文覚門樋 (ぶんかく)
所在地:比企郡吉見町飯島新田、文覚排水路 建設:1893年
文覚門樋は文覚排水路(文覚川)の末端に設けられていた煉瓦造りの逆流防止水門。
文覚排水路は横見第一用水(大里町の分量樋を起点とし、荒川の右岸堤防裾に沿って流れる農業用水路)の
流末であり、吉見領大囲堤の南東端に位置する台山堤を横断して、悪水を市野川へ排水している。
吉見領の地形は北と西が高く、南と東が低いのだが、歴史的経緯から排水先は荒川ではなく市野川である。
つまり、文覚排水路は吉見領の堤内地(輪中堤防の中)に溜まった水を抜くための主要排水路である。
文覚門樋は明治26年(1893)7月に、横見郡北吉見村外ニケ村水利土功組合(管理者は
北吉見村長 原作衛)が、県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、
横見郡東吉見村荒子に建設した。総工費は8,900円であった。
文覚門樋という名称は、既存の2基の木造樋門、文右エ門樋と角エ門樋(原文のまま記載したが、
角エ門は覚右衛門だと思われる)を合併したことによる(埼玉県行政文書 明1792-12)。
文覚門樋が完成する2年前には東吉見村台山(文覚門樋から200m西側)に台山門樋が建設されている。
台山門樋は吉見町に建設された最初の煉瓦樋門である。これも既存の3基の木造樋門を合併して、
煉瓦造り(使用煉瓦数9万7千個)で改良したもの(埼玉県行政文書 明1778-57)。
建設費7,495円の6割を補助金に頼っている(→埼玉県議会史 第1巻、1956、p.952)。
なお、文覚門樋の建設当時、現.吉見町の区域は比企郡ではなく横見郡であった。
横見郡は明治29年(1896)に廃止され比企郡となり、現.吉見町の区域には東西南北の吉見村が存在した。
吉見町のように自治体の母体が一つの郡であり、それがそのまま町へと再編された例は埼玉県では珍しい。
なお、西吉見村と南吉見村の道路道路は今もなお残っている。
文覚門樋は使用煉瓦数が約26万4千個(表積3万1千個は横黒・鼻黒煉瓦、裏積23万3千個が一等焼煉瓦)、
樋管長が9間(約16.2m)、通水断面は2連のアーチ(幅
7尺5寸:2.25m、高さ 6尺7寸:2.0m)、
基礎杭(直径15cmの松丸太)が288本という巨大な煉瓦構造物であった。
ゲートは合掌戸(木製?)であり、戸当りや隅石の石材には小松石が使われた。
当初の設計では樋門の表積煉瓦は横黒・鼻黒であったが、工事着工後に横黒・鼻黒が
入手困難であることが判明し、東京市京橋区八丁堀、松尾町、金町製瓦会社(金町煉瓦)など埼玉県外の
数社に問い合わせてみたが、納入不可能だったようである。結局、地元の日本煉瓦製造の
カッセル焼(表積用の化粧煉瓦、色は赤)で代用することになった。北吉見村長が埼玉県内務部長宛に
カッセル焼の現物を添えて、煉瓦変更の許可願いを提出し、受理されている(埼玉県行政文書 明1792-15)。
↑文覚門樋に使われていた煉瓦 稲荷神社から北東200mの路傍に 長さ約4m、幅65cmにわたって煉瓦が 残っている。文覚門樋が解体された時に (昭和30年代の中頃だったという)、地元の 人が煉瓦を譲り受けて、道路の敷石として ここに埋めたのだという。 |
↑赤煉瓦 文覚門樋は赤煉瓦造りであったという。 これは表積の煉瓦にカッセル焼が使われたことを裏付けている。 現在残っている煉瓦は、長手と小口面にあまり光沢がなく、 素焼きに近い質感なので、表積のカッセル焼ではなく、 裏積の一等煉瓦(普通煉瓦)だと思われる。 平の面には無数のシワ模様が見られる。 これは、この煉瓦が機械で成形された証しである。 この煉瓦はおそらく日本煉瓦製造の製品であろう。 ただし煉瓦の形状には歪みが見られ、実測寸法も 長手(212〜220mm)×小口(104〜100mm)×厚さ(56〜59mm)と かなり不均一である。写真の下部に見えるモルタルは 砂の含有量が多く、叩くと簡単に剥がれてしまう。 出来形帳によるとポルトランドセメントが使われているのだが、 もともと貧配合なのか経年劣化なのかは不明である。 |
↑文覚門樋の設けられていた地点(下流から) 文覚門樋は文覚排水路の安土堂橋(あんぢつどう)の 下流付近に設けられていた。文覚排水路(文覚川)は 改修されていて、現在の川幅(天端幅)は約12m。 左岸(写真右側)に見える桜並木は、吉見さくら堤である。 |
↑文覚門樋の代替施設(吉見排水機場) 吉見排水機場(昭和36年完成)へは文覚排水路、内谷堀排水路、 台山排水路が合流している。旧吉見領の排水は吉見排水機場から 吉見樋管(台山堤)を経由して市野川へ排水されている。 写真奥が、かつての台山堤(県道33号東松山桶川線)。 |