谷古田領元圦 (やこたりょう もといり)

 所在地:越谷市西方一丁目、葛西用水(逆川)  建設:1891年

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
呑口 16* 3.3* 2.4* 3.2* アーチ
1.2*
スルース 焼過煉瓦
翼壁に分水口
吐口

 谷古田用水:
 谷古田領元圦は、農業用水路:谷古田用水の元圦(取水口)である。
 葛西用水(逆川)の瓦曽根溜井(かわらそね ためい)の右岸に設けられている。
 瓦曽根溜井は慶長年間(1600年頃)に伊奈氏によって造成されたとされ、上流側である岩槻領、越谷領、
 新方領の悪水を貯留し、下流側地域への農業用水源としていた。瓦曽根溜井からは上流から順に、
 谷古田用水、東京葛西用水、八条用水が取水している。
 谷古田用水は、綾瀬川の右岸(現.左岸)流域の谷古田領(31村で構成され大部分が現.草加市、
 6村が川口市)をかんがいし、流末は古綾瀬川へ落ちる。その起源は延宝8年(1680)の
 綾瀬川用水堰禁止令にまで遡るという→文献18、p.276)。それまでは谷古田領の用水は、
 蒲生村(現.越谷市蒲生)に堰を設けて綾瀬川から取水していたのだが、
 綾瀬川に堰を設けることが禁じられたために、瓦曽根溜井を新たな水源としたのである。

 現存最古の煉瓦樋門:
 本施設:谷古田領元圦は埼玉県に現存する煉瓦造り樋門では最も古い。
 また、筆者の知る限り、現存する農業用水の取水施設(煉瓦造り)としては、日本最古である。
 谷古田領元圦は明治24年4月18日に、南埼玉郡大相模村大字西方(現.越谷市西方一丁目)に
 北足立郡新田村草加町組合(管理者は新田村長)によって建設された(埼玉県行政文書 明1777-4)
 組合名は素っ気ないが、実質は谷古田用水の維持管理をするための水利組合である。
 新田村(しんでん)は明治22年に、九左衛門新田、長右衛門新田、新兵衛新田、清右衛門新田、金右衛門新田、
 善兵衛新田、篠葉村、東中曽根村、槐戸村が合併して誕生したもので、現在は草加市に属する。
 なお、谷古田領元圦の建設地である南埼玉郡大相模村も明治22年に誕生した村である。
 大相模村は越谷町と合併して昭和29年に消滅したが、大相模村の道路元標は今なお残っている。

 谷古田領元圦の建設の動機は倉松落大口逆除と同じく、洪水で破壊された木造の旧施設を煉瓦造りで
 復旧したものだと思われる。しかし元圦の煉瓦造りへの改築は建設費が高額であり、地元だけでは
 資金を工面できなかったので、不足分は県からの補助金に頼らざるを得なかった。
 明治23年9月に新田村長と草加町長の連名で、県知事宛てに地方税の補助を申請している→文献49a、p.789)
 最終的に、総工費2,230円のち660円は寄付金、250円は組合費から捻出したが、
 不足分の1,320円(総工費の約60%)は県税補助金に頼っている。

 煉瓦樋門の構造:
 谷古田領元圦の樋管長は9間(16.2m)、通水断面は幅 4尺(1.2m)、高さ 4尺のアーチ型
 鉄製のゲートが1門装備されていたが、これは全国的に見てもかなり先進的である。
 建設に使われた煉瓦数は約54,000個であり、埼玉県に建設された煉瓦樋門としては中規模である。
 煉瓦の内訳は焼過煉瓦:13,000個(特別鋳型2,500個)、一等煉瓦:41,000個(特別鋳型4,500個)と
 なっている。特別鋳型とは直方体ではない異形の煉瓦のことであり、アーチリング(くさび形)や
 隅部(面壁と翼壁の接合部)などの構築に使われる。樋管本体の基本構造は煉瓦アーチ(ヴォールト)であり、
 それを面壁、翼壁等の壁構造で支えている。壁の煉瓦はイギリス積みで組まれている。
 基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
 杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを
 打設した方式である。基礎杭には松丸太(長さ18尺:5.4m、直径5寸:15cm)が124本使われている。
 杭配置は図面が残っていないので不明だが、施設規模から類推すると間隔は1m程度であろう。
 基礎杭の上には基礎コンクリートが打たれているが、その厚さは30cm程度だと思われる。
 葛西用水の関連施設は明治期に5基が煉瓦造りで改良されたが、谷古田領元圦は
 その最初の施設であり、なおかつ唯一現存する貴重な構造物である。

 瓦曽根溜井防水記:
 谷古田領元圦の傍らにある瓦曽根溜井防水記(1893年建立、題字:前島密、撰文:樋口敬三)には、
 明治23年(1890)8月の大洪水の様子が生々しく記されている。要約すると、”利根川の中条堤
 破堤し、その氾濫水は古利根川と元荒川を流下し、瓦曽根溜井にまで押し寄せてきた。
 まさに溜井の堤防は決壊寸前であったが、村人の不休の水防活動によって難を免れた。
 これにより、東京府民は洪水の被害から救われた。〜以下略”である。
 瓦曽根溜井は、東京都を洪水から守る遊水池でもあったのだ(注)
 なお、碑文には破堤したのは利根川の中条堤とあるが、正確には北埼玉郡須加村下中条
 (現.行田市下中条)の利根川右岸堤防(現在の利根大堰付近)である。(→埼玉縣史 下巻、埼玉縣、1912、p.440)
 この時には権現堂川も北葛飾郡行幸村大字外国府間(現.幸手市外国府間)で、行幸堤が決壊しているので、
 利根川の洪水流が見沼代用水、元荒川、葛西用水(古利根川)を伝わって(皮肉なことに全て利根川の
 旧河道である)、越谷市にまで一気に流下してきたのである。

