第8回 埼玉県の橋供養碑  分布一覧と考察      改訂31版:2011/11/09

1.橋供養碑の形態と様式

 全国レベルではどうなのか知らないが、埼玉県ではあちこちに橋の供養碑が残っている(注1)
 特に多いのが、江戸時代中期から明治時代初期にかけて建立された石橋供養塔である。
 時期的には大規模な新田開発が展開された、享保年間(1720年頃)以降に建立されたものが多い。
 筆者の知る限りでは、埼玉県最古の橋供養碑は寒念仏供養同行 橋供養(1695年、富士見市東大久保)であり、
 石橋供養塔と銘されたもので最古は日高市女影(1703年)、最新は坂戸市欠ノ上(1902年)である。
 これらの供養塔は形態的には(1)角柱型、(2)自然石型、(3)石仏型、(4)桁石型の4つに大別できる。

 (1)角柱型
  外見が墓石に似た石造りの碑であり、埼玉県の橋供養塔としては最も顕著な形態である。
  形は直方体だが、頂部の形に差異があり、隅丸形、駒形、角錐形などに区分できる。
  平均的な大きさは高さ80cm、幅30cm、奥行20cm程度だが、大きなものは高さが2mを超える。
  埼玉県で最大の橋供養塔は、石橋総鋪石供養(上尾市、1824年)だが、この形式は角柱型である。
  角柱型では塔の頂部に笠石が置かれたものもあり、現在のところ以下の2基が確認されている。
  橋供養塔(坂戸市東和田、1730年頃)、石橋供養塔(久喜市栗原、1792年)
  また、角柱型の橋供養碑では塔の上部に像(地蔵や観音菩薩、青面金剛、馬頭観音など)が
  浮彫りされたものも存在する。これらは様々な民間信仰(念仏、大日、庚申供養等)の
  主尊を兼ねて造塔されたと思われる。碑名が石橋供養仏と記されたものもある。
  例えば、石橋供養佛(上尾市藤波二丁目、1725年)、橋供養佛(川越市菅間、1725年)、
  橋供養佛(川越市的場、1726年)、石橋供養助録佛(川島町正直、1741年)、
  永代修神橋供養仏(大利根町新井新田、1746年)、石橋並道普請供養仏(さいたま市浦和区、1762年)、
  石橋供養尊佛(毛呂山町葛貫、1767年)、石橋供養佛(加須市不動岡、1785年)などである。
  ただし、大利根町とさいたま市の橋供養碑には像は彫られていない。

 (2)自然石型
  外見がおむすびに似た石板であり、石材は緑泥片岩である。緑泥片岩は埼玉県内から
  多く産出し、小川町下里、長瀞町野上下郷が主な産地である。埼玉県には緑泥片岩を使った、
  中世の板碑(青石塔婆)が数多く分布していて、全国にある4万基の半数が存在するともいわれている。
  しかも日本最古から第三位までが大里郡江南町にあり、日本最大の板碑は秩父郡長瀞町に残る。
  自然石型は石橋供養塔としては比較的新しい形態のようで、1800年以降の建立のものが多い。
  碑文に建立年と碑名しか記されていない、簡潔なものが多いのも特徴である。
  また、中世の板碑(建造は1200年頃であろう)を改造として、橋供養碑としたものも存在する。
  例えば、 石橋供養塔(坂戸市塚越、1749年)、石橋供養塔(行田市犬塚、1815年)などである。

 (3)石仏型
  外見が塔ではなく完全に石仏のものである。地蔵や観音菩薩が本体で、祈願内容は本体の端や
  台座に小さく記されている。石仏の刻像方式は丸彫り、舟形の正面に像を浮彫りなどであり、
  共に1個の石材から成る。それに対して、角柱の上に丸彫りの石仏が置かれ、2個の石材で
  構成されたものも存在する。これは角柱型と石仏型の中間の形態である。
  石仏型は比較的古い時代に建立されたものが多い。石仏型の例としては、
  石橋両所供養佛(上尾市小泉、1746年)、橋供養(坂戸市中里、1763年)、
  石橋供養塔(日高市女影、1703年)、寒念仏供養同行橋供養(富士見市東大久保、1695年)、
  奉造立石橋供養(富士見市下南畑、1738年)などがある。

 (4)桁石型
  石橋に使われていた石材に直接、碑文を刻み込んだものである。
  形態と大きさから、石材は石橋の桁に使われていたと思われるので、桁石型と命名した。
  この供養塔は石橋を解体したさいに、残された石材に碑文を刻んで、橋の供養碑としたのではなく、
  石橋が竣工したさいに刻字されたものだと思われる。念佛供養(上尾市戸崎、1721年)、
  石橋供養(加須市大越、1768年)、石橋の親柱(川島町下小見野、1818年)などがある。

 橋供養塔の碑文は塔の名称、建立年、祈願者が記されただけの素朴なものが多く、
 祈願の内容を表した文字が主体の文字塔となっている。
 本HPでは橋供養碑を分類するさいの形式として、このように文字のみで、
 像が彫られていないものを文字塔とした(注2)
 橋供養碑の碑名は石橋供養塔が大半を占め、単に橋供養というのは意外に少ない。
 供養の対象が橋一般(江戸時代には土橋や木の橋が主流であった)ではなく、
 石橋(石造りの橋)に特定されているのが特徴的である。
 つまり、当時最も頑丈な橋だった(同じ規模なら建設費は木の橋よりも高かった)石橋を供養している。

 また、石橋供養と信仰に加えて、道標(道しるべ)を兼ねるものも多い。
 橋は道路の一部であり、供養塔は路傍(道路)に祀るものだから、自然な慣習だといえる。
 例えば、蓮田市蓮田の石橋供養塔(1747年)は、正面には地蔵の座像が彫られ、
 側面は道標を兼ね、かつ十五ヶ所の石橋を供養している。
 なお道標の行き先に供養塔の所在地からは、かなり遠方の地名(江戸は除く)が
 記されている場合がある。例えば慈恩寺(岩槻)、岩殿(東松山)、秩父等だが、これらは
 単なる地名ではなく、観音信仰を表したものだろう。同様に大山道は大山(石尊)信仰となる。
 北埼玉郡騎西町の石橋供養塔(1760年、文字塔)、志木市上宗岡の石橋供養塔(1796年、
 聖観音の坐像)には、大山道への道標が刻まれている。
 ちなみに埼玉県は、江戸時代建立の石橋供養塔のみならず、道標の現存数も
 日本で一番多い特異な地域である。雨降山の銘がある石尊常夜灯の現存数も多い。

 石橋供養塔は建立年の古いものが像を伴うの対して、新しいものは簡略化されて文字が主体と
 なる傾向にある。これは他の石仏、例えば庚申塔の様式が時代が下るにつれ、次第に主尊である、
 青面金剛の像が省かれ、文字のみの庚申塔へと簡略化していったのと同じである。
 ただし、石橋供養塔には特異な例として1725年建立の文字塔(坂戸市東和田)、1864年建立の
 像付き塔(東松山市高坂)も存在する。このように石橋供養塔の様式と形態は多様化している。

  文字塔(角柱型)
  文字塔(角柱型)
  石橋供養塔(白岡町、1821年)
 文字塔(自然石型)
 文字塔(自然石型)
 石橋供養塔(滑川町、1883年)
 上部に地蔵の像
 上部に地蔵の像
 石橋供養塔(岩槻市、1777年)
 完全に石仏
 完全に石仏
 石橋供養佛(上尾市、1725年)

