忍川 (おしかわ) (その3) (その1)(その2)  [忍川のページ一覧

 
撮影地:埼玉県行田市、北足立郡吹上町、鴻巣市

 
忍川の下流部4Kmの区間(行田市佐間から元荒川へ合流まで)は新忍川と呼ばれる。
 これは人工河川であり、昭和7年(1932)頃に元荒川及び支派川の県営改修事業の一環として、
 新たに開削されたものだ。これには忍沼の排水路と酒巻導水路の余水放流(忍川を経由して元荒川へ
 農業用水の供給)という2つの目的があったと思われる。
 なお、新忍川の掘削で発生した大量の残土は、 同時期に失業対策事業として
 進行していた国道17号線(現在の吹上町から熊谷市までの旧道)の工事へまわされ、
 道路の盛土に流用されたという。また、周辺地域に分布していた沼沢地の埋め立てにも使われた。

 
一方、忍川の旧流路である行田市佐間から見沼代用水までの約5Kmの区間は、
 現在は旧忍川と呼ばれているが、実態は廃川である。
 旧忍川を再整備して、さきたま古墳群の一帯を、さきたま調節池へと転用する計画が
 持ち上がっている。つまり、旧忍川には野通川(やどおりがわ)の洪水調節を担せようというわけだ。

 
余談:新忍川の区間には現在は13もの橋が架けられているが、そのうちの6基が
  鉄道の古レールを再利用したアーチ橋、2基がラーメン橋台橋である。
  これら8基の橋は昭和初期の河川改修のさいに建設され、今も現役の希少な存在だ。
  全国的にも珍しい存在であり、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定されている。
  一方、旧忍川に架けられている橋はわずかに5つ。上流から順に、聖天木橋、木の橋、
  共栄橋、新橋、旭橋であり、最も古い旭橋(昭和初期建設だが部分改修)は水門を兼ねている。
  旧忍川に架かる橋は比較的新しいのだが、明治時代に建設されたレンガ造りの水門が2基もある。

 新忍川の起点
↑新忍川の起点(下流から) 行田市佐間(さま
 川幅(堤防天端間の距離)は約35m。右岸側には行田市環境センターと
 行田中学校が位置する。忍川には環境センターで処理された下水が
 放流されている。上流左岸の建物は、行田養護学校と行田警察署。
 利根大堰建設のさいの水理実験場(堰の位置や沈砂池の規模決定の
 ための施設)の跡地に建っている。写真右の白い欄干(玉野用水の水路橋)の
 付近が、河川改修によって廃川となった下忍川(現.旧忍川)の起点である。
 昭和初期に河川改修されるまでは、忍川は行田市持田付近で
 
南北に分岐し、行田市中心部の忍沼(現.水城公園)を挟むように流れ、
 この写真の付近で合流していた。現在は南側の流れは河川改修に
 よって消滅している。わずかな片鱗は
忍沼川(準用河川)であり、
 現在も行田中学校の脇で忍川の右岸に合流している。
 写真中央の島状の付近から下流が、新忍川として整備(開削)された
 区間である。新忍川の路線には、かつては大悪水堀と呼ばれた排水路が
 あったので(注1)、新忍川はそれを拡幅整備したのだと思われる。
 なお、写真の中央、島状の付近には昭和初期の河川改修に伴い、
 忍川分水堰(農業用水)が設けられた。現在は堰は撤去されているが、
 河道には基礎部分のコンクリートが残っている。

 諏訪山橋の付近
↑諏訪山橋の付近(下流から) 行田市佐間三丁目〜佐間

 新忍川の起点から600m下流。諏訪山橋の名は右岸にある
 諏訪神社(古墳跡)に由来するのだろう。諏訪山橋の左岸には、
 
さきたま古墳群があり、右岸橋詰には、日光裏街道(館林道)の
 一里塚(エノキの大木)が残っている。一里塚の南側で
 忍川に合流している用水路は、上忍川の跡を改修したもの。
 新忍川の左岸側には50m離れて
玉野用水(農業用水)、
 約300m離れて
武蔵水路(都市用水)が並行する。

 この付近だけ川幅がかなり広くなっている。忍川の左岸には
 
佐間水門(写真右端)が設けられていて、大雨の時には
 忍川の洪水の一部は、武蔵水路に放流される。
 武蔵水路に放流された水は、最終的に荒川へと落ちる。
 昭和初期に行なわれた河川改修では、洪水は元荒川へ
 落とすように計画されたわけだが、時代を経て流域の都市化が
 進行し洪水流量が増大して、忍川の排水能力は不足となった。
 今では武蔵水路(首都圏800万人の生活用水を送水)の
 お世話になっているのだ。

