。
明治35年(1902)には笠原堰用水普通水利組合が県税の補助(町村土木補助費)と
埼玉県の指導を得て、煉瓦造りの堰に改築した。設計者は埼玉県技手の野村武。
笠原堰のかんがい区域は元荒川右岸の北埼玉郡笠原村(現.鴻巣市笠原、郷地、安養寺)、
左岸の北足立郡常光村(現.鴻巣市上谷、下谷、常光)、加納村(現.桶川市加納、篠津)に及び、
かんがい面積は約260haであった。ただし笠原村の内、郷地と安養寺は上流の宮地堰の掛りだった。
堰の建設地である沼向は、加須道(県道38号加須鴻巣線)と県道77号行田蓮田線が交差し、
笠原村の道路元標が置かれるなど、笠原村の中枢部であった。現在も付近には小学校や公民館がある。
笠原堰の使用煉瓦数は49,000個、ゲート5門なので(埼玉県行政文書 明2488-16)、
古笊田堰(1909年建設、久喜市、備前堀川、現存最大の煉瓦堰)とほぼ同じ規模である。
昭和7年(1932)には元荒川の改修事業によって、笠原堰と小竹堰(菖蒲町、笠原堰から1.5Km下流に
設けられた煉瓦堰)は、上流の宮地堰(鴻巣市鴻巣)に合口されることになり、撤去された。
笠原堰の形跡は、元荒川の左岸に隣接して、記念碑(供養塔)と煉瓦が残るのみである。
なお、笠原堰から上流1Kmの元荒川左岸(現.鴻巣市郷地)には、笠原堰と同年に
本戸樋管(煉瓦造り、現在は撤去)が建設されている。この施設も笠原堰用水普通水利組合が
建設したものであろう。もともと水量に乏しい元荒川であるが、笠原堰の3Km上流には宮地堰が
設けられていて(笠原堰の前年の1901年に煉瓦造りで改修)、わずかな用水まで取り尽くしてしまう。
かんがい悪水を本戸樋管によって元荒川に放流させ、笠原堰でせきとめることによって、
用水として再利用していたと思われる。
ちなみに笠原という地名は、古墳時代に武蔵国造を務めた笠原一族に由来するそうである。
ここから北西9Kmに位置するさきたま古墳群(国指定史跡)は、笠原一族の墓だとされている。
新編武蔵風土記稿には[和名抄]に笠原郷と記載されているのは当所のことだとも記されている。
![]() ↑堰の供養塔? 1939年に笠原堰用水普通水利組合によって 建立された。中心の碑には、笠原堰之跡と 刻まれている。笠原堰に使われていた、 石材(水切りや管理橋)が並べられている。 手前の踏み石は、施設名の銘板。 なお、この脇には享保十四年(1729)建立の 石橋供養塔も祀られている。笠原大橋ではなく 付近の用水路に架けられた石橋のものだろう。 |
![]() ↑水切り(堰柱の先端) 堰の柱となる部材で四角い切り込みの部分へ 堰板(木製のゲート)をはめ込み、取水水位の調整をする。 高さ1m、幅0.7m、厚さ0.35m。 数えたら、9個使われているようだ。 昔のは先端が尖っているのね(@_@;) 水切りの下の石材の側面には、 北側:笠原堰の沿革史と竣工年の銘板、 南側:関係各位名が取り付けられている。 この銘板は堰の翼壁に嵌め込まれていたものだろう。 笠原堰用水普通水利組合は、北埼玉郡笠原村、 北足立郡常光村(以上、現.鴻巣市)、 北足立郡加納村(現.桶川市)によって構成されていた。 |
![]() ↑側壁 記念碑の南側(元荒川の左岸方向)に残る。 長さ11m、天端幅0.5m。 異形煉瓦は使わずに曲面施工されている。 煉瓦の組み方はイギリス積み。 |
![]() ↑側壁天端 最も地上に露出している部分。それでも高さは20cm。 光沢のある赤煉瓦(機械抜き成形)が使われている。 煉瓦の平均実測寸法は、218×104×58mm。 おそらく、日本煉瓦製造の製品だろう。 |