辯天門樋 (べんてん もんぴ) (その1)(その2)(その3)(その4

 所在地:行田市長野字新田(しんでん)、旧忍川(おしかわ)左岸  建設:1905年

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
川表 3.9 3.1 2.1 2.2 1.3 アーチ1.0* 鋼スルース
川裏 2.9 0.4

 概要と現状:
 辯天門樋は、行田浄水場と古代蓮の里から南側へ500m、旧忍川(注1)の新橋付近(流耕地)に位置する。
 左岸堤防の中に、へんてこな形をした赤い物体がうずくまっているのが、いやおうなしに目につく。
 辯天は弁天の旧字体なので、今風に表記すると弁天門樋となる。施設の名称はこの付近に
 弁財天が祀られていたことに由来するのだろうか(→上流の河道内には今も弁才天が祀られている)。
 小さな煉瓦構造物ではあるが、塔が設けられ独特な迫り出しも施されているなど、優れた意匠が
 特徴である。曲面を多用した滑らかで独特な造形美?は、埼玉県の煉瓦水門では唯一無比だ。
 埼玉県の煉瓦樋門建設史の最盛期を代表する独創的な形態の樋門である。
 しかも、いまだに現役の施設である。ただ、4基あった塔のうちの1基が破壊されているのと、
 塔頂部のとんがり帽子(セメント製)が全て消失しているのが残念である。
 辯天門樋は、もともとは排水樋門だったが、現在は用排兼用の樋門に改造されている。
 建設当初のゲート形式は木製の観音開きゲートだったが、現在のゲート形式は鋼製のスルースゲートに
 変更されている。観音開きのゲートは旧忍川の水位が上昇すると、自動的にゲートが閉まる仕組みだった。
 川表の面壁には当初のゲート形態を偲ばせる、隅石と戸当りが残存している。

 
周辺地域の歴史:
 辯天門樋は古くからある施設のようで、その起源は享保年間(1720年頃)の小針沼(天領、
 埼玉沼とも呼ばれた)干拓のさいに建設された悪水圦だと思われる。小針沼の干拓工事は
 当時の一般的な工法だった、堀上げ田方式(沼の水抜きと農地造成が同時に可能)で行われたと
 思われるので、沼に溜まった水の排除と沼へ流入する水の阻止が必要だった。
 そのため小針沼の周囲には、沼へ流入する水を迂回させるために、縦横に附廻堀(落し、悪水路)が
 設けられ、水除堤(沼の氾濫を防ぐ堤防)が築かれたはずである。
 現在も残る下忍川(旧忍川)の堤防(本堤と控の旧堤防)は小針沼の水除堤が起源だろう。
 悪水圦は附廻堀の水を集め、最後に下忍川に排水する目的で、水除堤の中に設置されたのだと思われる。

 小針沼の干拓工事を指揮したのは井沢弥惣兵衛である。
 享保13年(1728)に見沼代用水が完成したことにより、代用水(この付近は星川との共用区間)周辺の
 湖沼は干拓され、新田開発が進んだ。新田地区はその名の通り、小針沼干拓による新田村である。
 小針沼は沼の中央に、中堤と呼ばれる堤防が設けられ、上沼と下沼に分割されていた。
 現在の県道364号線は中堤の名残り(盛土がなされて当初よりも規模は大きくなっているが)である。
 また、中堤は北埼玉郡長野村(現.行田市長野)と太田村(現.行田市小針)の境界でもあった。
 旧忍川の堤防裾には、長野村と太田村の境界を示した境界標(石造、昭和11年3月30日改更と
 記されている)が残存している。なお、中堤には辯天門樋が建造される2年前の
 明治36年(1903)に、中堤樋という煉瓦造の樋管(現存せず)が太田村によって建設されている。
 中堤樋は下沼の水を附廻掘へ排水するための樋管だった。

