新佐賀橋 (しんさが)

 
場所:元荒川、埼玉県北足立郡吹上町(ふきあげ)本町3丁目〜鎌塚4丁目  〜 周辺の風景 
 形式:RC(鉄筋コンクリート)アーチ橋、開腹アーチ(欠円)  建設:昭和8年(1933)6月
    長さ 15m(歩測)、幅 5.6m、欄干高 0.8m

 
新佐賀橋は(筆者が確認した限りでは)元荒川に架かる唯一のRCアーチ橋である。
 昭和初期に実施された元荒川の改修事業で建設された橋梁群のうちのひとつ。
 同事業では、鉄道の古レールを再利用したアーチ橋も数多く建設されている。
 元荒川の改修と新佐賀橋の設計は、埼玉県水利課がおこなったと思われる。
 なお、埼玉県耕地課が担当した元荒川支派川の改修事業でも、新佐賀橋と同様な装飾過多の
 構造物(道路橋、水路橋、取水堰、伏越)が、短期間のうちに大量に造られている。
 それらは星川酒巻導水路忍川現存する。なかでも、大和橋(星川、行田市、昭和7年)と
 堀切橋(忍川、行田市〜吹上町、昭和8年)は、装飾の奇抜さにおいて、
 新佐賀橋と並ぶ白眉の存在である。

 
上記事業で建設された構造物を見て回ると気づくことだが、新佐賀橋に施された装飾は
 決して特異なものではない。当時の構造物には程度の差こそあるが、
 どれも工夫されたデザインを持ち、何らかの装飾が施されている(→橋の欄干の意匠)。
 これらの構造物の設計は当然、土木技術者が担当したのだが、意匠の部分は建築家が
 担当することもあったようだ。新佐賀橋の場合、様々な様式が(オーダーを無視して)
 てんこ盛りされている。これが素人臭くて、へんてこなのだ。悪く言えば過剰で饒舌な装飾だが、
 不思議なことに押し付けがましさはなく、躍動感のある軽快な造形に仕上がっている。
 ともあれ、機能重視で素っ気無いデザインの構造物に目が馴れてしまった私達に、新佐賀橋は
 驚きだけでなく新鮮さをも与えてくれる。いわゆるレトロモダンってやつですかね(笑)

 追補:新佐賀橋は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

新佐賀橋  ←新佐賀橋(上流から)
 この付近の元荒川は、南(写真左方向)へ大きく蛇行していたが、
 昭和初期の河川改修で直線化されている。新佐賀橋が架けられた、
 忍・松山道は重要な街道で、明治時代は忍馬車鉄道の路線であった。
 橋名の佐賀(嵯峨)とはこの付近の小字名。新佐賀橋は
 既存の
佐賀橋に対する新橋である(注1)
 新佐賀橋は元荒川の流路に対して橋軸が斜めに配置された斜橋。
 同じ年に近隣の街道に架けられた2橋、青柳橋と堀切橋(ともに忍川、
 行田市、吹上町)も斜橋である(街道の路線を優先させたため)。

 新佐賀橋には、見てのとおり、力が入り過ぎた過剰ともいえる、
 装飾が施されている。皇族が陸軍演習の視察のさいに
 渡るので、豪華な外観に仕上げられたとも伝えられている。
 さらに新佐賀橋が建設された当時の日本は、昭和恐慌によって
 失業者の急増、慢性的な農村不況が深刻化していた。
 時代の要請として、(現金収入が得られるように)できるだけ
 機械を使わない、人力による公共土木工事が各地で
 展開された(注2)。新佐賀橋に施された手間のかかる装飾は、
 このような時代背景を反映したものだろう。

 新佐賀橋の親柱と欄干
↑新佐賀橋の親柱と欄干
 親柱と欄干はゴシック調のデザイン。
 欄干の装飾は花びらをモチーフにしたのだろうか?
 似たデザインは、
玉野用水取入樋管(行田市、
 酒巻導水路、新佐賀橋と同じ年に建設)にも
 使われている(型枠組むの大変だったろうなあ)。
 親柱や欄干に対し、橋詰は意外に地味である。

   アーチ部側面の装飾
  ↑アーチ部側面の装飾(下流側)
   アーチ部の装飾が違和感のもと(私だけだろうか?)。
   中央には、要石を意識したと思われる大きな突起まで付いている。
   床版の側面には
デンティル(歯状の装飾)が施され、
   アーチリブや開腹部の柱にまで細かな溝が彫られている。
   新佐賀橋の表面には、淡いピンク色のモルタルが
   吹きつけられているが、これは建設当初からなのかは不明。

(注1)武蔵国郡村誌の足立郡吹上村(3巻、p.250)に嵯峨橋の記述がある。
 ”行田道に属し村の西
 元荒川の上流に架す 長三間半巾一間 石造 本村及鎌塚村にて架す”
 郡村誌は明治9年(1876)の調査を基に編纂したものだが、当時の嵯峨橋は
 橋長三間半(6.4m)の石橋だったことがわかる。石橋の形式はアーチ橋ではなく
 桁橋だったと思われる。吹上町内の元荒川に架かっていた橋は、嵯峨橋以外は
 全て木橋だったので、この路線が重要な街道だったことが窺い知れる。
 行田道は江戸時代は日光脇往還(八王子千人同心道)であった。
 嵯峨橋から南へ500mの地点で、行田道は中山道と交差し、吹上村から南は
 荒川を大芦の渡し(渡船)で越え松山町(現.東松山市)へ通じることから、松山道とも呼ばれた。
 吹上町大芦地区には 
旧街道跡が残り、沿線には道六神(道祖神)の祠や松山道、五反田河岸と
 記された江戸時代の道標(塞神)が今も建っている。

 紛らわしいことに、吹上村の東側には日光裏街道というのも存在した。
 これは館林道と呼ばれ、中山道の箕田追分から別れ、袋村、堤根村、
 忍町へと通じていた。なお、架橋地点の左岸の鎌塚村は当時は
 埼玉郡であり、嵯峨橋は郡界に設けられた橋である。
 さかひ橋が転じて、さが橋になったとも言い伝えられている。

(注2)例えば、新佐賀橋の南側100mを通る県道365号線は、旧国道17号線だが、
 新佐賀橋の建設当時、農村振興事業という名目で道路工事が実施されていた。
 元荒川の改修工事や忍川の開削工事で発生した大量の残土は、
 国道17号線工事の盛土に流用されたという。
 17号国道改良工事概要(埼玉県史
 資料編22、p.425)によれば、
 17号国道の工事は昭和6年から昭和9年にかけて実施され、年度毎に
 工事区分が失業救済事業、農村振興事業、時局匡救事業などと変わっている。
 事業費の内訳を見ると、工事費全体に占める労力費の割合が高く、
 労働者の使用人員が多いのが特徴である。


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