小針落

 
撮影地:行田市小針

 
小針落は小針地区の水田(小針沼の跡地)からの排水路(幅は約2m)であり、旧忍川を伏せ越して、
 野通川(中川水系の一級河川)へと繋がっている。小針落の起源は享保13年(1728)に
 小針沼(埼玉沼)の干拓のために、井沢弥惣兵衛によって掘られた悪水堀だと思われる。
 不思議なことに、小針落はすぐ近くを流れる旧忍川(当時は下忍川)へは排水せずに、
 下忍川の下を伏せ越してわざわざ野通川へと排水していた。この流路形態は享保年間の開削当初から
 現在まで変わっていないと思われる。小針沼干拓のさいの基本構想では、排水系統の整備として
 下忍川は忍沼の排水専用、小針落は小針沼の排水専用と位置付けられ、両河川を水利的に
 独立させることによって、排水不良の発生を阻止する目的があったのだろう。
 下忍川は星川(見沼代用水)、小針落は野通川を経由して、共に元荒川へ排水される。
 元荒川の最終的な排水先は、古利根川(現在の中川)である。

 小針沼の跡地と小針落
↑小針沼の跡地と小針落(下流から)
 この付近は星川と忍川に挟まれた後背湿地であり、
 昭和40年代まで一体には小針沼が広がっていた。
 現在、小針沼は埋め立てられ、その跡地は
古代蓮の里
 行田浄水場、そして広大な水田地帯へと変貌している。
 写真左は古代蓮の里の展望タワー、中央は行田浄水場。
 展望タワーと行田浄水場の間の県道364号線は、小針沼を
 上沼と下沼に分割していた
堤防(中堤)の跡である。
 中堤には煉瓦造りの樋管(中堤樋、1903年竣工)が
 設けられていたが、2002年に撤去された。
   小針落の終点
  ↑小針落の終点(上流から) 写真上部が旧忍川の左岸堤防。
   小針落は旧忍川を立体交差して流れる。小針落は堤防の直前で
   流路を大きく右へと変えるが、これは旧忍川に対して直角に
   横断するように改修されているからである。
   小針落は
小針落伏越(煉瓦造り、1914年竣工)で旧忍川を、
   伏せ越しているが、下流の川里町赤城からは名称が
野通川となる。
   小針落の終点には[一級河川 野通川起点]の石碑が建てられている。
   落し(農業排水路)が一級河川の起点となっている例は、
   埼玉県では珍しくない。特に利根川の旧河道を農業用水路として
   再編成した中川水系では顕著である。→
中川の起点綾瀬川の起点  

 日枝神社

 ←日枝神社
 古代蓮の里の北側、長野落の左岸に立地する神社。地元では
 山王さまと呼ばれている。境内には小針地区の治水に関する石碑、
 天明二年(1782)建立の
弁才天(水に関する神様)などが建てられている。
 なお、小針落伏越しの付近では、南北1kmの中に6本の用排水路が流れている。
 南から野通川、旧忍川、小針落、長野落、見沼代用水、関根落。

 地形的に一番高い所に、見沼代用水(星川)が流れている。
 かつては、旧忍川、
長野落関根落は星川(見沼代用水)へ注いでいた。
 このため、旧忍川と見沼代用水に囲まれた小針地区は、
 恒常的な排水不良に悩まされたそうである。
 昭和初期の
元荒川支派川改修事業によって、
 旧忍川、長野落、関根落は排水先を野通川へと繋ぎ替えられた。

 なお見沼代用水へ合流している旧忍川は、大正期まで
 
見沼通船に使われ、船舶が往来していた。

 小針治水碑

石碑の題字

 ←小針治水碑 大正九年(1920)建立
 小針地区(旧.太田村小針)の治水事業は、明治31年(1898)に始まり、
 大正3年(1914)の伏越堰の竣工をもって完了したとある。
 なお、当時の治水は現在とは異なり、文字通りの[水を治める]であり、
 農業のための排水改良の意味合いが強かったようだ。ちなみに江戸時代には
 治水は川除(かわよけ)と呼ばれた。
 小針地区の治水事業は、当初は、耕地整理事業として始まったものである。
 第1期は1900年5月に竣工しているが、
 これは、埼玉県初の耕地整理事業である。(→埼玉県史
 通史編5 近代I、p.847)
 なお、碑文には小針地区に建設された3基の煉瓦樋門:中堤樋、
 伏越堰、寺島門樋の記述が見られる。
 中堤樋:上沼の水を排し下沼を開墾するために中堤の中央を穿ちとある。
      上沼は当時、長野村(現.行田市長野)に属した。
      中堤樋(1903年建設)だけでは排水能力が不足したのか、
      1905年には長野村に弁天門樋が建設されている。
 伏越堰:沼落渠をもって忍川を貫き広田村(現.川里町広田)へ注ぐ、とあるから、
      これは小針落伏越のこと。沼落渠とは小針落のことだろう。
 寺島門樋:長野落は、長野村(現.行田市長野)を東へ流れ、寺島門樋で
      見沼代用水に注ぐ、とある。寺島門樋は、1903年に建設された煉瓦造りの
      門樋(現存しない)。見沼代用水からの逆流を防止する目的の水門だったのだろう。
      昭和初期まで、長野落は現在の地蔵橋付近で見沼代用水に合流していたが、
      その地点には二本松圦(煉瓦造り)があったという。
      寺島門樋が取水用に改造され、二本松圦と呼ばれたのだろう。

 ←石碑の題字
 埼玉県知事
 堀内秀太郎の筆により、
 [小鍼治水碑]と篆刻(てんこく)されている。
 小鍼とは小針地区のこと。
 小針の名は開墾地を意味するそうで、埼玉県では中川水系に多い。
 桶川市:
小針領家(綾瀬川の起点)
 北足立郡伊奈町:小針新宿、小針内宿、大針

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