小針落伏越(仮称) (こばりおとし ふせごし)

 
所在地:行田市小針〜川里町赤城、小針落〜野通川(やどおり)、旧忍川(おしかわ)を横断 建設年:1914年

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
呑口 50* 5* 3.7 4.8   アーチ
1.8*
吐口 3.7 5.6 1.2

 本施設は銘板が欠落しているので正式名称が不明である。本HPでは小針落伏越と仮称する。
 (付近にある長野落伏越の例に習った。地元の小針地区では、伏越堰や赤煉瓦と呼ばれていたという)
 建設年は不明だが、小針治水碑(大正9年建立)によると、大正3年(1914)竣功であるようだ注1
 しかし、刻印煉瓦(上敷免製)が伏越の目立つ箇所に大量かつ意図的?に使われている、など謎も多い注2
 小針落伏越は、河川を横断する煉瓦造りの伏せ越しとしては、埼玉県に現存する唯一のものである。
 それどころか日本全体を見渡しても、一級河川を横断する煉瓦造りの伏越では唯一の存在かもしれない。
 施設の状態は良く、現役の河川構造物としてしっかり機能している。

 小針落伏越は旧.北埼玉郡太田村注3が建設したもので、同村が明治末期から
 大正初期まで十数年間をかけて実施した耕地整理事業の最後を締めくくる構造物である。
 太田村の耕地整理は公式記録では明治34年7月に工事を着手し、大正2年11月に
 完了したとされている(埼玉縣北埼玉郡史、名著出版、p.21)。ただし、小針治水碑には明治31年起工、
 埼玉県史 通史編5 近代I、p.847には、明治33年(1900)5月竣工と記されている。
 いずれにせよ、耕地整理事業としては、埼玉県では最古の部類に属する。
 初期の段階では一端、短い期間での工事竣工があり、しばらく間をおいてから
 次の工事が始められたようである。明らかに経年連続ではなく、
 断続的に実施された耕地整理事業である。
 実に10数年間に渡る事業だが、耕地整理面積は57ha(田31ha、畑26ha)と少ない。

 施設と周辺の概要:
 小針落伏越の起源は古く、小針沼を干拓するために掘られた小針落の末端に、享保年間(1720年頃)に
 設けられた。見沼代用水の開削に関連して、小針沼周辺の新田開発が実施されたためである。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡小針村(13巻、p.204)に、
 ”圦樋:埜通悪水路を潜通せしめんか為に設く 長二十九間 内法高四尺 横六尺”と
 記されている構造物が、小針落伏越の前身だと思われる。圦樋となっているが、
 ”埜通悪水路を潜通”とあるので、形式は間違いなく伏越である。木造でありながら伏越長が
 二十九間(約53m)と非常に大きいのが特徴だ。なお、埜通悪水路(やどおり)とは現在の野通川のこと。

 小針沼の余水は沼落(排水路)である小針落を経由して、江戸時代(おそらく享保年間)から野通川に
 排水されていたのだが、直接、旧忍川に落とすことはなく、途中でわざわざ旧忍川を伏せ越している注4
 小針沼は別名を埼玉沼ともいい、旧太田村と旧長野村にまたがる広大な沼地であったが、
 近年に開発が進行し、今では跡地には古代蓮の里と行田浄水場が建てられている。

 小針落伏越の特徴:
 小針落伏越は太田用悪水路普通水利組合(管理者は太田村長 松井荘一)が
 県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、既存の木製伏越を
 煉瓦造りへと改造したもの。総工費は15,290円であった。
 設計仕様書によると、小針落伏越は長さが165尺(約49.5m)、通水断面の幅が6尺(約1.8m)、
 中央高が3尺9寸3分(約1.2m、アーチ部の迫り高 1尺2寸を含む)。
 使われている煉瓦の数は約17万個(表積:焼過一等 48,800個、裏積:並焼一等 121,000個)、
 基礎杭(長さ4.5〜5.4m、直径15cmの松丸太)の数が、516本という大規模な煉瓦構造物である。
 小針落伏越の使用煉瓦数は、現存する樋門では瓦葺掛樋(25万個、1908年、蓮田市〜上尾市、一部残存)、
 北河原用水元圦(19万個、1903年、行田市)に次ぐ多さである。
 煉瓦の積み方はアーチリングが小口積み、面壁、翼壁などの壁はイギリス積みである。

 基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
 杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に
 捨コンクリートを打設した方式となっている。同時期に建設された東京駅(建設開始は明治時代だが、
 完成は大正3年)の基礎もこの工法で作られている。

