古レール・アーチ橋の特徴
古レール | 昭和初期には、古レールを建設用資材として扱う業者が存在し、流通市場が形成されていたようである。 アーチ橋に使われているレールの製造元は、英、独、米の8社、製造年は1885年から1922年と幅広い。 多くのレールで、官営の鉄道(日本鉄道、鉄道局、鉄道院)が発注したことを示す刻印が 確認できるので、実際に国内で軌条として使われ、磨耗して耐用年数に達したさいに、 上記の業者に引き取られたのであろう。発注者名が記されていないレールは、国内で軌条に 使われていた物ではなく、古鉄材として海外から輸入された可能性が高い。 忍川のアーチ橋に使われている古レールは、某論文では[東武鉄道の軌条の転用]と 推測されているが、それはありえない。というのは、TOBU(東武鉄道)と発注者名が 記されたレールが確認できないことに加え、前屋敷橋、笹原橋にはロシアの東支鉄道向けの 規格(67.5ポンド)のレールが使われているからである。 この規格は日本の鉄道では採用実績がない。また、小谷橋、酒巻導水路のアーチ橋に使われている、 レールも断面寸法が大きいので、これらも67.5ポンドのレールだと思われる。→ 古レールの刻印 |
橋の材料と 重要度 |
橋の重要度に応じて、建設材料を選定していたようである。 重要度の高い順に、コンクリート、古レール、木だろうか。 元荒川では、コンクリート(新佐賀橋、三谷橋)、古レール(小谷橋、笹原橋、等)、木(下郷地橋)であり、 忍川の下流部は、コンクリート(青柳橋、堀切橋)、古レール(5橋)であった。 往来の多い古い時代からの街道には、コンクリート橋が架けられている。例えば、新佐賀橋は 行田道(日光脇往還)、青柳橋は騎西道、堀切橋は館林道(日光裏街道)に架かる。 この傾向は酒巻導水路、星川、野通川でも同様である。なお、元荒川の周辺には鉄道に関連した、 別の変わった橋も存在する。星川の上流部には鉄道の枕木を再利用した木橋がある。 枕木の橋は白岡町の庄兵衛堀川にも見られる。 忍川の下流部2Kmの区間(旧・北埼玉郡下忍村)には、昭和初期に7基もの橋(5基が古レール)が 建設された。橋の建設当時、下忍村は人口約3000人のごく普通の農村であった(特別な産業が あったわけではない)。にもかかわらず、古レールのアーチ橋が5基も建設されたことは注目に値する。 もっとも下忍村史(稲村担元・韮塚一三郎、1951)のp.198には、忍川の改修については、 長野村(現.行田市長野)選出の県会議員、高沢俊徳の尽力が大とあるので、 政治力が影響していたことも否めないが。なお、下忍村は昭和30年に行田市と北足立郡吹上町へ 分村してしまった。吹上町郷土資料館には下忍村道路元標が保存されている。 |
デザイン | 忍川の三連アーチ橋5基(1933年以降に竣工)は、元荒川の三連アーチ橋(1932年竣工:小谷橋、 笹原橋、渋井橋)の基本設計を踏襲したものと思われる。元荒川改修事業で建設された橋梁 (特に元荒川と忍川の合流部付近)の外観は、頑なに三連のアーチで統一されている。 古レールのアーチ橋と同時期に、忍川の下流部に建設された2橋、青柳橋(樋上地区)と 堀切橋(堤根地区)は、一径間の桁橋(コンクリート、鋼)であるが、形式はラーメン橋台橋(橋台の 側面がアーチ状にくり貫かれている)であり、これらも遠目からだと三連のアーチ橋に見える。 関東大震災後の復興事業で建設された隅田川の橋梁群(東京都)の形式が、三径間で 統一されたことを想起させる。蛇足であるが、元荒川改修事業で建設された構造物(橋梁や水門)の 意匠や装飾は、震災復興事業のものとよく似ている。同事業では都市景観に最も調和する橋梁形式は アーチ橋だという哲学と美意識の萌芽もあったようである。 埼玉県は東京都に隣接するので技術や情報だけでなく、人脈も流れてきたのであろう。 ちなみに、元荒川改修事業を提唱した埼玉県知事の岡田忠彦は、もと東京府内務部長である。 内務部とは概括的な組織形態であり、営繕、土木、警察まで含んでいた。 例えば土木に関するのは内務部土木課であった。岡田は埼玉県知事に就任した翌年に 県庁内に水利課を設置したが、新設の部署なので人員は即戦力となる人脈を東京府から 引き抜いてきた可能性も高い。当時は県職員の他県への移動はさほど珍しくなかった。 |
