埼玉県における煉瓦樋門等の建設(概略史)  改訂22版:2008/10/01 → 参考文献の一覧

 埼玉県では明治中期から大正初期にかけての約40年間に、250基を超す煉瓦造りの
 樋門(総称は水門)が建設された。煉瓦は当時の最先端の土木材料であった。
 埼玉県の煉瓦樋門の大半は、老朽化した既存の木造樋門を煉瓦造りで改良したものであり、
 他県のように大規模な地域開発事業によって、新規に創出された煉瓦樋門の数は極めて
 少ないことが特徴である。明治期には児島湾干拓事業(岡山県)や八代湾干拓事業(熊本県)などで
 干拓地の排水施設として、埼玉県のような煉瓦造の樋門が数多く建設されている。

 埼玉県では煉瓦樋門は改良樋門(木造から煉瓦造へ改良)とも呼ばれ、町村土木補助工事として
 地元民が主体となって、秩父郡を除く埼玉県の全域に建設された。埼玉県が展開した県営事業ではなく、
 あくまでも市町村あるいは団体営(水利組合)の土木工事である。
 行政上、樋門建設の申請者は町村長や郡長、水利組合の管理者だが、建設の立案・決議者は
 地元民であった。そして人夫として煉瓦樋門の建設工事に従事したのも地元民である。

 煉瓦樋門を機能で分類すると、取水施設と排水施設にニ分されるが、当時の社会構造を考慮すると、
 生活用水と農業用水、生活排水と農業排水は不可分であることから、煉瓦樋門のほとんどが
 農業に関連する施設であったといえる。例えば、現代の生活排水路に相当するのは、落しや堀と
 呼ばれる悪水路(農業排水路)であり、逆除や悪水除と称された逆流防止水門は悪水路の
 末端に設けられた。逆流防止水門は現代の機能区分では治水施設に相当する。

1.埼玉県の地理的条件と煉瓦樋門建設の時代背景

 
1-1.顕在化した不具合を改良した明治という時代

 埼玉県は東京都に隣接するが、県の東半分が低平地(荒川や利根川の旧流路が形成した沖積地)や
 沼沢地であったこと、割合と人口が集中していたことなどから、江戸時代の早い時期から低平地や
 沼沢地は農地として開発されていた。そして享保年間の終り頃(1735年)までには、かんがい用水の
 水源を利根川や荒川などの大河川に求めた、大規模な農業用水路の原形態がほぼ確立していた。
 例えば利根川から取水する備前渠用水見沼代用水葛西用水、荒川から取水する六堰用水などである。
 とりわけ、備前渠用水と六堰用水はその創設が慶長年間(1600年頃)とされ、埼玉県で最古級の
 農業用水路である。そして、これらの用水路から供給される豊富な水をもとに、江戸時代末期までに
 主要な耕地は開発され、ほぼ水田化されていた。河川からの取水が困難な台地や丘陵地では
 溜池を水源として水田が開かれていた(もっとも溜池による方式は、近世以前から存在したようだが)。
 水利の便が悪い(当時の土木技術では水が引けない)土地が、畑地として残っていたわけである。
 一方で、幕府による治水を主眼とした河川改修は、財政の悪化等を理由に、享保年間以降は
 ほとんど実施されなかった。それに加えて、遊水機能を持つ沼沢地や河川敷の中まで
 新田開発がなされたために、江戸時代末期になると、関東地方では頻繁に大水害が
 発生するようになった。例えば、寛保の大水害(1742年)や天明の大水害(1786)などである。
 明治期とは、このような利水と河川形態を踏襲し維持しながら、顕在化した不具合を改良した時代である。

 用排水路の主要な構造物である樋門や堰の最大の問題点は、木造ゆえの耐久性の乏しさだった。
 それを解決したのが煉瓦樋門であり、既存木造構造物の弱点であった耐用年数の短さは、
 堅牢な煉瓦を使うことで克服された。江戸時代以降に延々と繰り返されてきた、施設の腐朽、
 洪水で破壊、復旧工事という歴史には完全に終止符が打たれたのである。
 煉瓦樋門はまさに近代化を象徴する最先端の構造物であった。
 しかし、煉瓦樋門の規模や取水・排水形式は、近世からの仕様が踏襲される場合が多かった。
 取水施設の場合は慣行水利権、排水施設の場合は上流側と下流側の地区との間で交わした覚書や
 協定が存在していたからである。特に覚書や協定は水に関する紛争が生じる度に、関係村々相互の
 譲歩のもとに成文化されたものなので、いざという時には数百年という歴史の積み重ねが効力を発揮した。
 そのため、煉瓦樋門の規模は近世と大差なく、しかも用排水系統が根本的に改良されることは稀であり、
 樋門をとりまく水利体系は、近世の旧態から大きく変化することは無かった。
 この状況は河川の堤防についても同様であり、洪水で堤防が決壊した場合、その復旧工事は
 原形への復帰が原則だった。つまり、堤防は被災後に復旧がなされても、洪水に対する安全度は
 以前よりも向上することはなく、再び決壊、復旧を繰り返していた。このように施設の旧態を
 維持することで、上下流や左右岸の利害対立が抑制され、秩序の均衡が保たれていたのである。
 煉瓦樋門はその外見は近代化を象徴する構造物でありながら、内部には近世からの矛盾が
 封印されたままの構造物だったともいえる。

