小山川 (上宿橋から男堀川の合流まで) [小山川のページ一覧]
撮影地:埼玉県児玉郡美里町、本庄市
(1)上宿橋の付近(上流から) 左岸:児玉町児玉、右岸:美里町沼上 上宿橋(昭和6年竣工)から撮影。奥に見えるのは、 新上宿橋(県道75号 熊谷児玉線のバイパス)と水管橋。 上宿橋から400m上流には身馴川橋梁(JR八高線、昭和7年 開通)が架かっている。この付近の小山川の左岸堤防は 小山川サイクリングロードとして整備されている。 上宿橋から400m東の県道75号線の脇には、鎌倉時代の 瓦窯の跡(水殿瓦窯跡)がある。水殿という地名の由来は 重殿や通殿と似たものだろう。今でもこの周辺は瓦の製造が 盛んである。なお、右岸の美里町側は昭和29年まで、 児玉郡東児玉村だった。大正時代に設置された 東児玉村の道路元標が今も残っている。 美里町の町域は東児玉村を除き、那珂郡だった。 |
(2)十条河原大橋の付近(左岸から) 左岸:美里町下児玉、右岸:美里町北十条 (1)から1.6Km下流。この付近から上流では小山川には 落差工(床固め工)の設置頻度が高くなる。見た目よりも 河床勾配は急なのだろう。どの落差工にも魚道が 併設されているようだ。両岸の高水敷には、遊歩道 (リバーウォーク)が設けられているが、これは埼玉県が 実施した小山川環境整備事業によるもの。高水敷の幅は 約9mあり、ゆったりしている。十条河原は明和元年(1764)に 児玉郡の農民が一斉に蜂起した地として有名である(注1)。 十条という地名は条里制に由来する(注2)。 なお、十条河原大橋の右岸上流にある十条樋管、さらに下流の 小茂田樋管は以前は煉瓦造だった(共に明治34年竣工)。 武蔵国郡村誌には堀割堤とあり、水門1ケ所の記述がある。 |
(3)栗崎大橋の付近(上流から) 本庄市栗崎 (2)から2.4Km下流。奥に見えるのは上越新幹線の高架橋。 栗崎大橋は県道31号本庄寄居線の道路橋(昭和29年 竣工)。それほど古い橋ではないが、銘板には河川名が 小山川ではなく、身馴川と記されている。 栗崎大橋から上流11Kmには間瀬湖、下流3Kmには 本庄駅が位置する。小山川の右岸に沿ったこの区間は、 小山川ハイキングコースと呼ばれている。 栗崎大橋の西1Kmには、早稲田大学本庄校舎が立つが、 その一帯は残丘(注3)であり、山中には塚本古墳群がある。 |
(4)本庄総合公園の付近(上流から) 本庄市栗崎 写真(3)から300m下流の付近、栗前橋から撮影。 小山川の低水路は、本庄総合公園の南端付近までの 約200mの区間だけ幅が広くなっている。河床には護床ブロックが 大量に配置されている。この付近では小山川の流路と町村界が 一致しない。小山川の両岸は本庄市栗崎地区である。 本庄市、美里町、岡部町には古い火の見櫓が非常に多い。 写真の左端、小山川の左岸に見える木立が本庄総合公園。 体育館はシルクドームの愛称を持つ(繭の形をしているためか)。 本庄の市街地には生糸産業に関連した建物が多く残っている。 |
(5)男堀川の合流(上流から) 本庄市西五十子(いかっこ) 左が男堀川、右が小山川。合流地点には[準用河川 男堀川終点]と刻まれた標石が残っている。現在、男堀川は 一級河川だ。遠方に見えるのは東京電力の岡部変電所。 左岸側には、この付近から岡部変電所の付近まで 旧堤防が残っている。旧堤防の周辺には数多くの石仏と 共に堤供養塔が祀られている。なお、旧堤防の一部は JR高崎線の軌道盛土に転用されていて、そこには 煉瓦造のアーチ橋が架かっている。JR高崎線が小山川を 横断する地点に架かる鉄道橋は、身馴川橋梁(みなれ: 小山川の改修前の名称)である。 この付近のJR高崎線の開通は、明治17年(1884)と早い。 |
(6)道路のために分断された導流堤(左岸から) 左岸:本庄市西五十子、右岸:岡部町榛沢 男堀川の合流地点には、本庄市と岡部町を結ぶ市道が 通っている。この市道は昔からの旧街道であり、沿線には 古い道標なども残っている。小山川の河川敷内には、 男堀川の導流堤が設けられているのだが、市道を通すために その一部が大胆に分断されている(写真の手前)。 陸閘形式ではないので、ゲートはおろか、ゲート設置用の 溝も付いていない。導流堤の意義が疎かにされている。 写真奥に見えるのが、小山川に架かる前の橋(通称)。 河川敷に設けられた橋なので、大雨で小山川が増水した時には、 冠水して渡れなくなることもあるそうだ。 |
(注1)世にいう明和の伝馬騒動(天狗騒動)である。増助郷に反対し免除を
要求した児玉郡、本庄宿の村々の農民は、児玉郡十条村の身馴川の河原に
集結した。村々に貼られた張り紙(誰がやったのか不明)が発端となり、
続々と農民が集まったのだという。そして熊谷宿へ押し出し(強訴)、
これを阻止しようとした忍藩の兵と一戦を交えた。
その後、信州、上州からの農民と合流し、今度は本庄宿へと押し出した。
さらに中山道に沿って南下し、打ちこわしを決行したが、目的は江戸に
向かい、老中に増助郷の実施撤回を強訴するためであった。
幕府の和解と鎮圧によって、一揆は約1ヶ月後に終結した。