 
建設の経緯:
 辯天門樋は木造だった悪水圦を煉瓦造りへと改築したもので、長野村が埼玉県の技術指導
 県税の補助(町村土木補助費)を得て、明治38年(1905)に建設した。
 なお辯天門樋と同時に、下忍川の上流部には煉瓦造りの堰、長野堰(ゲート3門、
 使用煉瓦数は約35,000個、現存せず)が建設されている。
 これは長野村(主に下長野)の農業用水を取水するための堰(堰下用水堀)であり(注2)
 辯天門樋から北西へ3Km、大長寺の付近(長野村竹花、現.行田市桜町一丁目)に設けられていた。
 このように長野村は下忍川にあった既存の農業施設2基(用水の取水口と悪水の吐口)を同時に
 煉瓦造りで改良したのであった。なお当時、下忍川には長野堰の直上流の小沼橋の付近に、
 見沼通船会社の第一会社が置かれていた。下忍川は見沼通船堀の運河としても使われていた。

 辯天門樋と長野堰の建設工事は、北埼玉郡新郷村(現.羽生市新郷)の新井常吉が請負い、
 明治38年4月7日に起工し、同年6月3日に竣功した。辯天門樋の銘板には明治38年3月竣功と
 記されているが、これは竣工予定日のことである。実際の工事開始は予定よりも2ケ月遅れている。
 長野村はこれら2基の煉瓦水門建設のさいに、埼玉県に対して技術官の派遣依頼を
 申請している(埼玉県行政文書 明2511-6)。この時、県から派遣されて現場監督を務めたのが、
 埼玉県技師、島崎孝彦である。島崎は1904年に御成橋(荒川、鴻巣市〜吉見町)、
 1908年には瓦葺掛樋(見沼代用水〜綾瀬川、蓮田市〜上尾市)の設計を担当している。
 辯天門樋の曲面を巧みに配置したデザインは、瓦葺掛樋の橋台や取付け水路と良く似た雰囲気を持つ。
 辯天門樋は島崎の設計によるものだろうか。

 
辯天門樋の特徴:
 辯天門樋は使用煉瓦数が約24,000個(表積:焼過一等煉瓦 10,000個、裏積:普通一等煉瓦 14,000個)、
 樋管長 12尺5寸(3.8m)、通水断面の幅 3尺1寸(0.93m)、中央高 3尺6寸2分(1.09m)の
 小規模な樋門である。アーチリングや装飾を除いた、壁構造の部分はイギリス積みで組まれている。
 辯天門樋の通水断面は箱型ではなくアーチ型だが、埼玉県に現存する煉瓦樋門では、
 アーチ径が小さい部類に属する。辯天門樋の周辺では隣村の太田村が、既に5基のアーチ型樋門を
 建設していたので、競争意識や見栄から、あえてアーチ型を採用したのであろう。
 ちなみに樋門の形式をアーチ型でなく箱型にすれば建設費は安くあがる。
 近隣の杣殿樋管(忍川、明治36年建設)は、箱型で規模は辯天門樋より若干小さめだが、
 両施設を比較すると、杣殿樋管(建設費は約1,160円、使用煉瓦数は約6,200個)、
 辯天門樋(建設費は約2,260円、使用煉瓦数は約24,000個)である。

 なお、基礎の工法は当時一般的だった土台木であり、これは地盤へ基礎杭として松丸太を
 打ち込んでから、杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、
 その上に捨コンクリートを打設したものだ。日本最大の煉瓦建築である東京駅(建設開始は明治時代だが
 完成は大正時代)の基礎も、この工法で作られている。
 土台木工法は、小規模なコンクリート樋門では、昭和中期頃まで採用された。

 埼玉県立文書館には、弁天門樋と長野堰の設計原図が保存されているが、それによると、
 長野堰は上流部の袖壁が曲面であり、しかも辯天門樋と同様に左右の袖壁の長さと形状が非対称である。
 なお、長野村は2基の煉瓦水門の完成を記念して、水門の来歴と建設尽力者を記した竣功記念碑を
 建立したようである。文書館には、同碑のものと思われる碑文写し(長野村役場)と題された文書が
 保存されている。碑文には小八ッ林石工(現.大里郡大里町小八林、昔から石工は有名で、
 現在でも石材加工業者が多い)と記されているので、記念碑は石碑だったようだが、
 長野堰の跡地や弁天門樋の付近には石碑は現存していない。長野堰の側壁に竣功銘板として
 付けられた可能性は高いが、碑文には建立日が記されていないことから、
 記念碑建立は計画のままで実現しなかったのかもしれない。