 煉瓦工場が多かった越谷市:
 本施設の存在する越谷市は、かつては埼玉県でも有数の煉瓦生産地帯であった。
 明治から大正期にかけて、元荒川や古利根川の流域には数多くの煉瓦工場が存在していた。
 両河川による水運の便は製品の輸送だけでなく、燃料の搬入にも好都合であり、また周辺地域に
 分布する豊富な氾濫土が、煉瓦工場の立地に適していたのだと思われる。
 記録に残る越谷市域での最初の煉瓦工場は、明治32年(1899)に南埼玉郡増林村で
 創業した上田煉瓦製造工場である。

 謝辞:本施設の存在は、S.Jさん(匿名希望、越谷市在住)から教えていただいた。深く感謝を表したい。
 追補:谷古田領元圦は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 呑口
↑呑口(葛西用水の上流から)
 呑口は大幅に改修されている。出来形帳には
 石材(相州堅石)が25枚計上されているので、
 呑口側には豊かな装飾が施されていたと思われる。
 周囲は瓦曽根溜井と呼ばれる溜池であり、最下流に
 設けられた瓦曽根堰(写真奥)で水をせき止めている。
 改修される前の瓦曽根堰(赤水門、1924年竣工)は、
 ストーニーゲートを10門備えた壮観なものであった。
 写真左の中土手をはさみ、瓦曽根溜井の対岸は
元荒川
   吐口
  ↑吐口(下流から)
   谷古田領元圦は、県道52号越谷-流山線の下にある。
   元圦に覆い被さる形で、上部に歩道橋が併設されているので、
   本施設は非常に見つけにくい。樋管は葛西用水の右岸堤防に対して
   斜めに設けられているので、構造形式がねじりまんぽの可能性もある。
   吐口側の外観は、鉄道施設の
アーチカルバートと良く似ている。
   装飾は皆無で、面壁や翼壁の天端には
迫り出しも施されていない。
   もっとも、これは吐口側だけのことで、呑口側(正面)には
   豊富な装飾が施されていたかもしれない。

 面壁とアーチ
↑面壁とアーチ
 赤煉瓦ではなく、黒っぽい色の煉瓦(
焼過煉瓦)が
 使われている。アーチは煉瓦小口の3重巻き立て。
 くさび形の
異形煉瓦(特別鋳型)が使われていると
 思うのだが、近寄れないので、はっきり確認できない。
 翼壁は両岸に大きく、もたれた(傾いた)形式。
 右岸側の翼壁には、幅50cm(推定)の分水口(形状は
 
セグメンタルアーチ、方式は自然流入)が設けられている。
 この分水口の設置目的は用水の分水のためなのか、
 余水を放流するためなのかは、不明である。分水口が
 付いているのは埼玉県の煉瓦樋門では現存唯一である。

   胸壁と翼壁
  ↑胸壁と翼壁
   左が胸壁、右が翼壁。煉瓦の表面に塗られたモルタルは、
   おそらく歩道橋が併設された時に付けられたもの。
   使われている煉瓦の平均実測寸法は、21
6×104×57mmと
   小ぶりだ。大きさと色は均一ではなく、かなりのバラツキがあり、
   形が歪んだ物が多い。わずかに見える煉瓦の平の面を
   確認した限りでは、煉瓦の成形は機械抜きではなく、
   
手抜き成形である。建設時期が重なり、建設地が隣接することから、
   谷古田領元圦に使われている煉瓦は、
倉松落大口逆除(1891年、
   春日部市)や
五ヶ門樋(1892年、庄和町)の煉瓦と同じであり、
   これらは同一の工場が製造した可能性が高い。

(注)文政年間(1830年頃)の調査を基に編纂された、
 新編武蔵風土記稿の埼玉郡西方村(10巻、p.171)に、当時の瓦曽根溜井の
 様子が記されている。なお、瓦曽根溜井には河岸場も設けられていて、
 安永元年(1772)に幕府に願い出て公認の河岸場となった。
 ”当村此水元ゆへ久霖暴雨の時は、第一に水災を被れど、組合の輩は
 己が村々の事のみに奔走し来りて、力を助くる者なく〜中略〜
 誠に近郷比ひまれなる難渋の村なり、よりて常に明俵一万余、
 縄三千房をたくはへ、其備へとす、享保十一年公へ願上、
 小屋を結び定杭をたて、事ある時は役人来りて村民を指示し、其難を数はしむと云”

 西方村は水元(取水口がある地区)なので、水害を蒙りやすかった。
 瓦曽根溜井防水記の碑文に記された官民一体となった水防活動は
 享保十一年(1726)に水防小屋を建て、その中に水防備品を
 常備することから始まった。”定杭をたて”とあるので、溜井の堰堤の高さを
 取り決めた
御定め杭が設置されたのだろう。
 葛西用水が正式に10ヶ領組合の用水となったのは、
 享保四年(1719)であり、これ以降、瓦曽根溜井の水量も増えた。
 なお、瓦曽根溜井防水記のすぐ近くには、享保八年(1723)建立の庚申塔が
 残っているが、これは
道標(道しるべ)と歌碑を兼ねた珍しいものである。


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