堀切橋
所在地:忍川、左岸:埼玉県行田市堤根(つつみね)、右岸:北足立郡吹上町袋(ふくろ)
形式:ラーメン橋台橋(鋼桁、1スパン、斜橋) 長さ19m(歩測)、幅5.2m 建設:昭和8年(1933)?
大正8年(1919)から昭和12年(1937)にかけて行われた元荒川の改修事業によって建設された橋梁。
同事業では元荒川と周辺の河川(忍川、星川、野通川)には、凝った意匠や珍しい形式の構造物(橋梁、堰)が
数多く建設された。例えば忍川では、本橋と上流の青柳橋はラーメン橋台橋だが、それ以外にも
鉄道の古レールを再利用したアーチ橋など、変わった形式の橋梁が架けられている。→古レール・アーチ橋の特徴
堀切橋は老朽化が進行していて補修の跡も見られるが、橋の形態は建設当初とほとんど変わっていない。
下忍村史(韮塚一三郎・稲村担元、昭和26年発行)の巻頭には、堀切橋の古い写真が掲載されている。
堀切橋の竣工当時、この付近は北埼玉郡下忍村であった。下忍村は昭和31年に行田市と
吹上町へ分村してしまった。旧下忍村の道路元標が吹上町郷土資料館に保存されている。
ラーメン橋台橋とは、関東大震災後の復興事業で建設された橋梁形式の一つである。
架橋地点が軟弱地盤の場合に選択された形式であり、河道へ張り出した橋台が特徴。
流水を阻害しないように、橋台の構造をラーメンとして、橋台側面には開口部が設けられている。
このため一見すると3スパンのように思えるが、側径間は橋台なので、実際は1スパンの橋である。
復興事業で建設されたラーメン橋台橋は、主径間の形式にアーチ、桁、肱木(ひじき)の三種類があったが、
堀切橋は主径間が桁なので、神田橋や一ツ橋(橋長はそれぞれ32.1m、30.6m、共に大正14年(1925)竣工)と
同型式である。→帝都復興事業誌 土木篇 下巻、復興事務局、1931、橋梁形式図 其の三
追補:堀切橋は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。
↑堀切橋(忍川の上流から) 左岸:行田市堤根、右岸:吹上町袋 日光裏街道(館林道)に架かる橋。日光裏街道は中山道の 箕田追分から分岐する。街道の路線を優先させたためか、 堀切橋は忍川に対して斜めに架けられている(斜橋)。 江戸時代からある古い橋(注)で、橋の名前は石田三成が 忍城を水攻めにした時、この付近で石田堤が破堤したことに 由来するようである。 |
↑ラーメン橋台 (左岸) 堀切橋は遠目には、三連のRCアーチ橋のように 見えるが、両岸のアーチ状の部分は橋台の一部であり、 実際の橋の形式は1スパンの桁橋である。 欄干は50cmと低く、しかも薄い。開口部 には、アーチと 三角形をあしらったデザインがなされている。 皆代橋(備前前堀川、久喜市)は、堀切橋と良く似た デザインである。→欄干のデザインの類似性について |
↑親柱 柱の上の飾りはドイツ表現主義の 影響だろうか?飾りは柱と 一体成形ではなく置き物。 銘板は石造り(黒大理石?) |
↑中柱 柱の上にはヴォリュート(渦巻き 状の装飾)と半球体が置かれ、 側面には幾何学模様が 施されている。 |
↑主桁(下流右岸から) 写真中央が主桁。径間長は8m程度(推定)。 主桁にはH形の鋼材が6本、下面には横構(×の形の補強)が 施されている。桁の側面には鋼材を覆い隠すように、 コンクリートでアーチ状の化粧が施されていたようである。 |
(注)堀切橋は忍川ではなく、近傍の農業用水路に架かっていた。
江戸時代には新忍川(現在の忍川の下流部)は存在していなかった。
武蔵国郡村誌の埼玉郡袋村(13巻、p.380)に、
”堀切橋:行田道に属し村の北方 堀切溝の上流に架す 長四間巾二間 土造”
とある。長さが7.2mの土橋(木造の橋で、橋面は土を盛って舗装)だった。
行田道とは日光裏街道のこと。堀切溝とは農業用水路のことで、
これは元荒川の三ツ木堰から分水していたようである。
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関連項目:[青柳橋][新佐賀橋][古レールのアーチ橋の周辺〜石田堤]