 モルタル・コンクリート用の砂は、9町(約1Km)先の見沼代用水から採取したと記録されている。
 採取地は旧忍川が見沼代用水(星川)へ合流する地点、北根堰の付近(行田市関根〜小針)もしくは
 長野落が見沼代用水へ合流していた地点、現在の地蔵橋の付近(行田市藤間〜小針)であろう。
 なお施工(水替え)には蒸気ポンプ(5馬力、燃料は石炭)も導入されている。

 小針落伏越の構造は現代の伏越に比べると、かなり古典的なものである。
 現代の伏越は、堤防の中に埋設する部分と河床に埋設する部分とが、構造上分離されていて、
 可とう(伸縮性)継手による柔構造で結合されている。堤防と河床では土被りが大きく異なるので、
 伏越が不同沈下を起こす可能性があるので、その対策のためである。
 形態的には現代の伏越は呑口と吐口にマンホールを設置して、それらを暗渠で連結した構造である。
 河床部分の暗渠の敷高が呑口と吐口の水路敷高よりも低いので、その縦断形状から
 逆サイフォン(inverted syphon)とも呼ばれる。一般的なサイフォンの天地を逆転した形態なので、
 逆サイフォンという名称が付けられているが、通水時に負圧は発生しないので、
 水理学的にはサイフォンとはまったく別のものである。

 一方、小針落伏越の場合、呑口と吐口はマンホールではなく樋門である。継手はなく剛構造であり、
 形態的には左右岸に設けられた2基の樋門を、長さ165尺の煉瓦トンネルで剛結したものといえる。
 (多少、誤解を招く表現になってしまったが、一般的な樋門は堤防1つを横断しているのに対して、
 小針落伏越の場合は左岸と右岸の2つの堤防を横断しているので、このような表現をしてみた。
 河床と堤防を含めた河川全体を1つの横断対象と捉えれば、小針落伏越は単なる樋門である)
 なお、小針落伏越は、河床を横断する部分の敷高が、呑口側と吐口側の水路敷高と同じであり、
 縦断方向から見るとその形状は、U字形(逆サイフォン形式)ではなく、−字形(水平)である。
 このような構造であるため、呑口と吐口の面壁が非常に高くなり、トンネルの坑口と似た外観となる。
 小針落伏越の下流300mにある長野落伏越(1933年竣工)も同様な構造と外観である。
 また、保守管理用の設備である制水ゲート、スクリーン(ゴミ除け)、土砂溜り(マンホールの底を利用)は
 設けられていない。通水を停止することはもちろん、保守のために伏越内部に人が入ることすらできない。

 設計者:
 小針落伏越の設計者は埼玉県技師の大岡大三だと思われるが、技術官派遣申請書に、それらしき
 記述が見られるのみで(埼玉県行政文書 大437-67)、残念ながら特定できるだけの史料は残っていない。
 大岡は新方領耕地整理事業の工事監督を務めているので、同事業のさいに明治42年(1909)に
 建設された大吉伏越(現存せず、新方川〜逆川、埼玉県に建設された最大規模の煉瓦伏越、
 使用煉瓦数は約38万個)の設計を担当したのも大岡であろう。
 新方領耕地整理では事業の実施を巡り、領内を二分しての紛争が長期化している。
 なお、大岡はのちに内務省に移り、中川の改修工事などに手腕を振るった。
 庄内古川改修記念碑(昭和3年建立、埼玉県幸手市、宇和田公園)には工事の功労者として、
 復興局土木部長 大岡大三の名が刻まれている。
 中川の改修工事が竣工した頃には、関東大震災後の帝都復興事業の任に就いていたのである。

 建設反対運動の勃発:
 小針落伏越の建設工事は埼玉県の直営(ただし築品は随意契約、工事担当者は野口 某)で行なわれ、
 大正2年9月20日に起工し、大正3年4月20日に竣工している。煉瓦樋管の建設で工事完了までに
 7ケ月も要した例は珍しい。驚くことに、建設許可指令が下ったのは大正2年4月2日であるから、
 実質的には竣工までに実に1年以上も費やしている。これは当時の町村土木補助工事としては
 異例の長さである。建設工事の技術的困難から竣工が遅れたわけではなく、遅延の原因は
 伏越の改良工事に対して、下流側の地区が強硬な反対運動を展開したことにある。
 なお、施設を煉瓦造りへと改良することが、上下流間の紛争を誘発した事例は多く、
 太田村の周辺では宮地堰(元荒川、鴻巣市、1901年)や小竹堰(元荒川、菖蒲町、1909年)の例がある。