2.橋供養碑の建立者

 (1)個人と講中
 石橋供養塔は為政者(お上)ではなく民間人が建立した。一般的に供養塔(経典供養や巡礼供養など)は
 個人による建立が多いのだが、石橋供養塔は複数の人々(碑文に願主、施主、講中や村中と
 記されている)によって建立されたものが多い。願主や施主は村の名主や寺院の僧侶であり、
 当時の有識者である。願主と講中・村中が併記されたものもあるが、この場合は個人が
 塔の造立を発願し、その功徳を周囲に説いて回り、それに対して村や講が助力したものであろう。
 なお、講とは元来、仏教信仰に基づくもので、信仰など共通の目的のために結成された集会や集団の
 ことである。現在でも村の集いとして(宗教的色彩は薄れてはいるが)、その伝統が継承されている地域もある。
 講は江戸時代に、寺請制度などの幕府の宗教政策に対しての不満から自然発生したものだが、
 意外なことに、その存在は幕府から容認されていたようで(富士講は例外)、各地で盛んに見られた。
 信仰、地縁関係、職業、年齢、性別などで結成された様々な講が存在し、その根底には多様な共同体意識があった。
 ただし、講の指導者は主に僧侶だったので、広義には講は幕府の宗教政策に組み込まれていたともいえる。
 寺社への帰依を中心として組織された代参講(伊勢講、榛名講、大山講など)は規模が大きいが、
 地域的な民間信仰を母体とする講では、その構成人数は数人から数十人程度だったようだ。
 なお、代参講のさいに、詣先への案内人の役割を果たしたのが、修験(山伏)だったとする説もある。
 埼玉県の石橋供養塔で、講中や同行と記されたものは、念仏講や庚申講などの小規模な講が
 建立したものであり、代参講が建立したと思われる事例は、現在の時点では確認されていない。
 ただし、巡礼供養塔の側面に石橋供養と記されたものは存在する。それらには代参講の名前はないが、
 塔の名称から参拝・巡礼を目的とした、地域的で小規模な講によって建立されたと推測できる。
 例えば、百番西国坂東秩父供養(行田市持田、1811年)、
 西国坂東秩父百番供養(吉見町御所、1864年)がある。

 (2)業者の講、馬力講
 馬頭観音と石橋供養塔が習合した事例も数基見られるが、それらは馬力講(馬を使った運送業者の講)に
 よる建立である可能性が高い。念仏講や庚申講は宗教的集いであると同時に、多分に娯楽的要素が
 あったと思われるが、それに対して馬力講などの業者の講の場合、営業権の共同防衛組織的な
 意味合い(株仲間的な)が強かったのではないだろうか。
 以下の供養塔は、碑名が馬頭観音(または観世音)であり、橋供養が併記されている。
 石橋供養塔(坂戸市北浅羽、1783年)、石橋供養(大里町中曽根、1798年)、
 橋々供養(毛呂山町阿諏訪、1812年)、石橋十八箇所供養之塔(川越市萱沼、1813年)、
 石橋供養塔(行田市北河原、1817年)、石橋再建(熊谷市佐谷田、1846年)
 なお、馬頭観音とは習合していないが、石橋供養塔(東松山市岡、1833年)と
 駒形石橋供養塔(春日部市粕壁三丁目、1841年)には、馬持中や馬主中の名が見られる。
 特に駒形石橋供養塔には、金井問屋 馬士中 近村々 馬主中 岩槻穀屋中と刻まれており、
 塔は道標を兼ねている。この付近では古隅田川が古利根川に合流している。
 駒形石橋とは古隅田川に架けられていた石橋だが、古利根川にある河岸場への通路として
 利用頻度が高かったのだろう。河岸場の関連業者が石橋を建設し、それを近隣の19村が
 助力したのだと思われる。河岸場と出入り業者の関係を知る上で、きわめて貴重な史料である。

 (3)女人講、橋組合
 確認数は極めて少ないが、女人講と橋組合によって造立された石橋供養塔が存在する。
 女人講によるものは、石橋供養佛(上尾市藤波二丁目、1725年)と
 石橋供養佛(加須市不動岡、1785年)、石橋供養(岡部町榛沢新田、1841年)の3基のみである。
 上尾市と加須市の塔の主尊は地蔵であり、岡部町の塔は文字塔で二十三夜塔を兼ねている。
 上尾市の供養塔には、施主 藤波村 女中七十三人とあり、加須市の供養塔では
 記された10名の人名のうち9名が女性である。岡部町の塔には六人組と記されている。
 不思議なことに、3基共に建立に関与した女性の人数が明らかとなっている。
 当時の女性は経済的に自立してはいなかったので、供養塔の建立のためには
 村々の寄付や浄財を得たのだと思われる。
 一方、石橋の建設に従事した当事者たちが、建立したと思われる供養塔も存在する。
 それらをここでは、橋組合による造立とする。以下の3基が確認されている。
 石橋講中(越谷市三野宮、1744年、橋組二十一人)、
 石橋造立供養塔(越谷市三野宮、1766年、橋組中)
 石橋供養(加須市不動岡、1766年、願主 不動岡村 橋組合17名の名)
 これらは塔の様式が同じであり、塔の頂部には地蔵の坐像が浮き彫りにされている。

 (4)広範囲の村の助力
 講中建立と銘された供養塔は、いわば村の有志だけによるものだが、惣村中や村中と記された、
 供養塔になると、さらに活動規模が大きく、村を挙げての造立ということになる。
 意外なことだが、橋供養塔の建立に関しては、一つの村だけにとどまらず、広範囲の村々が
 協力や交流のネットワークを形成していた事例もある。例えば、坂戸市北峰の石橋供養塔(1755年)や
 川島町東大塚の土橋供養塔(1831年)の台座には、数十もの村々の助力を得て、供養塔が
 建立されたことが記されている。しかし、供養塔一基を建立するのに、多くの村から寄付金を
 集める必要性はないので、これらの場合の助力村とは、橋の建設に関わった村々を
 示している可能性が高い。例えば、坂戸市北峰の供養塔には勧化施主とあるので、
 供養塔だけでなく、石橋の建設のさいにも周囲から寄付金を募っていたことが想像される。
 江戸時代には、村内に架けるような小規模な橋の建設工事は、自普請や百姓役普請と
 呼ばれる工事費用を農民が全面負担する方式でおこなわれた。
 石橋は建設費用が土橋に比べて高額だったので、費用を一村だけで賄いきれない場合には、
 橋を利用する人たち(場合によって他の村々)からの寄付に頼ったのであろう。
 石橋に架け替えるような橋は、往来の多い街道に設けられていたことが多かったわけで、
 それを利用する他の村も石橋改築への資金援助に応じたわけである
 なお、石橋供養塔の製作は石工がおこなったと思われるが、塔に石工名が記されたものは数少ない(注3)

    石橋五ヶ所供養(加須市、1779年)
 この供養塔はちょっと変わっていて、
 愛染明王像が主尊である。
 しかも六十六部廻国供養を兼ねている。
 台座には願主7名と堤崎村中と
 記されている。堤崎村とは大越村の中の
 大字だが、村を名乗っている。
 さらに、江戸時代の中頃には、農民でも
 公的な場合には、苗字を記していたことが
 わかり、興味深い。もっとも供養塔の造立に
 かかわった農民は村の中でも、裕福な層であり、
 指導的な立場にあり、地方三役などを
 努めていたと思われる。

3.橋供養碑の建立目的

 (1)石橋の架橋地点
 石橋供養塔は、お世話になった石橋を供養(弔い)するために建てられた、いわば墓標とみなされることが、
 多いが本当にそうであろうか。江戸時代の橋は大半が木の橋であり、腐朽しやすく耐久性に
 乏しかった(耐用年数は10年程度)。街道や農道に架けられた木の橋は、幅が狭くて牛や馬(農作業に
 使われた)が渡れなかったり、幅が充分でも頻繁に牛や馬が渡るために、橋板が破損してしまうことも多かった。
 また木の橋は川の増水で頻繁に大破したり、最悪な場合は流出してしまうこともあった。
 一方、石橋は永久橋であり、一度造ればそう簡単に壊れるものではない。事実、江戸時代に九州地方に
 建設された大型の石橋(めがね橋、アーチ橋)は、現在でも現役の道路橋として使われているものも珍しくない。
 埼玉県の石橋供養塔は、利根川や荒川などの大河川の近傍ではなく、その周辺の川幅10m以下の
 中小河川や農業用水路の付近に分布している。見沼代用水路葛西用水路などの歴史が古く、
 しかも大規模な農業用水路の周辺は特に分布数が多い。それに対して、現在一級河川となっている川に
 架けられていた(と思われる)石橋に関する供養塔はごくわずかだ。
 例外は午の堀川鴨川芝川小畔川、不老川だが、これらの河川の前身は農業用の水路である。