構造設計 | 古レールのアーチ橋の形式を構造力学的に区分すると、三径間連続アーチ橋となる。 いわゆる不静定構造であり、この構造計算を手計算でおこなうのは、非常に複雑かつ困難である。 しかも古レールのアーチ橋が竣工した昭和8年(1933)当時の日本では、 その解法についても充分な研究はなされていなかったようである。 例外として、昭和4年(1929)に竣工した荒川橋は、三径間バランスドリブアーチだが、設計者の 増田淳は米国の橋梁会社に10年以上勤務していたので、簡易解法を習得していたのであろう。 連続アーチ橋の正確な設計方法に関する論文が、土木学会誌で発表されるのは昭和10年以降である。 昭和11年(1936)11月号 連続拱橋の解法、三瀬 幸三郎 昭和14年(1939)6月号 上路補剛構桁を有する拱橋に関する研究、小沢 久太郎 昭和16年(1941)4月号 連続アーチの計算、小野 一良 なお、昭和14年(1939)5月号には、鋼道路橋設計示方書案、内務省土木局が紹介されている。 古レールのアーチ橋は、スパン長が10m未満の小さな橋なので、連続アーチ橋として、 本格的な構造設計がおこなわれたとは、思えない。 おそらく、桁橋(単純はり)として、設計されたのだろう。 |
装飾 | 忍川の橋:欄干は機能重視で装飾も控えめ。樋上1号橋の欄干は、和風の雲飾りを彷彿とさせる。 親橋はあるが銘板は付けられていない(そもそも大半が無名橋である!)。 橋脚(門形ラーメン)の隅部はハンチになっている。 一方、上述の青柳橋、堀切橋は凝った装飾の欄干、親橋を持つ。銘板は黒い大理石製である。 ただし、この銘板は質感が新しいので、建設当初からのものなのかは疑問だ。 コンクリート橋梁は意匠に西洋風の様式が取り入れられているが、古レールアーチ橋にはそれがない。 元荒川の橋:現存する3橋と砂山橋(改修)の欄干は鋼製で、円を基調としたデザインで統一されている。 装飾が施された親橋には、金属製の銘板が付けられていた。(→小谷橋、笹原橋) 橋脚の隅部はハンチではなく、アーチ状に化粧されている。 概して元荒川の古レールアーチ橋群は忍川の橋梁群と比べると、装飾性に富み、仕上げも良好である。 アーチ橋の上流には極めつけの装飾橋梁、コンクリート開腹アーチの新佐賀橋(1933年)が建設された。 |
スパン長 | 元荒川改修事業では古レールアーチ橋の設計に関しては、アーチの1スパンは長さ10mを上限とする、 という設計基準があったと思われる。忍川の4橋梁は全長約15mであるが、中央径間が約6m、 側径間が約3.5mであり、バランスドリブアーチのような形状になっている。 最も規模の大きい渋井橋(元荒川)でも、全長約28m、中央径間が約9m、側径間が約7mである。 一方、昭和30年頃に建設されたと思われる樋上水管橋は、1スパンの長さは14mとなっている。 なおスパン長が6mを越える場合、アーチリブには2本のレールをアーチトップで結合したものが使われている。 当時の技術では6m超の曲げ加工は不可能だったのか、加工工場の作業空間の制限なのかは不明。 p.s.1932年に建設された酒巻導水路のアーチ橋はスパン10mであるが、アーチリブには1本のレールを 曲げたものが使われている。当時の技術で6m超の曲げ加工は可能だったようだ。 なお古レール1本の長さは定尺レールの場合、20〜25mである。 |
構造と施工 | 古レールのアーチ橋の建設には難度が高い施工技術を要した、ということはない。 橋自体は現場での工事量を減らし、かつ施工が簡単にできるような構造になっている。 一例として、酒巻導水路のアーチ橋は、昭和7年9月〜12月という短期間に3基が完成している。 アーチ部の古レールは、加工・組み立てを工場でおこなった後、現場へ搬入して据え付けたと思われる。 橋台(逆T式?)と橋脚(ラーメン構造)を施工した後の現場での主な作業は、床版の打設のみとなる。 床版はスラブではなく、コンクリートの板を主桁の上に並べた構造(方塊造り)であるので、 施工は人力のみの単純作業で済む。 これらの橋の建設には、救農土木事業として、地元の農家の人が動員されたのだろう。 なお、忍川のアーチ橋の施工は元荒川の橋に比べると、かなり雑である。 (例えば、レールの曲げ加工が不備なためかアーチが歪んでいる。手作りの趣となっているけどね...) |
余談 | 前屋敷橋、笹原橋に使われている古レールは、東支鉄道(北満鉄路)向けのものである。 それも、わずか1年間しか製造されなかったという、非常に特異なものである。 何故、そんなに珍しいレールが埼玉県まで流れてきて、橋に姿を変えているのだろうか? その背景について状況証拠(笑)を並べると、 (1)元荒川改修事業で建設された構造物の意匠や装飾は、震災復興事業のものとよく似ている。 (2)震災復興事業を指揮した後藤新平は、南満州鉄道の総裁を務めたことがある。 (3)震災復興事業の橋梁建設で活躍した技術者には、鉄道省の出身者が多かった(ex.隅田川橋梁群の太田圓三) (4)国鉄では古レールの再利用は、珍しいことではなかった(ex.ホームの上屋、跨線橋) 東京都に古レールを使った巨大な跨線橋が相次いで建設されるのは、関東大震災後(1923)である。 例:飛鳥山下跨線人道橋(1925)、白金桟道橋(1926)、東十条北口跨線橋(1931) (5)前屋敷橋の位置する北埼玉郡袋村(現.北足立郡吹上町袋)は、北武鉄道の創設者、 指田義雄の出身地である。北武鉄道は大正11年(1922)に秩父鉄道と合併している。 |