 古レールのアーチ橋
↑古レールのアーチ橋(上流から) 行田市樋上(ひのうえ)
 下忍橋から200m下流。この付近の川幅は約15m。
 昭和初期に新忍川として開削された頃のままだ。
 樋上地区には古レールのアーチ橋が3基も
 架けられている。新忍川の路線は樋上地区を分断して
 いるので、これらのアーチ橋は、その補償として
 建設されたのだと思われる。新忍川の左岸では微高地に
 沿って民家があり、右岸には水田が広がっている。
 北西にある下忍神社(注2)は元来は久伊豆神社だった。

   
青柳橋の付近
  ↑青柳橋の付近(下流から)
   右岸:行田市樋上、左岸:行田市堤根(つつみね)
   古レールのアーチ橋から500m下流。
青柳橋(県道148号線)は
   昭和初期の忍川開削のさいに架けられたラーメン橋台橋。
   忍川は排水河川として開削されたため、形態的には
   落(おとし、農業排水路)だ。低地を掘削した掘り込み河道であり、
   はっきりとした堤防はない。しかし、この付近の左岸側には
   荒川(現.元荒川)の氾濫による自然堤防が形成されている。
   左岸の伊奈利神社に祀られた宇賀神は、
塞神が追刻された珍しい例。

 清水落の合流
↑清水落の合流(下流から)
 右岸:吹上町下忍、左岸:行田市堤根
 青柳橋から800m下流。
清水落(農業排水路)が
 右岸へ合流している(注3)。この地点から100m下流の
 右岸へは、
三千坊落(農業排水路)も合流する。
 三千坊落が忍川へ合流する地点には、
古い橋が残って
 いて、橋詰には明治33年(1900)再建の
弁財天(水の
 神様)も祀られている。さらに下流では、忍川は
石田堤
 貫いて流れる。石田堤の分断地点は堤防の決壊地
 (天正年間の石田三成による忍城の水攻めの時)だが、
 現在そこには
堀切橋が架けられている。堀切橋は
 かつての日光裏街道に架かる橋ということになる。
 堀切橋も青柳橋と同様にラーメン橋台橋だが、
 過剰ともいえる独特な意匠が特徴だ。水害防備林なの
 だろうか、堀切橋付近の左岸には篠竹が群生している。

   
元荒川への合流地点
  ↑忍川の終点(下流から)  吹上町袋(ふくろ)
   元荒川橋(鴻巣市川面:かわづら)から撮影。
   忍川は元荒川の左岸へ約45度の角度で合流する。
   写真の左が
元荒川、右が忍川。自然合流であり、合流地点には
   導流堤や水門は設けられていない。忍川の第一橋(最下流の
   橋:合流地点から150m上流)は前屋敷橋。鉄道の古レールを
   リサイクルした3連のアーチ橋(昭和8年頃建設)である。
   元荒川に架かる川面橋も以前は古レールのアーチ橋だった。
   なお、前屋敷橋の上流には天神堰(農業用水の取水堰)が
   設けられていたが、昭和初期の河川改修のさいに撤去された。
   元荒川橋の下流では、
武蔵水路が元荒川を伏越(逆サイフォン)で
   横断している。武蔵水路は埼玉県や東京都の都市用水を
   運ぶ水路で、利根川から荒川へ導水している(武蔵用水)。
   余談だが、元荒川には元荒川橋という名の橋が
   少なくとも5基以上、架けられている!

(注1)武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の埼玉郡下忍村(13巻、p.354)に
 大悪水堀の記述がある。”〜中略〜字西谷の南端より起り水除囲堤に沿ひ
 ツヲトノ橋より南の方に曲り袋村界に至る 長十五町二十五間
 而して西谷東谷三千坊の三悪水堀湊合し袋村を経て終に元荒川に入る”
 ツヲトノ橋(
ソウトノ橋だと思われる)より南の方に曲りとあるが、この付近から
 下流は現在の忍川の流路とほぼ同じである。
 ちなみにソウトノとは小字であるが、似た発音の
通殿や蔵殿を連想させる

(注2)下忍上分にある下忍神社には、明治6年(1873)に
 奉納された新川早船絵馬が残っている。これは荒川の
新川河岸の様子を
 描いた絵馬であり、行田市指定文化財(歴史資料)となっている。
 新川河岸とは現在の熊谷市久下付近の荒川に明治初期まであった、
 河岸場(舟運の荷降しのための中継所)である。
 荒川からはかなり遠方である下忍村にまで、舟運関係者が在住していたようで、
 この絵馬は新川河岸の規模の大きさと賑わいぶりを示している。

(注3)現在は清水落が忍川へ合流しているが、歴史的には大悪水堀を改修して
 清水落の旧流路へ新忍川を繋げたといった方が適切かもしれない。
 昭和初期に新たに開削された忍川は、石田堤を分断して流れているのだが、
 新忍川は旧北埼玉郡下忍村までも地理的に分断してしまった。
 ちなみに大正時代に設置された
下忍村の道路元標が吹上町郷土資料館に
 保管されている。さらに下忍村は昭和39年には、武蔵水路の建設によって
 再び分断されることになる。そして、昭和31年には上分(行田市)と
 下分(吹上町)へ分村してしまった。その境界となったのが清水落である。


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