 (2)石橋の規模と形式
 江戸時代における埼玉県での石造りアーチ橋の架橋実績は不明であるが、
 技術や人脈の交流が自由になった明治期以降でもわずかに数基である。
 また、自然条件(地形や地質)が、アーチ橋の架橋に適すると思われる秩父郡や児玉郡などの
 山地・丘陵地帯での石橋供養塔の分布数は極めて少ない。つまり、埼玉県の石橋は九州地方の
 石橋とは架橋地点が明らかに異なり、低平地の小河川(用水路)に建設されている。
 さらに筆者が武蔵国郡村誌から集計した約1700基の石橋(明治9年の時点で埼玉県域に
 存在したと記録されている橋のみ)の平均規模は、長さ2.7m、幅1.9mであった(注4)
 これらのことから、江戸時代に埼玉県に建設された石橋は、そのほとんどが極めて小型(1スパン又は
 2スパン)であり、形式は桁橋だったと推定される。桁橋の形態は本庄市の旧・元小山川に残る石橋
 参考になるが、この石橋は埼玉県の平均からすると大きい部類に属す。
 集計した平均的な石橋の規模は、これよりもさらに小さい。架橋地点が低平地の小河川だったこと、
 石橋の規模が極めて小さかったことなどから、石橋が復旧不能となるまで壊れる可能性は
 皆無だったといえる。つまり、石橋供養塔の供養とは、壊れた石橋の弔いではないことになる。
 一方、埼玉県には橋供養塔と題された塔も存在する。橋供養とは木の橋、石の橋を含んだ橋全般の
 供養を指すと思われるが、橋供養塔の現存数は石橋供養塔に比べると極端に少ない。
 当時の橋全体の架橋状況から見れば、石橋という形式は特殊なものであり、その数は木の橋に
 対して圧倒的に少なかったはずである。にもかかわらず石橋供養塔の方が存在数は多い。
 橋供養塔の現存数の少なさは、供養という行為が壊れた橋の弔いとは異なることを示唆している。

 (3)石橋供養の意味
 橋供養という儀式は近世以前から存在するようであり、著名なものとしては建久9年(1198)の
 源頼朝の橋供養がある。稲毛某の妻の冥福を祈った橋供養が催されることになり、頼朝は
 相模川へ出かけたのだが、帰路の途中で落馬し、それが頼朝の生命を縮めた原因だとされる。
 供養という言葉は、現在は冥福を祈ると同義語として使われるが、江戸時代には加護や感謝、
 さらには成就や記念という意味合いが強かったのではないだろうか。だから、巡礼供養塔や
 普門品供養塔といったものが建立されているのである。例えば、さいたま市浦和区には
 石橋並道普請供養仏(1762年)というものも存在する。道普請(道路工事)という行為に
 対しての供養である。この場合の供養は感謝や成就と思われる。
 このように、供養を施す人々が何を願い、何を期待したのかは多義的である。
 民間信仰ゆえに誰かに強要されたわけではなく、自発的な行為だからだ。
 当然のことながら、当時の人々は現代の我々とは、大きく異なる世界観と精神世界で生きていた。
 橋の供養塔を建立することには、橋と川に関する死者(橋の建設工事の犠牲者や川で溺死した人など)の
 冥福を祈り、怨霊を解脱させること、石橋に架け換えられる前の旧橋(おそらく木橋や土橋)への感謝や
 弔いも含まれていたのだろうが、塔の名称はあくまでも石橋供養塔である。
 石橋供養塔とは、石の橋(永久不変の橋)の建設を成し遂げたことを記念したものであり、
 石橋を新設したさいに橋が長持ちすように祈ったり、通行人の安全を祈願するために建てられたと
 考えた方がよさそうである。つまり一種の竣工記念碑である。
 そういった意味で寄付金額が記されたもの:羽生市砂山(1849年)や和光市白子三丁目(1734年)、
 石材数量が記されたもの:朝霞市根岸台四丁目(1740年)などが存在する。
 ただし、仏像が彫られていたり、碑文に願主や施主が記されていることからも明らかなように、
 単なる石橋の完成記念碑ではなく、信仰が絡んだものである。 
 例えば、元禄十四年(1701)に富士見市水子に造られた2基の塔は石橋供養ではなく石橋成就処と
 銘されているので、竣工記念の意味合いが強いのだが、形態は文字塔ではなく青面金剛と
 地蔵の立像で、庚申待と日待の講が建立したものである。現在でも新らしい橋が完成した時には、
 渡り初めと呼ばれる儀式がおこなわれることがあるが、石橋供養の根底にある想いは、
 今なお風習として生きていて、引き継がれているともいえる。

 (4)作善行為としての造塔
 昔は石や橋には霊が宿ると考えられていたので(いわゆる山川草木、悉皆成仏など)、石橋の供養塔を
 造るのは塔を石橋に供えて回向(えこう)するという意味合いも強かったようだ。仏教では造塔という
 行為自体が功徳と説かれていたので、供養塔の建立とは作善(善を施すこと)であった。
 例えば、街道に道標(道しるべ)を建てることは、多くの人の役に立ち、喜ばれる作善行為である。
 つまり、石橋供養塔の造立目的には回向と作善も考えられる。塔の造立にさいして、
 変えられない過去ではなく、変えられる可能性のある現在と未来に対して安楽を
 祈願したのだと思われる。事実、二世安楽と銘された石橋供養塔も多い。
 さて、石橋供養塔は石橋の竣工を記念した碑なので、本来は橋の傍に設けられているべきなのだが、
 残念ながら、そのような例はあまり多くない。河川改修などによって供養塔が移築されたためだろう。
 ただし、加須市に現存する石橋供養塔は橋の周辺に残っているものの割合が高い。
 さらに東松山市高坂の石橋供養塔(1864年)のように、脇に石橋(緑泥片岩の一枚岩)が
 残っているという稀有な例もある。

 (5)塞ぎの供養塔
 一方、橋供養塔は橋の外から村の中に禍いや疫病が入り込むのを封印する、
 塞ぎ(ふせぎ)の神(土地の守り神)として祀ることも多かったようである。
 [石橋供養塔 十五ヶ所]などと記された供養碑は、橋が長持ちすように祈願しただけでなく、
 村の各所に設けられた橋に、塞ぎの役割を託したものだと思われる。一種の結界である。
 この橋供養碑には願主として僧侶の名が記されていることが多い。塞ぎの慣習は現在でも
 農村地帯には残っていて、村の辻などに魔除けの札が立てられているのを目にすることができる。
 塞ぎの神の一種に道祖神がある。主尊が道祖神であり、同時に石橋を供養した塔も存在する。
 例えば、坂戸市島田(1771年)、滑川町伊古(1798年)である。
 道祖神の像が彫られた石橋供養塔もあるが、これらは塞ぎと共に道中の安全も祈願しているようで、
 道標を兼ねたものも見られる。人々から見られるだけでなく、災いの進入を見張る役目も果たしているのだ。
 例えば、鶴ヶ島市太田ヶ谷の石橋供養塔(1790年)は、正面に双子の道祖神の像が彫り込まれ、
 側面は道標を兼ね、かつ二十ヶ所の石橋を供養した非常に珍しいものである。
 なお、埼玉県の北部では路傍や神社に、塞神(さいのかみ)と記された文字塔が多く分布している。、
 読みは道祖神ではないのに、地元では[どうろくじん]や[どうりくじん]などとも呼ばれている。
 明らかに、これは道祖神と塞ぎの神が融合したものである。
 本来は庚申塔だったが、江戸時代後期の神道の拡大や明治初期の神仏分離の影響で、
 表面の庚申の文字や青面金剛を削り取り、塞神と追刻し直したものも多いという。
 それらは旧忍藩の管轄範囲に顕著である。
 塞神が道標を兼ねている例は多々あるが、塞神と橋供養とが習合した事例は現在のところ、
 見つかっていない。塞ぎが主目的だった(と思われる)石橋供養塔は、村境、辻(交差点)、
 寺社の門前付近などに残っている。橋や川から離れた場所に設けられていても、塞ぎの目的から
 すれば不自然ではないが、本来は川の付近に設置されていたものが、道路工事や河川改修などに
 伴って、移築された可能性も高い。また、明治時代初頭には、路傍に設置されていた仏教関係の
 石仏の多くは、寺社へ移転させられている。これは明治政府が廃仏毀釈の方針をとり、
 石仏移転の通達を交付したからである。石橋供養塔は供養という名称が災いしてか(笑)、
 その対象となったようで、移築先は神社ではなく寺院が多い。
 悲しいことに、寺院では無縁仏として祀られている例が目に付く。


