新川用水(騎西領用水) (その2) (その1)(その3)
撮影地:埼玉県北埼玉郡騎西町、加須市、北葛飾郡鷲宮町、久喜市
(1)駒形神社(右岸から) 騎西町日出安(ひでやす) 新川用水の右岸に隣接するのが駒形神社。戦国時代に 騎西城を攻めた上杉謙信が、ここへ亡くなった愛馬を 祀ったとの伝承が残っている。 境内の隅には天保九年(1838)建立の扶助田の碑がある。 これは篤志家たちが資財を出し合い、扶助田と称する農地を 設け、そこからの収入で生活困窮者を援助したという、 記念碑である。大水害が多発し天保の飢饉などが 起こった時代のことである。碑の脇にあるのは、昭和35年 (1960)建立の日出安土地改良記念碑。題字は国務大臣 青木正(近隣の川里村出身)。碑文には61haの耕地整理が 実施されたとある。用水路や水田は近代化されているが、 下流の万坊院橋(県道38号線)の付近には、昭和4年 (1929)竣功の舩橋樋(コンクリート製の樋管)が残る。 |
(2)御岳神社の付近(上流から) 左岸:加須市下高柳、右岸:加須市常泉(つねいずみ) 写真(1)から1.7Km下流。下高柳橋(県道149号線)から撮影。 新川用水は騎西町を抜けて加須市に入る。市町村界に架かるのが境橋。 左岸側は騎西町上高柳から加須市下高柳へ移る。水路幅は約2.6m。 用水路の左岸に管理道路、右岸に水と緑のふれあいロードが 配置されている。新川用水の路線は自然堤防上にあるので、 民家は新川用水の周辺に林立し、低地である後背湿地が 水田となっている。広大な水田の中には諏訪神社(農耕の 守護神)などが鎮座する。写真では新川用水の右岸に隣接して 雑木林が見えるが、これは御岳神社(常泉村の村社)の社叢林。 この付近は昭和29年(1954)まで、北埼玉郡水深村だった。 加須市子どもふれあいの家(旧水深村役場を復元)の敷地内には、 大正時代に設置された水深村の道路元標が今も残っている。 |
(3)油井ヶ島用水の分水(上流から) 左岸:加須市下高柳、右岸:加須市南小浜 写真(2)から300m下流。南小浜交差点(県道151号線)から 北西へ150mの地点。右岸へ油井ヶ島用水が分水する。 油井ヶ島用水からのかんがい悪水は、五ケ村落へと 集められ、最終的には備前前堀川となる。一方、左岸の 悪水は青毛堀川へ集められている。共に大落古利根川の 支川であり、一級河川だ。左岸に隣接した八坂神社 (下高柳村の村社)には文化年間(1820年頃)の 弁才天と弁才天女が祀られている。弁才天とは水に 関する神様である。なお1Km下流の右岸に鎮座する竜宮寺は 参道に鳥居があり、神仏習合の痕跡が残る。 |
(4)北辻圦(左岸から) 加須市北辻 写真(3)から2.9Km下流。清浄橋(しょうじょう)の上流右岸。 北辻圦は水路の側壁に設けられた小さな分水工。この形式は 直分と呼ばれ、幹線水路には堰が設けられていない場合が多い。 そのため取水口の敷高は低く、水路底に近い。上部に見える ハンドルを人力で操作してゲートの開度を調節し、幹線水路から 支線水路へ取水する。ここから50m南西、北辻用水?が 県道151号線を横断する地点には、石橋供養塔が祀られている。 武蔵国郡村誌(明治9年の編纂)によれば、新川用水には 非常に多くの石橋が架けられていたことがわかる。 なお北辻地区には堀上田の痕跡が今も残っている。 この一帯は古くは沼沢地だったが、現在は水田へと変貌している。 |
(5)東北自動車道を横断(上流から) 左岸:加須市水深、右岸:久喜市上清久(かみきよく) 写真(4)から900m下流。ここでは、ふれあいロードは埼玉県 園芸研究所の方へ迂回して東北自動車道の地下道を潜る。 東北自動車道を横断する直前に設けられているのが 樋ノ上調節堰(ひのがみ)。右岸上流には樋ノ上圦(分水工)が 設置されていて、久喜市六万部地区へ送水している。 なお、武蔵国郡村誌によれば(12巻、p.216)、六万部村は 上清久村から慶安四年(1651)に分村している。 元禄年間には清久村枝郷六万部村と称していたこともある。 そのためだろうか、現在も六万部には上清久の飛び地が多い。 |
(6)東北自動車道の横断直後(上流から) 左岸:鷲宮町中妻、右岸:久喜市上清久 写真(5)から200m下流、境橋の付近。加須市水深、鷲宮町中妻、 久喜市上清久の境界に架かるので境橋なのだろう。 新川用水は防火用水としても利用されているのだろうか、 写真のような進入路が設けられている。給水栓の数が 不足する地区では、消防自動車が河川や用水路から 取水する措置が採られていることが多い。 新川用水の左岸からは中妻用水、葛梅用水、久本寺用水などが 分水し、それらの悪水は鷲宮江川や中落堀川へ排水されている。 なお、下流右岸には戸賀崎氏練武道場跡がある(注)。 |
(注)上清久集会所付近の民家の脇にある。久喜市指定文化財
戸賀崎氏とは江戸時代後期(1780年頃)の剣豪。神道無念流の免許皆伝である、
戸賀崎熊太郎は江戸にも道場を開き、その当時の主な門弟に岡田十松(羽生市砂山)、
大川平兵衛(坂戸市横沼)、斉藤弥九郎(富山県氷見市)などがいた。
上清久の道場跡地には、知道軒戸賀崎先生(文政七年、撰文は亀田鵬斎、群馬県千代田町出身)、
戸賀崎先生碑(撰文は國學院大學教授 河野省三、騎西町出身)など3基の石碑が建っている。