一揆の首謀者として獄門に処されたのが、児玉郡関村の遠藤兵内である。
志戸川の新大橋の橋詰(美里町関)には、遠藤兵内の碑が建てられている。
→参考文献:埼玉県史 通史編4、p.634-646、新編埼玉県史 資料編11 近世2、p.5
(注2)十条河原大橋の南側、県道75号熊谷児玉線の脇(南十条383番地)には
十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の
班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の
一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。
十条という地名も条里制に由来するのだという。
残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。
風土記稿によれば、江戸時代には身馴川の川付きには、流作場新田が拓かれ、
十条村(まだ北十条と南十条へ分村していなかった)の持添だった。
旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、
根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座するが、その本拠地が北十条である。
新編武蔵風土記稿の児玉郡十条村(12巻、p.3)に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、
貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、
十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、
本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり…以下略”とある。当寺とは慶昌寺のこと。
武蔵国郡村誌には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、
その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。
北十条の東側には阿那志(あなし)という変わった名前の大字がある。
中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで
穴師郷穴師村と表記していた(武蔵国郡村誌8巻、p.69)、
穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。
その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであった。
近隣の榛沢村は榛の木が群生する湿地だったことが、地名の由来だというが、
榛の木は燃やすと火力が強いそうなので、鋳物製造の燃料に最適である。
水や砂は小山川から供給できるので、金屋は産業立地の条件が揃っていたことになる。
なお、この付近には金鑚神社(金佐奈神社)が、非常に多く分布している。
武蔵国ニノ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、新編武蔵風土記稿の
児玉郡金鑽村(12巻、p.18)によれば、祭神は金山彦或はスサノオであり、
別当 一条院の本尊は十一面観音である。
金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。
不思議なことに、その近辺には十一面観音を本尊とする寺や堂宇が存在する。
前述の金屋村にも金山明神社があり、円通寺と大光寺の本尊は
十一面観音である(新編武蔵風土記稿12巻、p.23)。
また、西五十子村の琴平社は諏訪社(村社)の境内にある末社だが、
金山彦命を祭るとある(武蔵国郡村誌8巻、p.57)。
観音堂の本尊は十一面観音である(新編武蔵風土記稿13巻、p.326)。
(注3)この残丘は本庄市、児玉町、美里町の境界にあり、面積も広い。
歩いた印象では、小山川周辺の低地との標高差は50m近いと思われる。
面白いことに、この残丘、確固たる呼び名がない(学術的にはあるのだろうが)。
本庄市四方田の人は早稲田山と呼んでいた。
武蔵国郡村誌によれば、四方田村と北堀村では前山、西冨田村では大久保山、
下浅見村では東山、栗崎村では琴平山、下児玉村では中山となっている。
残丘の南端、山裾を矢堀川が東へ向かって流れ、美里町下児玉の中山地区で
小山川の左岸へ合流している。矢堀川には九郷用水の流末が集まっている。
つまり、神流川から取水した水が、農業用水として田んぼで使われた後、
巡り巡って、最後は小山川へ流れ込んでいる。
なお、早稲田山から南西へ1.2Kmにも児玉町蛭川、入浅見、児玉に
跨る大規模な残丘がある。大半がゴルフ場となっているが、不思議なことに
残丘の中心部は美里町の飛び地である。
この残丘と早稲田山を結んだ線上には、金鑚神社古墳(入浅見)、
鷺山古墳(下浅見)がある。