(注1)埼玉県に現存する橋供養碑、建設された石橋の数
 筆者が把握している埼玉県の橋供養碑は、現在のところ約300基である。
 ただし、これは秩父郡と児玉郡の全域及びその他県内7市町村を除いての数である。
 橋供養碑は秩父郡と児玉郡には、ごくわずかしか分布していないと推測されるので、
 埼玉県に現存する橋供養碑の総数は、最終的には330基程度だと思われる。
 (この推定数は未調査の7市町村に対して、1市町村に平均4基が現存すると仮定したものだ)
 このことと、武蔵国郡村誌に記された石橋の総数から、江戸時代中期から末期にかけての
 約150年間に、埼玉県には2,000基以上もの石橋が建設されたと推測される(あくまでも筆者の予測だが)。
 意外なことだが、かつての埼玉県は九州地方と比べても遜色のない、あるいはそれ以上の
 石橋王国だったようだ。ただ、九州地方が地元から石橋に適した石材が豊富に産出したのに対して、
 埼玉県では石橋用の石材(安山岩系の石)はほとんど産出しない。
 石材は江戸を経由して埼玉県に搬入されたはずなので、江戸時代の埼玉県は舟運による大規模な
 物流が展開されていたこと、石橋を建設できるだけの経済力が形成されていたこと等がうかがえる。

(注2)種子の区分
 塔の正面上部に種子が彫られたものもある。種子は梵字だが地蔵や観音などの像を
 表したものなので、厳密には像付きとすべきだが、便宜上、これらは文字塔へ分類した。

(注3)石工名が記された橋供養塔
 筆者が把握している、石工名が記された橋供養塔は以下の12基である。
  朝霞市根岸台四丁目(1740年)
  戸田市新曽(1742年、浅草石工)
  加須市上三俣(1756年、幸手石工)
  さいたま市下落合3丁目(1756年、与野石工)、
  羽生市砂山(1756年、江戸石工)
  さいたま市五関(1774年、与野、川口石工)
  さいたま市植田谷本(1796年、江戸神田石工)、
  所沢市山口(1796年、市谷四丁目石工)
  上尾市上町一丁目(1824年、岩槻石工)
  幸手市吉野(1848年と1851年、粕壁石工)
  東松山市高坂(1864年)。
 朝霞市東松山市の供養塔を除いた10基には、石工の居住地が記されている。これらの石工は
 村に在住し、生業を営んでいたと思われる。西行(渡り職人)の存在を示す供養塔は見つかっていない。
 加須市と東松山市の供養塔は像付きであり、それなりの技術を有していた職人が関与したことが
 わかる。なお、文字塔(角柱型)には石工(プロ)の仕事とは思えないほど、稚拙な技巧で
 彫られたものも少なからず存在する。農民自らがノミを握って文字を刻んだのではないかと
 思わせるような仕上りである。しかし、槌の一振りごとに祈りと希望が込められている。
 つつましく素朴な供養塔だが、存在の重さが伝わってくる。

(注4)武蔵国郡村誌に記された石橋の数と規模
 下表は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)に記された石橋を、筆者が独自に
 集計したものである。武蔵国郡村誌は全15巻にも及び、村単位での詳細な実地調査が
 なされているが、あくまでも村誌であり、橋梁の悉皆調査書ではない。
 また石橋に関しては記述の選定基準が明確ではなく、小さな石橋は省かれていることが多い。
 というわけで下表は、明治初期において埼玉縣に存在した全ての石橋を網羅しているわけではない。
 なお、石橋の存在は記されているが、数と詳細については省かれている事例もあるので、
 その場合は表中の石橋数には[超]と記した。例えば461超とは461基以上あったということである。

  足立、新座郡 入間、高麗郡 比企、横見郡 秩父郡 児玉、賀美、
那珂郡
大里、男衾郡 榛沢、旛羅郡 埼玉郡 葛飾郡 合計
石橋数 461超 98 109 2 55 45 52 766超 120 1708超
平均寸法
(長、幅)尺
8.0
5.8
10.1
6.6
10.7
5.6
(60+6)/2
(10+9)/2
8.6
7.0
10.8
6.4
9.7
8.0
9.0
6.5
8.5
5.2
9.0
6.2
最大の橋 土呂村

悪水路
長八間三尺
巾九尺
水子村

柳瀬川
長八間三尺
巾九尺
下里村
坂下橋
槻川
長十間
巾三尺
三沢村
枝野沢橋
霧川
長十間
巾一丈
沼和田村

用水
長四間三尺
巾一間
久下村
保全橋
元荒川
長五間
巾五尺
玉井村
吉田橋
奈良堰用水
長四間
巾二間
小濱村
午の橋
午の堀
長七間
巾九尺
栗橋宿
上の橋
用水
長五間
巾三尺
 

 埼玉郡の石橋数が群を抜いて多いことがわかる。これは当時の埼玉郡の郡域が
 広域に及んでいたことによる。明治22年(1889)の市制・町村制施行によって、
 埼玉郡は北埼玉郡と南埼玉郡に分割される。なお、現在の市域別に集計し直して、
 埼玉県で石橋の数が多かった(と記録されている)順に並べると、熊谷市の155基、
 行田市の150基、羽生市の135基となり、いずれも北埼玉郡およびその周辺地域である。
 なお、熊谷市の石橋数の実に6割以上は、中条村や成田村などの北埼玉郡に
 属していた村が占めている。何故、北埼玉郡にこれほど多くの石橋が架けられたのかは
 不明だが、研究テーマとしては興味深い。
 上記の集計結果で注目すべきは、石橋の建設(記録)数と石橋供養塔の現存数との間には、
 強い相関がない点である。例えば行田市と羽生市は石橋の建設(記録)数は多いが、
 石橋供養塔の確認数は少ない。それに対して坂戸市は、建設(記録)数の13基を
 上回る17基もの石橋供養塔が確認されている。
 同様に滑川町も記録数の1基を上回る5基の石橋供養塔が存在する。

 石橋の規模は埼玉県平均(長さ2.7m、幅1.9m)が示すように、極めて小規模である。
 上述したように武蔵国郡村誌では、小さな石橋が集計されていない傾向があるので、
 実際の石橋の平均規模はさらに小さくなると思われる。なお、石橋の規模について郡毎の
 有意差は認められない。記録に残る最も大きな石橋でも、長さ十間(18.2m)、巾一丈(3.0m)であり、
 これが埼玉県での石橋の規模的な架橋限界を示しているといえる。
 規模が制限されたのは、埼玉県に建設された石橋の構造が、アーチ橋ではなく
 桁橋であったことの傍証でもある。江戸時代に九州地方で架けられた石橋(アーチ橋)では、
 長さ十間の橋はそれほど珍しくはなかった。しかもアーチ橋の場合は、長さが十間あっても形式は
 単一アーチであり、橋脚が不要だったのに対し、桁橋の場合は橋脚が10基近く必要であったと推測される。
 このように江戸時代の埼玉県には(正確には近代になっても)アーチ橋の架橋技術は皆無であった。
 そのため、長さ十間以上の大きな橋を架ける必要がある場合、橋の形式は石橋ではなく、
 土橋(木製の橋で通路は土を盛って舗装)が採用された。例えば、木製の橋としては、
 利根川の
上武大橋(明治16年)、妻沼大橋(大正11年)、小山川の滝岡橋(明治34年)などが
 当時の長大橋である。妻沼大橋は木の桁橋で、規模は長さ380間(約691m)、幅2間3尺(約4.5m)であった。