 太田村からの悪水は小針落伏越を経由して、埜通悪水路へと排水される。
 伏越の煉瓦造り改良工事は、上流側の太田村にすれば耕地整理事業(排水改良)の一環だが、
 下流側の地区は太田村の耕地整理の効果と伏越の改良によって、埜通悪水路への流入量が
 以前よりも増大することを危惧したのである。太田村の耕地の排水が良くなることは、太田村からの
 排水量が増加することであり、その排水先である埜通悪水路は洪水時のピーク流量だけでなく、
 常時の流量も増える。埜通悪水路を主要排水路としている下流側の地区にすれば、
 水位が高くなった埜通悪水路への排水が現状よりさらに困難となるのは明白である。
 排水不良は作物の水腐れを誘発する。

 埜通悪水路普通水利組合(明治33年1月設立)を構成する一町八村(菖蒲町、小林村、栢間村、
 種足村、広田村、共和村、屈巣村、笠原村、埼玉村)は埼玉県知事に対して、工事の取り消しを
 求める陳情請願を再三にわたり行なっている。工事着工後の大正2年11月にも請願をしている。
 特に強硬派だったのが、忍川を挟んで太田村と対峙する屈巣村(現.川里町)だったようである。
 工事をめぐって上下流の対立は紛糾を極めたが、北埼玉郡長が仲介者となって、最終的には、
 伏越の通水断面を縮小する(太田村が妥協する)ことで、混乱した事態を収拾したようである。
 興味深いことに、屈巣村および広田村は上流の太田村で耕地整理が展開されると、その後を
 追うように耕地整理に着手している。太田村が明治34年7月に耕地整理を開始すると、
 屈巣村・広田村は明治35年11月から耕地整理に着手している。大正2年11月に太田村の耕地整理が
 完了すると、今度は共和村と連合し、大正4年4月から耕地整理に着手している。

 埼玉県立文書館には、小針落伏越の関連文書と2種類の設計図が保管されている。
 設計図では施設名は忍川伏越樋管となっているが、これはいささか冗長であり、正式名称とは云い難い。
 設計図が2つあるのは、計画当初の通水断面を反対運動が勃発した後に、設計変更したためである。
 当初の通水断面は底部が水平ではなく、インバート(アーチ)付きであった。この形状だと伏越の底に
 土砂が堆積するのを抑止する効果があり、機能的に優れているのだが不採用となっている。
 なお、設計変更後の通水断面積は当初よりも小さくなっている。反対派の意向が反映されたためだろう。

(追補)小針落伏越は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

  小針落伏越の呑口
 ↑小針落伏越の呑口(上流から) 行田市小針
  ここで小針落は終点。左岸には野通川の管理起点標石が建つ。
  伏越の主軸は旧忍川の堤防に対して直角である。
  面壁の白い部分には、大小2つの銘板(金属製)が
  付けられていたが、盗難にあったそうだ。
  面壁の天端には、3段の
迫り出しが施されている。
    小針落伏越の吐口
    ↑小針落伏越の吐口(下流から) 川里町赤城
    施設の状態は良く、充分に機能しているようだ。
    大量のゴミも伏せ越しの中を通り抜けてくるようだし(^^;)
    ただし、面壁の煉瓦は所々で侵食が見られる。
    こちら側の銘板には、竣工年が記されていたと思われる。
    面壁の天端は4段の迫り出し。1段多いのは
刻印煉瓦の展示のため?

アーチ

 ←アーチ(吐口側)
 堤防天端から
 伏越天端までは約1m、
 伏越天端から
 アーチトップまでは2.9m。
 
アーチリング(四分円)は
 煉瓦小口の3重巻き立て。
 弁天門樋とまったく
 同じ組み方である。

 煉瓦の実測寸法は
 222×105×57mm。
 長手は217〜226mmと
 バラツキがある。

 面壁の天端は
 刻印煉瓦の宝庫。
 10数ケ所も確認できる。
 長手面に刻印が
 押されたものや、
 左から上敷免製と
 したものも見られる。
 刻印煉瓦は、
 袖壁にも見つかる。

  旧忍川と伏越
 ↑旧忍川と伏越(右岸から)
  旧忍川は冬期には完全に乾上がる。
  川底は最深部でも堤防天端から2m位しかない。
  旧忍川は、ここから約500m下流で終了。
  写真の手前に伏越吐口、奥に呑口側の煉瓦が見える。
  これらは橋台として使われたのであろうか。