 
建設当時の情勢:
 辯天門樋が建設された頃の行田市(の現在の市域)は、煉瓦樋門の建設ラッシュであった。
 明治33年(1900)に佐間掛樋(仮称、行田市佐間〜埼玉、撤去)が建設されたのを皮切りに、
 明治34年には星宮村(現.行田市皿尾)に4基、明治35年から明治36年には太田村に5基
 同じく明治36年には北河原村に1基(北河原用水元圦)、持田村と成田村(現.熊谷市上之)の境に
 1基(杣殿樋管)が建設されている。上述の小針沼中堤の樋管も、明治36年には太田村によって
 煉瓦造りで改築されていた(中堤樋、2002年撤去)。
 このような周辺地区の状況下、明治38年に長野村に辯天門樋と長野堰が建設された。
 時局は日露戦争の最中であった。そして、明治39年には行田市に埼玉県史上最大の
 煉瓦樋門、見沼代用水元圦が建設されるのであった。

(注1)旧忍川は昭和初期までは下忍川と呼ばれていたが、元荒川支派川改修事業によって昭和10年頃に
 廃川となった。佐間掛樋と長野堰は同事業によって撤去されたが、代替として福川と上忍川を
 結ぶ
酒巻導水路が開削され、玉野用水(埼村と長村の用水)が新設された。

(注2)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡長野村(13巻、p.189)に
 堰下用水堀の記述がある。”〜中略〜字竹花の南にて下忍川より分れ
 村の南部を東流して新田沼に入る 田四十六町九反歩の用水に供す〜以下略〜”
 この記述は堰下用水堀の幹線水路だけだが、幹線水路には3箇所に支線があり、
 3支線は合計で130町歩の田をかんがいしていた。
 なお、新田沼とは上沼のことで、小針沼の中央に設けられた中堤よりも西の部分を指している。

旧忍川の左岸下流から
(川表)      ↑旧忍川の左岸下流から       (川裏)
旧忍川の大半は護岸されていない。流路は適度に蛇行していて、
水辺には(所によっては河道にまで)植物(ヨシが多い)が
生い茂っている。そのためか、水鳥も数多く棲息している。
上流1Kmには
埼玉古墳群もあり、散策にはもってこいである。
左岸の堤防天端は[ふるさと歩道]とされているようだ。
   弁天門樋(旧忍川の右岸から)
  ↑弁天門樋(旧忍川の右岸から)
   広大な農地と豊かな水辺、煉瓦樋門が創り出す、のどかな農村景観。
   写真の右側には昭和初期まで小針沼があり、沼地だったが、
   現在は一面に水田が広がる。小針沼の跡地には行田浄水場と
   古代蓮の里が建てられている。左上に見える成就院の三重塔は
   享保14年(1729)建立、県指定有形文化財である。

  川表(旧忍川の右岸から)
 ↑川表(旧忍川の右岸から)
  構造上、翼壁は左右非対称である必要はない。
  弁天門樋の建設当時、旧忍川は見沼通船の航路でもあり、
  舟運が盛んであった。水上から見られることを意識して
  デザインされているようだ。そのためだけに翼壁と袖壁の
  煉瓦組みには
高度な曲面施工がなされている。このような
  意匠センスを、現代の土木屋は失ってしまった。
  なお、袖壁と胸壁には
上敷免製と刻印された煉瓦が
  確認できる。深谷市の日本煉瓦製造で作られたものだ。

     川裏(旧忍川の左岸から)
    ↑川裏(旧忍川の左岸から)
     写真右側の塔(45cm角、高さ35cm)は完全に損壊し、
     堤防上に放置されている。残る塔も頂部にあった、
     とんがり帽子が消失している。
     
川裏の銘板(石造り)には竣工年が刻まれている。
     川裏からだと通水断面がアーチなのが、はっきりとわかる。
     アーチリング(三分円)は、煉瓦小口の
3重巻き立て
     アーチリングの表面にはモルタルが塗られているが、
     これは建設当初からの仕様なのかは不明である。

追補:弁天門樋は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。


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