橋供養塔の分布一覧:

北埼玉郡: 36基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務

備考

北川辺町
(3基)
石橋供養塔 1864 飯積、遍照寺 合の川 文字塔   願主、寄付者と金額
石橋供養 1779 高台用水路 文字塔 願主の慰霊? 願主2名、世話人3名
橋供養 ? 高台用水路 文字塔   埋没
大利根町
(3基)
十八ヶ所 石橋供養 ? 砂原、西浄寺 古利根用水 文字塔   願主
石橋供養塔 1811 北下新井 古利根排水 文字塔 種子、道標 寄進、願主、世話人
奉造立永代修神橋供養仏 1746 新井新田 中川 文字塔 種子、六十六部供養 願主、施主
加須市
(18基)
石橋紀念 1912 岡古井 南方用水路 自然石    
石橋供養塔 1822 岡古井 南方用水路 文字塔   世話人講内中、願主
石橋供養塔 1764 不動岡 南方用水路 地蔵(坐像)   勧化村、世話人、願主
石橋供養佛 1785 不動岡 南方用水路 地蔵(坐像)   女人講が建立
石橋供養塔 1766 不動岡 午の堀川 地蔵(坐像)   不動岡村橋組合
石橋供養 1768 大越、浅間神社 埼玉用水 桁側面に刻字    
石橋供養尊 1795 大越 埼玉用水 観音(坐像) 道標 世話人、助力、助力村
馬頭観音石橋供養 1778 大越 北方用水 文字塔 道標  
石橋五ヶ所供養 1779 大越、堤崎集会所 豊野用水 愛染明王像 六十六部廻国供養 願主7名
観世音石橋供養 1791 大越〜中樋遣川 日野堀 文字塔 種子、道標 天下泰平国土安全
樋堀石橋建立 1757 中樋遣川   如意輪観音 六十六部日本回国供養 願主、施主
石橋供養 1756 上三俣 午の堀川 馬頭観音像 二世安楽 施主、願主、石工
石橋供養塔 1797 北小浜、石橋 午の堀川 文字塔 道標 願主6名、寄進?
奉建立石橋供養 1854 北小浜 葛西用水 観世音菩薩 二世安楽 願主15名
橋供養塔 1805 北篠崎、道橋 中川 文字塔 道標 願主
石橋供養塔 1791 水深、二枚橋 青毛堀川 文字塔 天明三年の洪水経緯 施主、世話人3名
石橋供養塔

1773

水深、稲荷橋

江川

文字塔

明治44年再建 願主、世話人3名
石橋供養塔 1835 北辻 騎西領用水 文字塔 道標  
羽生市
(5基)
大乗妙典千部供養設石橋 1756 北二丁目 城沼落 文字塔 経典供養 願主、建碑の由来
庚申供養 念仏供養 石橋 1715 上岩瀬、建福寺 会の川 文字塔 庚申、念仏供養 施主
石橋供養塔 1797 北袋、北袋集会所 岩瀬落 観音像 蓮座 願主、助力
石橋再建 二十三夜 供養塔 1849 砂山、愛宕神社 会の川 文字塔 二十三夜供養塔 世話人、願主、寄付金額
石橋供養? 1741 発戸、鷲宮神社 埼玉用水 桁側面に刻字   寄進 惣村中、願主
行田市
(3基)
石橋供養塔 1817 北河原、照岩寺 福川 文字塔 馬頭観世音菩薩 願主、寄進者と金額
石橋供養塔 1815 犬塚、光照院 江川落 自然石 種子 板碑を改造、願主
石橋七箇所建立供養 1811 持田、長福寺 忍川 文字塔 種子、百番供養、道標 願主
騎西町
(4基)
石橋供養塔 1755 鴻茎、寿昌寺 備前堀小笊田落 板碑    
石橋供養 1760 騎西、実乗院 備前堀大英寺落 文字塔 道標 施主
死活橋重修供養塔 1971 日出安、保寧寺 新川用水 文字塔   施主
地蔵立像 1769 牛重、万福寺 備前堀八ヶ村落 地蔵(立像)   橋石二枚施主


南埼玉郡: 34基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
菖蒲町
(1基)
六地蔵大士 石橋供養 1776 上大崎、金剛院 下星川 文字塔 種子、蓮座、道標 世話人
久喜市
(4基)
橋供養塔 1842 下清久、諏訪神社 騎西領用水 自然石   願主
 - 1754 下早見 騎西領用水 文字塔 種子、先祖菩堤 碑文、施主、助力村
橋供養 1961 下早見、筋違橋 仏供落 文字塔 先祖代々菩堤 施主
石橋供養塔 1792 栗原、多聞院 葛西用水 文字塔(笠付き)   頂部に蓮座と宝殊
蓮田市
(6基)
奉納大乗妙典石橋 1780頃 井沼 元荒川 文字塔 経典供養 施主、高さ約40cm
奉納大乗妙典石橋供養 1778 井沼 元荒川 文字塔 経典供養 施主
石橋供養塔 1826 駒崎 見沼代用水 文字塔 道標 世話人3名
石橋供養 1798 閏戸、薬師堂 見沼代用水 文字塔 道標 願主
石橋供養塔 十五ヶ所 1747 蓮田 見沼代用水 地蔵(坐像) 道標 願主
孝心石橋供養塔 ? 江ヶ崎 新堀 文字塔 道標  
白岡町
(3基)
石橋供養塔 1821 野牛 白石堀 文字塔   世話人、観音経講中
石橋寄進 1856 高岩 姫宮落川 桁側面に刻字 先祖代々菩堤 下馬橋の跡
石橋両所供養塔 1850 爪田ケ谷、石橋 笠原沼用水 文字塔 道標、石橋改築履歴 明治18年に追刻
宮代町
(2基)
石橋十箇所共再造 1875 学園台二丁目   文字塔 道標 背面に和歌
石橋供養塔 1767 西原、郷土資料館 笠原沼落 文字塔   願主、勧化36村
岩槻市
(6基)
石橋供養塔 1781 上野 元荒川 文字塔 種子 願主、近郷在町助力
石橋拾ヶ所供養塔 1777 馬込 綾瀬川 地蔵(坐像)    
奉供養石橋建立 1750 平林寺 元荒川 自然石   願主
奉造立地蔵尊石橋供養佛 1741 飯塚、法華寺 元荒川 地蔵(坐像) 二世安楽 願主、村々勧化
奉建立石橋供養佛 1746 鉤上新田 綾瀬川 地蔵(立像) 種子 施主、隣郷十八箇村
石橋竣工之碑   本町一丁目、八雲神社   文字塔   世話人、手間寄付者
春日部市
(2基)
駒形石橋供養塔 1841 粕壁三丁目 古隅田川 文字塔 道標 世話人、馬士中
穀屋中、助力19村
奉建立石橋十五ヶ所 1828 新方袋、満蔵寺 古隅田川 文字塔 道標 施主、和歌
越谷市
(10基)
石橋供養塔 1756 平方 大落古利根川 文字塔 南無阿弥陀佛 願主、助力17村
石橋建立供養塔 1762 平方 会之堀川 文字塔 南無阿弥陀佛 願主、村々江戸講中
石橋供養 1778 船渡 大落古利根川 地蔵(坐像)   願主、村々勧化
庚申塔 1830 向畑 大落古利根川 文字塔 庚申 願主
石橋造立供養塔 1766 三野宮 新方川 地蔵(坐像)   橋組中
奉供養石橋講中 1744 三野宮 須賀用水 地蔵(坐像) 種子 施主、橋組二十一人
奉建立石橋供養 1765 千間台西五丁目 須賀用水   道標 願主
石橋供養 1781 袋山、持福院 須賀用水 地蔵(坐像) 道標 願主、世話人
奉建立石橋供養 1739 砂原、久伊豆神社 元荒川 地蔵(坐像) 種子 庚申講中
奉供養石橋建立 1766 西新井 末田大用水 地蔵(坐像)   願主、助力村