 埼玉県内の主要排水河川の状況についても、近世からの矛盾が近代へと持ち越されていた。
 浚渫や藻刈りは民費に依存していたために、費用不足から充分な河川の維持管理が行えず、
 河川には土砂の堆積が進行し、流水を阻害していた。つまり、河積の減少によって洪水の流下能力は
 限界にまで達していたのだ。そのため、地元民は県による抜本的な河川改修の実施を要望し、
 埼玉県議会には再三、建議書(陳情書)が提出されていた。例えば明治35年の埼玉県議会では
 大落古利根川の改修実施に関する建議が、県会議員22名によって提出されている(→埼玉県議会史 第二巻、p.1098)
 しかし埼玉県内の排水河川の改修を実行することは、下流に位置する東京府への排水量が増大することに
 なるので、利害が対立して、埼玉県単独では改修計画は実行に移せないというのが実状だった。
 したがって問題点を認識しながらも、その解決は先送りにされ、結局、明治時代には
 大落古利根川や元荒川の浚渫が実施されたにすぎない。

 水利体系の矛盾や不具合を、根本から解決するための河川改修を埼玉県が実施するのは、
 大正末期から昭和初期にかけての13河川の改修からである。国直轄による利根川、庄内古川(中川)、
 荒川の改修計画が浮上すると、それらの支川であり、本川改修による影響が大きい13河川に対して、
 埼玉県は本川改修との整合性を考慮しながら、支川の改修を計画したのである。13河川とは
 大落古利根川とその支川、元荒川とその支川、綾瀬川、福川、小山川、芝川、新河岸川などである。
 埼玉県は農業用水の河川依存率が高いので、この事業は実質的には農業用水系統の再編成事業で
 あった。この事業の結果、廃止された(廃棄されその後に代替施設が建設されていない)煉瓦樋門も多い。
 煉瓦で改良された樋門は、全樋門の内のごくわずかであり、地域を代表するような重要施設で
 あるにもかかわらずだ。このことは近世に確立された用排水系統が、複雑で整理されていなかったので、
 水利施設の数が多すきたことを示しているともいえる。明治時代末期から大正期にかけては、
 埼玉県内の各地で大規模な耕地整理事業が相次いで展開され、それらによって耕地からの排水量は
 増大していた。13河川の改修には、耕地整理事業に随伴した排水幹線の整備という側面もあった。
 事実、大正12年(1923)からは農商務省の用排水改良事業(土地改良)の対象となり、事業費の
 50%が国庫補助金として交付されている。農商務省が主体となった河川改修事業の嚆矢といえる。

 1-2.農業県だった埼玉県、大地主と農会の関係

 明治政府は食料増産を国策の一つに据えていた。低迷する米の自給率(第二次大戦後まで
 日本の米の自給率は100%以下であった)を向上させることは急務でもあった。
 明治時代の埼玉県は全国でも有数の農業県(稲作・麦作と養蚕)だった。これは江戸時代からの特徴であり、
 とりわけ埼玉県産の米は品質が優良なので武州米と称せられ、江戸市場を風靡していた。
 近代になっても同様であり、明治26年(1893)に東京米穀商品取引所が開設されると、
 埼玉県産の米は東京市場における取引の標準米の地位を築いていた(→埼玉県史 資料編22、p.204)
 そして東北地方を除くと、埼玉県の大地主の数は全国でも一、二位であった。

 明治時代には地主への農地の集積が急激に進行し、埼玉県の小作地率(全耕地のうち小作地と
 なった面積の比率)は明治20年に35%、26年に39%、36年に42%、45年には47%となっている。
 埼玉県史 通史編5、p.700)。郡別に見ると、稲・麦作が中心だった北足立郡、南埼玉郡、
 北葛飾郡の小作地率が高く、北葛飾郡は明治36年に64%に達している。
 大地主によって構成された農会は、農業改良に熱心だった。埼玉県で最初の農会は
 明治25年頃に発足した北埼玉郡の農会であるが、明治31年までには全ての郡で郡農会が
 結成されている。埼玉県は明治28年6月に農会設置準則を公布しているが、これによると、
 郡だけでなく町村単位でも農会を結成することが、なかば義務付けられている。
 明治28年12月の埼玉県議会では、郡農会補助ニ関スル建議(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.400)
 可決され、農会結成に対して県からの補助金が得られるようになった。
 ちなみに農会の中央組織だった大日本農会は、明治30年代には経営悪化から運営が困難だった、
 東京農学校(東京農業大学の前身)を経営していたことがある。