(注1)小針治水碑の碑文には、
  〜略〜 自明治戊戌至辛亥凡十有餘年而成而伏越堰以大正甲寅竣功 〜略〜 とある。
  つまり、小針地区の治水事業(耕地整理と排水改良)は、明治戊戌(1898)年に始まり、
  大正甲寅(1914)年に竣功である。而シテ伏越堰(小針落伏越)ハ大正甲寅ヲ以テ竣功ス、
  と読み下すのが正しいのだろうか?。旧太田村は古くから排水改良が行なわれてきた地域で
  あるが、往時を偲ばせる石碑として薬師堂(行田市真名板)に
新渠の碑(慶応2年建立)、
  東泉寺(行田市関根)に
悪水路開鑿の碑(明治33年建立)が残っている。
  悪水路開鑿の碑には明治8年(1875)に実施された関根落周辺の築堤工事や
  伏越工事の概要が記されている。藤間地区から真名板、関根地区へと用悪水を
  流すために、関根落の下を横断する木製の伏越が建設されている。

  なお、太田用悪水路普通水利組合は、小針落伏越が竣工した翌年の大正4年(1915)には、
  太田村真名板の関根落に三家堰を建設している。これは農業用水の取水堰でゲート2門、
  使用煉瓦数は約30,600個(表積:焼過一等 9,600個、裏積:並焼一等 21,000個)、
  石材には花崗岩が豊富に使われている(埼玉県行政文書 大666-74)。

(注2)明治36年(1903)には、東松山市の樋門建設で煉瓦詐称事件が発覚している。
  その影響なのか、この年に建造された樋門には、刻印煉瓦(上敷免製)が発見しやすい箇所に
  使われている。仕様書に指定された煉瓦(上敷免製)を使ったことを、アピールしたのであろうか。
  明治36年竣工の樋門は15基現存するが、そのうちの7基で上敷免製の刻印煉瓦が確認できる。
  一方、明治36年を除く現存樋門(赤煉瓦を使用)の数は57基で、刻印煉瓦の確認数は17基である。
  (厳密には確認数は11基である。17基のうち6基は一部残存であるために、
   本来は見えない、或いは見えにくい箇所の刻印煉瓦までもが確認できてしまった、というのが実情)

(注3)太田村の母体となったのは下須戸村、小針村、若小玉村であるが、1901年には
  これに真名板村、藤間村、関根村の3村が合併している。太田村は1957年に行田市と合併した。
  太田という村名は中世に埼玉郡最大の郷荘だった太田荘に由来するのだろうか。
  太田村を構成した村々は、太田荘忍領に属した。
  ちなみに昭和30年頃まで、埼玉県には実に5つもの太田村が存在した。
  大里郡太田村(現在の妻沼町の町域)、南埼玉郡太田村(現在の久喜市の市域)、
  入間郡大田村(現在の川越市の市域)、秩父郡大田村(現在の秩父市の市域)だ。
  最後の2つは表記は異なるが、読みは[おおた]で同じである。
  また不思議なことに、北埼玉郡には太田村の下須戸に対して上須戸が存在しない。
  上須戸は大里郡長井村(現在の妻沼町の町域)に存在した。

  北埼玉郡太田村だった区域は行田市の東端に位置し、東側は加須市と騎西町、北側は羽生市、
  南側は川里町と接している。周囲が河川で囲まれていて、西側に(かつては)小針沼が位置し、
  東側に
会の川、南側には旧忍川が流れている。おそらく小針沼は、古代のある時期に星川、忍川、
  会の川などの幹線や派川が流れ込んで形成された沼沢地だったのだろう。
  太田村の中心には見沼代用水(星川)が南北方向に流れ、両岸には
長野落関根落
  (共に悪水路)が並行している。小針沼周辺の沼沢地を
掘り上げ田方式で干拓した地区なので、
  かつては村の中には、悪水堀(排水路)が縦横に巡らされていた。
  武蔵国郡村史の埼玉郡小針村の項には、おびただしい数の落し(悪水路)と圦樋が記されている。
  また、村の東西端には水害から村を守るための、控の堤防が築かれていた。
  東端には
阿良川堤、西端には小針沼を仕切って長野村との境界とした中堤である。
  このように一種の輪中地帯となっていて、全域が低平地なので、排水が困難であり、
  かつては頻繁に湛水被害を蒙っていた。