北葛飾郡: 9

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
鷲宮町
(1基)
石橋供養塔 1778 東大輪、稲荷神社 北側用水 地蔵(坐像)   神社創建の来歴
幸手市
(3基)
石橋供養 1709 東一丁目 倉松川 文字塔   赤穂浪士の供養?
石橋弐所供養塔 1848 吉野、三光院 中郷用水路 文字塔 道標 願主、世話人、石工
石橋二所供養塔 1851? 吉野、三光院 中郷用水路 文字塔   発起人、世話人、石工
杉戸町
(3基)
石橋 1849 下高野、厳島神社 大膳堀 文字塔   世話人、江戸の大店が寄進?
石橋三箇所供養塔 1756 杉戸四丁目、愛宕神社 南側用水路 文字塔(駒型) 熊野三社大権現 願主、40数名の名前
石橋三所供養塔 1800 佐左衛門、松田寺 安戸落 文字塔(隅丸) 種子、地蔵大菩薩 願主
庄和町
(3基)
奉造立石橋供養塔 1750? 倉常〜榎 中川 文字塔(駒型) 道標 願主
石橋供養塔 1778 下柳 中川 地蔵菩薩像 10数名の戒名 願主
普門品石橋供養   中野 江戸川 地蔵菩薩像 経典供養 願主11名
松伏町
(1基)
石橋供養塔 1798 魚沼 江戸川 地蔵(坐像)   願主、世話人 惣村中
吉川市
(1基)
??石橋建立 1772 南広島 中川 文字塔 種子、道標 願主


北足立郡: 44基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
鴻巣市
(5基)
石橋供養塔 1810 天神五丁目   文字塔   高さ約60cmと小さい
奉讀誦法華経千部橋供養 1729 笠原 元荒川 文字塔(隅丸) 種子、経典供養 願主3名、助力村?
石橋供養塔 1816 常光 元荒川 文字塔   世話人名
石橋供養塔 1734 常光、常光神社 元荒川 文字塔(隅丸) 種子、18弁の菊 願主、世話人
橋石壹枚増 1841 糠田、氷川神社 荒川 桁側面に刻字   橋桁を寄贈?
北本市
(2基)
石?供養 1723 東間一丁目、浅間神社   文字塔   石段供養の可能性もあり
橋供養塔 1720 石戸宿八丁目、薬師堂 荒川 馬頭観音像    
桶川市
(3基)
石橋供養所 1744 川田谷、雙龍堂 荒川 文字塔   願主3名、助力7村
石橋供養尊 1729 川田谷、雙龍堂 荒川 立像   勧化村
石橋供養所 1725 川田谷、氷川神社 荒川 文字塔   願主
上尾市
(10基)
石橋供養佛 1725 藤波二丁目、密厳院 江川 地蔵菩薩像   女人講、願主、勧化17村
石橋念佛講中 1732 中妻二丁目、宝蔵寺 鴨川 如意輪観音像    
石橋両所供養佛 1746 小泉、薬師堂 鴨川 地蔵菩薩像 二世安楽 村々助力
石橋供養佛 1778 柏座三丁目、日乗院   地蔵菩薩像 道標 願主
三所石橋供養 1801 谷津一丁目   文字塔 道標  
石橋総鋪石供養 1824 上町一丁目、遍照院   文字塔 種子、経典供養 願主、世話人、結衆、石工
石橋供養塔 1747 西宮下一丁目、天神社 鴨川 文字塔 道標 施主
石橋供養塔 1777 上尾下 芝川 文字塔 種子 庚申講中、助力17村
石橋供養塔 1796 地頭方、地頭方公民館   文字塔 種子、回國供養 願主、助力村(寄付金額)
念佛供養 1721 戸崎、戸崎自治会館 鴨川 桁側面に刻字   願主15名、助力村?
さいたま市
(17基)
橋供養塔 1759 北区宮原三丁目   文字塔 種子 願主
石橋供養塔 1757 北区本郷町、上坂口橋 西縁(見沼代) 文字塔   願主
庚申待石橋供養 1766 大成町四丁目、稲荷神社 鴻沼川 青面金剛像 庚申待供養 願主11名
石橋供養塔 1777 寿能町二丁目、石橋 芝川 文字塔   世話人2名、助成14村
石橋再建供養塔 1852 寿能町二丁目、石橋 芝川 文字塔   世話人9名、助力46村
石橋供養塔 1746 西区内野本郷、地蔵院 鴨川 文字塔 道標 遠近村之志
石橋供養塔 1756 西区飯田 鴨川 文字塔 念佛講中 願主、助力村
前渡石橋供養塔 1777 三橋五丁目、並木橋 鴨川 文字塔 道標 施主、願主
大乗妙典石橋供養塔 1796 西区植田谷本、藤橋 鴨川 文字塔 種子、天下和順 願主、助力村、石工
石橋建立 1769 大宮区三橋四丁目 鴨川 桁側面に刻字 観音講中 願主15人
石橋供養塔 1726 本町東4丁目、赤山橋 鴻沼川 文字塔   願主、助力村
石橋供養塔 1756 下落合3丁目、高谷橋 鴻沼用水 地蔵菩薩像 先祖菩提 施主、願主、助力村、石工
石橋並道普請供養仏 1762 浦和区常盤九丁目   文字塔 道標、道供養 願主、橋杭と石材の施主
石橋供養塔 1788 桜区塚本釈、迦堂 荒川 地蔵菩薩像    
石橋供養塔 1774 桜区五関、五関会館 鴨川 文字塔 種子 寄付金者、勧化村、願主、石工
奉懸石橋於当村
七箇所成就供養
1756 松本一丁目、真乗寺 荒川 地蔵菩薩像 二世安楽 世話人、施主、願主
奉新造立石橋供養 1757 下野田、円徳寺 天久保用水 地蔵菩薩像 種子、二世安全 庚申待講中、念仏講中、願主
朝霞市
(3基)
石橋供養二世安楽 1749 浜崎四丁目、東薬師堂 黒目川 馬頭観音 種子  
大乗妙典六十六部供養 1740 根岸台四丁目、台雲寺 越戸川 文字塔 三界万霊塔、
道標、歌碑
石材数量と施主、
助力村、石工
石橋供養塔 1846 岡二丁目、東円寺 黒目川   石橋の親柱 施主
和光市
(2基)
野川石橋建立 1739 白子三丁目、吹上観音 白子川 文字塔 六十六部供養塔 施主、助力村
橋供養 1734 白子三丁目 白子川 文字塔 種子、青面金剛 講親、助力村、寄付金額
新座市
(1基)
石橋供養塔 1864 大和田四丁目、氷川神社 柳瀬川 文字塔 種子 願主
戸田市
(1基)
石橋本願 1727 戸田市新曽、妙顕寺 笹目川 文字塔   石工


