宮地堰

 
所在地:鴻巣市(こうのす)安養寺〜鴻巣、元荒川  建設:1901年

 宮地堰の起源:
 宮地堰元荒川に設けられた農業用水を取水するための堰である。
 1600年頃に建設された草堰が起源のようだが、本格的な堰枠になったのは明治8年(1875)と
 かなり遅い(→鴻巣市史 資料編5 近・現代 1、1992、p.244)。草堰とは草や竹、土俵などで築造した仮設の
 堰のことで、かんがい期間が終わると、水害を免れるために撤去される。それに対して堰枠は角材や板を
 材料とする比較的頑丈な木造の堰で、かんがい期間が終わっても撤去されない恒久的な構造物である。
 堰の形式的にはおおむね、草堰は堰板のない固定堰であり、堰枠は堰板が付けられた可動堰である。

 煉瓦堰建設の経緯:
 宮地堰は上流の村々からの悪水(農業排水)を元荒川に貯留して、用水として再利用する方式だった。
 堰枠にすると洪水期に悪水の流下が阻害される可能性があるので、上流の村々の反対が
 大きかったために堰枠化が遅れたのであろう。堰枠となっても木造の堰は腐朽しやすいので、
 その後も数回の改修が行なわれている。明治34年(1901)には鴻巣町外七ヶ村組合が
 県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、煉瓦造りの堰へと改良した(建設費は約6,307円)。
 旧態な堰が一夜にして、元荒川で一番近代的な堰(煉瓦を使用)に変貌したのである。

 なお、組合の管理者は北足立郡長、組合を構成していた七ヶ村とは北足立郡中丸村、常光村、
 北埼玉郡笠原村、屈巣村、持田村、下忍村、埼玉村であった。宮地堰から遥か上流に位置し、
 かんがい区域ではない持田村、下忍村、埼玉村(全て現.行田市)が組合に属していたのは
 不思議である。もっとも、これらの村々は悪水を元荒川へ落としているので、下流の宮地堰で
 元荒川が堰き止められると、村の排水に支障をきたす。いつ頃から組合に属すのかは不明だが、
 もし自主的に組合に加入したのだとしたら、宮地堰の操作に対して監視や発言する権利を
 保持するのが目的だったと考えられる。悪水を流す権利というのが存在したのだろうか。
 そうだとすると、鴻巣町外七ヶ村組合は純然たる用水組合ではなく、用悪水路組合の機能も
 有していたことになる。

 元荒川の煉瓦堰群の嚆矢:
 宮地堰は元荒川に建設された最初の煉瓦堰であり、以後、元荒川に設けられていた木製の堰は、
 笠原堰(鴻巣市、1902年)、三ツ木堰(鴻巣市、1902年)、榎戸堰(吹上町、1903年)、
 末田須賀堰(岩槻市、1905年)、小竹堰(菖蒲町、1909年)と、競うように煉瓦造りで改築されている。
 宮地堰はゲートが6門、使われた煉瓦の数は約75,000個(表積:焼過一等煉瓦 38,000個、
 裏積:普通一等煉瓦 37,000個、埼玉県行政文書 明2482-18)であり、古笊田堰(久喜市、備前堀川、
 現存最大の煉瓦堰)の1.5倍の規模であった。基礎の工法は当時一般的だった土台木である。
 これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、杭頭の周囲に木材で枠を組み、
 中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを打設した方式である。
 宮地堰
には基礎杭として松丸太(長さ15尺:4.5m、直径6寸:18cm)が203本使われている。
 現在の宮地堰は昭和7年頃の元荒川改修事業によって建設されたもので、煉瓦造りから
 コンクリートへと全面的に改修されている。宮地堰の下流の2つの煉瓦堰、笠原堰(3Km下流)と
 小竹堰(4.5Km下流)は、宮地堰に合口されることになり廃止された。

 耕地整理の影響:
 宮地堰の建設当時、鴻巣町と常光村は連合して、近代的な手法(のちに鴻巣式と呼ばれ
 全国的な理想モデルとなった)による耕地整理を実施中であった。下流の中丸村(現.北本市、
 宮地堰の建設申請書にも連名している)では、耕地整理によって悪水の流下量が増大すること、
 谷田用水の既得水量が脅かされることを恐れ、再三に渡り北足立郡長に対して
 耕地整理中止の請願書を提出している(→文献53、p.189-197)
 なお、元荒川には宮地堰の右岸側に、鴻巣町と箕田村の境に沿って、洪水を防御するための
 控堤、沼田堤(箕田堤)が設けられていた(旧堤防の跡が現存する)。
 谷田用水(流末は一級河川 赤堀川の水源)は沼田堤を伏越して流れる。

 新旧の宮地堰
↑新旧の宮地堰(上流から)
 側壁(手前)と堰柱(中央)が残っている。
 煉瓦堰は現堰と同等の大きさだと思われる。
 
現在の宮地堰は老朽化が激しいため、
 上流50mに安養寺堰が建設中である。
   旧堰の側壁
  ↑旧堰の側壁(左岸)
   高さ約1m。
イギリス積みで組まれている。
   周囲には解体時の煉瓦が散乱している(護岸に
   使われているようだ)。写真の右隅付近には、
   
竣工銘板と堰柱の笠石が保存されている。

 堰柱
↑堰柱(下流部)
 堰柱間の幅は約1.7m。柱の幅68cm。
 長さは5.3mと大きい。ゲートは5門位は
 あったと思われる。堰柱の水切り部分
 (写真上部)には
加工煉瓦が使われている。
 堰柱の下に打たれた基礎コンクリートは
 経年劣化もあるが、かなり洗掘されている。

   刻印煉瓦
  ↑刻印煉瓦
   元荒川の河床には裏積み(構造用)の赤煉瓦が
   大量に散乱していて、数箇所で
刻印煉瓦(上敷免製)が
   確認できる。上敷免製とは深谷市の日本煉瓦製造の
   製品である。
   これらの煉瓦(普通一等煉瓦だと思われる)の
   平均実測寸法は、218×104×58mmであった。

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