  大地主や篤農家が多かった地域だったようで、1900年5月に太田村小針で竣工した耕地整理は、
  埼玉県初の事業とされている。1903年には、太田村と田ケ谷村(現.騎西町外田ケ谷)は
  県税の補助を受けて、以下の5基の煉瓦樋門を一度に建設している(埼玉県行政文書 明2497-35)。
   弥右衛門門樋(旧.下須戸村、見沼代用水左岸、現存せず)、
源兵衛門樋(旧.藤間村、見沼代用水左岸)、
   中堤樋(旧.小針村、小針沼、現存せず)、
寺島門樋(旧.小針村、見沼代用水右岸、一部残存?)、
   
落合門樋(旧.田ケ谷村、見沼代用水左岸)。
  なお、1902年には
関根門樋(旧.関根村、見沼代用水左岸、一部残存)も建設されている。
  一村が2年間という短期間に6基もの煉瓦水門を建設した事例は、埼玉県史上、太田村のみであり、
  さらに後年建設の小針落伏越と三家堰を含めると総建設数は8基にも及び、極めて特異な地区である。
  煉瓦水門はいずれも排水及び逆流防止水門である。沼沢地を干拓した低湿地は、洪水時には農地が
  長時間の湛水にさらされ、被害が大きかった。それに対する防衛手段である。
  これら煉瓦樋門群は治水施設であり、その建設目的は耕地整理事業の効果を補完するためだったと思われる。

  ちなみに煉瓦樋門建設の申請者である太田村の村長、田島春之助は埼玉県議会の
  議員(北埼玉郡選出)も兼任していた。現代ではあり得ないことだが、自らが提出した補助金の
  申請に対して、予算をどう割り振るかを審議をする側でもあったのだ。
  太田村の田島家は小針沼一帯の土地を所有する大地主だった。
  旧河川法の制定に大きな影響を与えた
湯本義憲(岐阜県知事などを歴任)は
  田島家の出身である。見沼代用水には田島家の名を冠した
田島橋も存在する。
  余談だが、行田市付近の利根川の右岸側には、北埼玉郡と大里郡の境界に
中条堤
  呼ばれる旧堤防が残っている。中条堤は明治43年の洪水で決壊したが、その修復工事の
  追加予算決議での島田県知事の対応に対し、埼玉県議会は県知事の不信任案を提出し可決した。
  県知事不信任のきっかけとなった追加予算案を提出したのが、田島春之助である。
  田島の中条堤修復工事予算案は、中条堤の下流側に位置する村々(主に北埼玉郡)に
  有利となるものだった。 →埼玉県議会史 第3巻、p.481

(注4)小針落は行田市小針地区を起点とする延長約2kmの農業排水路。
  旧忍川を伏せ越した後は、
野通川となり、川里町北根では長野落(悪水路)を合流する。
  小針落がわざわざ旧忍川を伏せ越すのは、古来からの慣行が存在した?こともあるが、
  最大の理由は旧忍川の流下能力の不足であろう。かつては小針落伏越から200m下流では
  長野落が旧忍川へ排水していたからである。その長野落も排水不良を理由に、昭和初期に
  実施された
元荒川支派川改修事業によって、落ち口が野通川へと変更されている。

  旧忍川は行田市の東部を流れる延長約4kmの排水河川。かつては下忍川と呼ばれ最下流は
  見沼代用水へ合流していたが、排水不良が顕著だったため、元荒川支派川改修事業によって
  排水先が元荒川へと付替えられた。同事業で忍川の下流部には新たな流路が開削されたたため、
  残された下忍川は廃川となり、名称も旧忍川となった。現在では常時は水が涸れているが、
  かんがい期のみ見沼代用水から取水し、下流部のみ用水路に変貌する。
  また、旧忍川を野通川の洪水調節用に改修するという、さきたま調整池の整備計画も進行している。

  旧忍川には、小針落伏越から2Km上流に、変った形をした煉瓦の樋門(弁天門樋:1905年竣工)が残っている。
  この樋門は小針沼周辺の悪水を下忍川へ排水するために、長野村(現.行田市長野)が建設した。
  また小針落伏越から600m上流の旧忍川右岸は二線堤となっていて、本堤の他に
大和田堤
  呼ばれる古い控堤が設けられている。この堤は忍川の堤防から直角方向に南へ400m程続いていて、
  旧忍川や小針沼の氾濫水が川里町方面へ流下するのを防ぐために設けられたものであろう。
  なお、小針落伏越から約1.5Km上流の埼玉村付近では、旧忍川の堤防が明治43年と大正3年に
  洪水によって、破堤している。(行田市金石文集、p.285)
  さらに、小針落伏越から300m下流では、長野落が旧忍川を横断している(
長野落伏越:1933年竣工、
  レトロなデザイン)。このように河川系統はかなり複雑で錯綜している。


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