大里郡: 22基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
熊谷市
(12基)
石橋の桁 1725 柿沼   桁側面に刻字 庚申供養 僧侶名、講中5名
記念碑 1886 柿沼、龍昌寺 玉井用水 自然石   世話人3名、遺金で石橋架橋
石橋供養塔 1863 大麻生、北橋 大麻生堰用水 文字塔   村役人3名、世話人5名
橋供養塔 1778 広瀬 大麻生堰用水 文字塔 道標  
共有石橋三十有所供養塔 1883 箱田二丁目 成田堰用水 文字塔   寄付主、世話人
奉造当石橋七箇所 ? 上之、一乗院 成田堰用水 自然石 種子、二世安楽 願主?
石橋再建 1846 佐谷田、長福寺 元荒川 文字塔 馬頭観世音 願主1名、世話人4名
思いやりの碑 2004 久下、久下橋 荒川 文字塔 冠水橋の供養碑 地元の寄付金で建立
橋供養 1927 楊井、和田橋 和田川 文字塔 歌碑  
庚申塔(石橋供養塔) 1779 楊井 和田川 文字塔 庚申塔 施主 村中
願主1名、世話人1名
石橋供養塔 1832 上奈良、妙音寺 さすなべ落 文字塔   施主、村役人壇中
橋供養 1809 久保島 玉井用水 馬頭観音立像   施主
妻沼町
(1基)
石橋供養塔 1799 永井太田、薬師堂 備前渠用水 文字塔 名号塔 施主、世話人
大里町
(3基)
日本回國納經供 1764 下恩田 和田吉野川 文字塔(駒型) 経典供養塔 石橋建立十方
馬頭観音 石橋供養 1798 中曽根、中曽根橋 通殿川 文字塔 馬頭観音 施主、世話人3名、助力町村
矼供養 1800 箕輪 真栄用水 文字塔(駒型)   惣村中、願主2名、世話人1名
江南町
(1基)
三十ヶ所石橋供養塔 1864 板井 和田川 自然石   世話人3名
寄居町
(2基)
石橋供養塔 1776 用土 藤治川 文字塔 種子、巡礼供養 願主
橋供養 1835 鉢形 荒川 自然石    
深谷市
(1基)
石橋供養塔 1855 田谷、高台院 唐沢川 自然石    
岡部町
(2基)
石橋供養塔 1828 本郷 藤治川 文字塔   施主、世話人8名、石商2人
石橋供養 1841 榛沢新田 針ヶ谷堀 文字塔 二十三夜塔 女人講


児玉郡: 3基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
上里町
(3基)
橋供養 1797 黛、黛神社 忍保川 馬頭観音?像   願主
念仏橋供養   七本木   自然石 種子(阿弥陀如来)  
惣橋供養塔 1803 長浜 神流川 文字塔   惣村中、願主


比企郡: 36基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
小川町
(3基)
深田橋供養 1725 勝呂 西浦川 地蔵    
馬頭観世音(橋供養) 1801 青山 青山用水 自然石 馬頭観音  
石橋一枚寄付 1915 青山、氷川神社 青山用水 自然石    
滑川町
(5基)
石橋碑 1875 福田 滑川 自然石   石橋の寄進者を追悼
石橋供養塔 1810 伊古、田尻橋 滑川 自然石   施主、世話人名?
奉造立石橋二十箇所供養 1798 伊古 滑川 文字塔 道祖神、巡礼供養 施主
石橋供養塔 1804 山田   文字塔(駒型)   石橋四箇所、願主、役人中
石橋供養塔 1883 羽尾 市野川 自然石    
東松山市
(8基)
石橋供養塔 1806 本町二丁目 下沼 文字塔 道標 世話人
神社仏閣並石橋供養塔 1814 上野本 新江川 文字塔   願主
石橋供養塔 1833 岡、上岡馬頭観音 和田吉野川 自然石   近隣の17村、馬持中 観音講中
申庚橋供養 1719 大谷 角川 青面金剛像   6名の人名
石橋五ヶ所供養塔 1819 高坂 都幾川 文字塔(駒型) 道標、巡礼供養 普門品講中、世話人4名
石橋供養塔 1864 高坂、石橋 都幾川 馬頭観音像 道標、経典供養 世話人、出金額、石工
橋供養塔 1774 宮鼻、香林寺 九十九川 文字塔 三界万霊塔 擬宝珠、願主
舗石/石橋供養塔 1828 岩殿、阿弥陀堂 九十九川 文字塔 敷石供養 願主
吉見町
(6基)
石橋敷石供養塔 1838 上砂、氷川神社 横見川 地蔵(坐像)   願主、世話人
石橋供養塔 1817 黒岩 横見川 文字塔   願主
百番供養塔 1864 御所 横見川 文字塔 道標、種子、巡礼供養 願主
百番拝禮供養塔 1856 中新井 台山排水路 文字塔 種子が3つ、石橋供養 石橋十六箇所、鎮守幡杭
石橋供養塔 1770 北下砂 台山、文覚排水 地蔵(坐像)   施主、願主、志助力4名
石橋供養塔 1816 飯島新田、稲荷神社 文覚排水路 文字塔   願主、世話人
川島町
(14基)
奉建立橋供養 1769 正直 根岸沼 自然石   願主、施主、高さ約1.6m
石橋供養助録佛 1741 正直、潮音寺 長楽用水 地蔵   願主、助力村
大乗妙典六十六部
日本廻国橋供養
1756 戸守、六地蔵橋 長楽用水 自然石 阿弥陀三尊 願主、施主四名
石橋供養塔 - 戸守 中山用水 自然石    
土橋供養塔 1831 鳥羽井新田 荒川 文字塔   世話人8村、寄付者他と金額
奉供養土橋成就所 1793 鳥羽井新田 荒川 馬頭観音像 三面六臂の座像 願主、施主、寄付者
地蔵(石橋到造立) 1718 鳥羽井新田 荒川 地蔵(立像)   願主2名、近村勧進
石橋供養塔 当村数ヶ所 1806 角泉、慈眼寺 入間川 地蔵(坐像)   願主
石橋の親柱 1818 下小見野、氷川神社 市野川 文字塔   願主
石橋供養塔 1842 中山〜吹塚 中山用水 文字塔    
大乗妙典五十部
石橋七通供養
1744 上小見野 市野川 地蔵(坐像) 三界萬霊  
橋供養 1712 上大屋敷 荒川 地蔵   施主、願主
延命地蔵 1720 山ケ谷戸 荒川 地蔵   大正十年再建
石橋再建立 1832 牛ケ谷戸   文字塔 馬頭観音  


入間郡: 100基

市町村 碑名 建立年 所在地 近傍の河川 形式 習合・兼務 備考
坂戸市
(17基)
石橋供養塔 1776 赤尾、白山神社 越辺川 自然石   梵字、願主
道祖神 1771 島田 越辺川 自然石 石橋五ヶ所設  
橋供養塔 1786 東和田 葛川 文字塔 道標 願主、助力村
石橋供養塔 1725 東和田 葛川 文字塔 種子 願主、寄付
橋供養塔 1730頃 東和田 葛川 文字塔(唐破風)   施主、高さ約2.1m
奉建立石橋供養塔 1777 今西 越辺川 文字塔 道標 願主
馬頭観世音石橋供養塔 1783 北浅羽 越辺川 文字塔(駒型) 種子、馬頭観世音 施主、願主
石橋供養塔 1749 塚越、西光寺 谷地川 自然石   板碑を改造、願主
石橋供養塔 1782 善能寺 葛川 文字塔 道標 施主
石橋供養塔 1755 北峰 葛川 地蔵菩薩像   願主、勧化施主、助力村
石橋 1806 塚崎〜中里 高麗川 馬頭観音(座像)   願主
橋供養 1763 中里 高麗川 地蔵(立像)   願主、施主
橋建立成就所 1756 泉町 高麗川 地蔵(立像)   施主
橋供養塔 1777 紺屋 大谷川 文字塔 種子、道標 助力町村名
三石橋供養塔 1902 欠ノ上 高麗川 自然石   故人の慰霊のために架橋
石橋供養 1777 萱方、加仁集会所 高麗川 地蔵(座像)   願主、助力
石橋供養 1794 多和目 高麗川 馬頭観音(座像) 種子  
毛呂山町
(5基)
石橋供養塔 1812 川角、浄光寺 大谷木川、 越辺川 七観音(座像)   願主
石橋四ヶ所供養塔 1810 市場 葛川 馬頭観音像   願主
奉建立石橋供養尊佛 1767 葛貫、宮脇橋 葛川 地蔵(坐像)   施主、助力村
石橋供養塔   大谷木 大谷木川 文字塔    
橋々供養 馬頭観世音 1812 阿諏訪 阿諏訪川 自然石 馬頭観世音 高さ約60cmと小さい
越生町
(1基)
石橋施主 1766 小杉、梅園神社 越辺川 文字塔   村中
鶴ヶ島市
(2基)
石橋二十ヶ所供養塔 1820 三ツ木   文字塔   高さ約60cmと小さい
石橋二拾ヶ所供養塔 1790 太田ヶ谷 大谷川 双体道祖神像 道標 舟に乗った道祖神、願主
日高市
(6基)
石橋三箇所供養塔 1816 田波目   馬頭観音像 道標 施主
巡禮石橋供養 1811 北平沢、福蔵院 宿谷川 文字塔(隅丸) 種子が3つ、巡禮供養 施主
石橋供養塔 1703 女影 神流川 地蔵(立像) 道標  
石橋供養塔 1795 女影、薬師堂 神流川、小畔川 菩薩(坐像)   願主、鎌倉街道
普賢菩薩橋供養塔 1745 栗坪 高麗川 文字塔   願主
石橋供養 1777 横手 高麗川 馬頭観音像    
飯能市
(4基)
石橋供養塔   中居、清泰寺   文字塔   願主
石橋供養塔   青木   自然石    
石橋供養 1778 下直竹、長光寺 直竹川 馬頭観音像 巡礼供養 施主
石橋供養 1809 前ケ貫 成木川      
狭山市
(12基)
石橋供養塔 1791 中新田 不老川 文字塔 道標 世話人、寄付村と金額
石橋建立 1774 青柳 久保川 聖観音像    
奉納石橋供養塔 1733 堀兼、光英寺 不老川 聖観音像   願主
石橋造立供養塔 1770 南入曽 不老川 文字塔 種子  
奉建立橋念仏供養塔 1766 北入曽、観音堂 不老川 勢至菩薩像    
石橋供養塔   広瀬二丁目 入間川 文字塔    
石橋供養塔 1781 入間川二丁目 入間川第二用水 馬頭観音   願主
石橋供養 1781 加佐志、加佐志墓苑 久保川 地蔵   願主
奉懸石橋両所 1731 下奥富、奥富神社 赤間川 文字塔   願主
奉建立石橋供養塔 1764 下奥富、前田集会所 中川 馬頭観音   願主
石橋供養塔 1793 上奥富 赤間川 文字塔 種子 施主、願主
石橋供養 1774 柏原 入間川 文字塔 種子、道標 鎌倉街道
入間市
(11基)
石橋供養塔 1793 宮寺 不老川 文字塔   施主
石梁供養塔 1872 宮寺   文字塔   願主 総村中、念仏講中
石橋供養塔 1832 宮寺   文字塔   世話人村中
石橋供養塔 1799 宮寺、南中野公会堂   文字塔   施主
石橋供養 1782 宮寺 林川 文字塔 種子、道標 願主
大橋石橋二所供養仏 1768 寺竹 霞川 文字塔   施主
石橋二ケ所 1827 西三ツ木 霞川 文字塔 大乗妙典 願主
石橋供養塔 1791 小谷田、東光寺   文字塔   施主
橋供養   小谷田 霞川 自然石    
石橋供養塔 1797 下藤沢 不老川 文字塔 道標 架橋の経緯、願主
石橋供養塔 1823 上藤沢 不老川 自然石    
所沢市
(17基)
石橋三ヶ所供養塔 1768 林一丁目 林川 文字塔   願主、念仏講中、近郷村助力
石橋供養塔 1832 林一丁目 林川 文字塔   願主、念仏講中
石橋五ヶ所供養塔 1779 堀之内   文字塔 種子 世話人、念仏講中
石橋六ヶ所供養塔 1894 堀之内   文字塔    
石橋供養 1849 三ヶ島五丁目   自然石    
石橋供養塔 1807 三ヶ島三丁目   大日如来 巡礼供養 願主
石橋供養塔 1841 三ヶ島一丁目   文字塔 庚申塔と道標 世話人
石橋再建供養 1835 三ヶ島一丁目   文字塔   石橋架橋の由来
石橋供養塔 1832 所沢市上新井 東川 文字塔 道標 願主、助力惣村中
石橋供養塔 1801 所沢市上新井 東川 文字塔   施主
石橋供養塔 1879 所沢市山口、仏蔵院   文字塔   願主
石橋供養塔 1796 所沢市山口 六ツ家川 文字塔   願主、村役人、世話人、石工
石橋供養 1774 所沢市荒幡、光蔵寺   文字塔   施主
阿弥陀堂石橋造立塔 1778 所沢市久米 柳瀬川 文字塔 種子 念仏供養
石仏同石橋建立 1824 所沢市久米、長久寺   文字塔 名号塔 世話人、念仏講中
橋供養塔 1876 上安松 柳瀬川 文字塔    
石橋建立 1838 所沢市南永井、大岾稲荷   文字塔 百番供養 願主
川越市
(14基)
橋供養佛 1725 菅間、阿弥陀堂 古川排水路 菩薩像    
石橋一処本願   寺山、観音堂 入間川 文字塔   施主村中
△造立橋供養佛 1726 的場、法城寺   如意輪観音像   施主、世話人、助力村
石橋供養塔 1819 上野田 赤間川 文字塔   世話人
石橋供養塔 1802 増形 中川 文字塔 道標 願主
石橋令七観音供養塔 1794 大中居、高松寺 九十川 菩薩(坐像) 三面に像 世話人、施主8名、助力
石橋供養塔 1796 砂、勝光寺 新河岸川 道祖神?像   助力町村名(約60)
石橋七ヶ所新造 1792 笠幡 北小畦川 聖観音像   誦普門品供養尊講中
世話人
奉建立橋供養 1811 笠幡 南小畦川 地蔵菩薩像   念仏講中、世話人2名(僧侶)
石橋供養塔 1801 笠幡 小畦川 文字塔 道標 高さ31cmと小さい
石橋修補供養△ 1783 笠幡 北小畦川 馬頭観音像   施主
石橋供養為二世安楽 1735 笠幡 南小畦川 聖観音像    
石橋十八箇所供養之塔 1813 萱沼 びん沼川 文字塔 馬頭観音  
石橋供養塔 1788 今福 不老川 文字塔 青面金剛 世話人、施主、助力村
ふじみ野市
(1基)
石橋四ヶ所 1755 苗間、薬師堂 砂川堀 文字塔   施主、助力村
富士見市
(5基)
寒念仏供養同行 1695 東大久保 びん沼川 地蔵菩薩像 橋供養 4人の名前
石橋供養塔 1804 東大久保 新河岸川 文字塔   施主 3人
奉庚申待供養石橋成就処 1701 水子 富士見江川 青面金剛像 庚申待供養 11人の名前
奉供養日待講石橋成就処 1701 水子、地蔵院 富士見江川 地蔵菩薩像   日待講14人の名前
奉造立石橋供養 1738 下南畑 南畑大排水路 地蔵菩薩像   願主
志木市
(5基)
石橋供養塔 1796 上宗岡二丁目、大仙寺 新河岸川 聖観音 道標 願主
石橋供養塔 1775 上宗岡一丁目 新河岸川     願主、助力村名
石橋建立成就之所 1759 柏町六丁目 柳瀬川     願主、助力村名
石橋供養 1783 柏町一丁目 柳瀬川 馬頭観音   願主、施主、助力村
造此石橋者也謹言 1766 柏町一丁目、宝幢寺 柳瀬川 聖観音   願主、助力村、商買人衆中

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