 大地主は農会をリードする篤農家である一方、水利組合の実質的な運営者でもあり、
 なかには町村長や県議会議員を兼ねる者もいた。煉瓦樋門建設の申請者(町村長)が、
 建設予算の審議者(県議会議員)と同一人物というのも、それほど珍しいことではなかった。
 これだと煉瓦樋門の建設を申請した場合、認可はたやすく下りるし、県からの樋門建設補助費は
 間違いなく県議会で承認される(→補足3)。これは地元の要求に答えるという県議会議員としての立場と
 大地主としての利害が一致している。信じられないことだが、当時の県会議員の選挙権および被選挙権は
 一定額以上の国税を納付している者だけが有していた。例えば明治32年(1899)の有権者数は56,300人、
 被選挙権者数は32,194人であり、県人口は1,188,292人である(埼玉県行政史 1巻、p.882)
 選挙への参加資格があったのは、県全体の人口に対して5%以下という、ごくわずかの者だけである。
 そして多額の国税を納めていたのは、都市部の実業家を除けば、ほとんどが大地主である。

 大地主は農業改良に熱心であり、特に農地の生産性を向上させることは、
 自らの利益の増大につながる(当時の小作料は米や大麦などの物納が一般的だった)。
 後年、埼玉県では各地で大規模な耕地整理が展開されるが、そのさいに主導権を発揮して、
 事業を推し進めたのが大地主である。排水改良と土地生産性の向上が彼らの主眼であった。
 湿田が乾田化されれば、二毛作も可能なので、畑地はできる限り水田へと地目転換したがった。
 水田の方が畑よりも生産性が高く有利だったからである。まさに我田引水である。

 また、水利組合にとっては、用水路や排水路に設けられた木造樋門や取水堰は耐久性に乏しく、
 数年毎の修復や伏せ替え(全面的な改築)を余儀なくされ、その維持管理費は頭痛の種であった。
 特に湛水常襲地では排水樋門が脆弱だと、農地が湛水被害を受け、農作物は水腐れとなり
 最悪の場合、収穫皆無となる。そのような地区では施設の修復や伏せ替えのさいには、
 できる限り、先ず煉瓦で改良することを目論んでいたのである。
 農地に対して生産基盤の整備を展開することは、農業生産の安定につながる。
 つまり、大地主にすれば、安定した小作料が期待できることになる。
 全国的に見れば、相対的に裕福な農業地帯である埼玉県には、その農業生産システムの上に
 大地主や名望家が存在していた。そして彼ら(県政への影響力がある指導者)を
 有していた水利組合は、煉瓦樋門の建設に関しては有利にことが運んだのである。
 埼玉県に農業用の煉瓦樋門が数多く建設されたのには、このような背景があった。

 1-3.河川の状況の旧態化

 反面、江戸時代に形成され維持されてきた河川形態(舟運と農業用水が主体)は、明治時代以降の
 急激な社会構造の変化に伴い、矛盾が露呈し始める。
 一等河(利害が数県に跨る河川、現代の一級河川に相当)に関する河川計画は、河川法が
 公布される明治29年(1896)までは、高水(治水)ではなく、低水(利水や舟運)に重点が置かれていた。
 例えば利根川では、低水工事(広域に渡る)は国の直轄だが、高水工事(局所的な)は
 埼玉縣に任せられていた。予算不足を理由に国は治水工事の履行を放棄していたのである。
 河川の治水上、危険な箇所については高水工事を任せられた各県が、局所的な対策を施していた。
 なお明治27年まで、埼玉県では県が選定した主要16河川以外の中小河川の堤防工事については、
 県の管轄ではなく、町村の土木事業に位置づけられていた。したがって樋管の修築や建設工事は
 町村の負担であった。主要16河川の樋管についても、わずかな補助費が得られるだけで、
 実質的には町村が維持・管理を担当していた。なお、河川を取り巻く社会環境は当時とは激変しているが、
 現在、埼玉県内を流れる一級河川の数は159である。

 低水を主眼とした河川改修工事は洪水流下能力の低下を招き、かえって洪水被害を助長させると
 いう有害な結果をもたらすことも多かった。例えば舟運にとって好都合な河川の条件は、年間を通して
 水位が確保されることであり、そのためには河道幅は狭く、流路は頻繁に蛇行していることが
 好都合だった。農業用水の取水にとっても、水が流れにくい(ゆっくり流れる)河川であれば、
 当時の脆弱な取水施設でも水位の制御が容易であった。
 一方、低水主体で整備された河川は、治水の観点からすれば、水衝部が多く(堤防決壊を
 引き起こす可能性の箇所が多く)、洪水の速やかな流下が著しく阻害される危険な河川である。
 それが支川の場合、洪水の流下時間が本来よりも遅れることになので、支川と本川の
 最大洪水量の発生タイミングが合ってしまうこともある。そうなると、支川は水位が
 高くなった本川への排水が困難となり、逆に本川の洪水が支川へ流入してしまうことも起こりうる。
 合流地点ではピーク時の洪水量が増えるので、本川や支川の堤防が決壊しやすくなる。

 そのうえ当時は、利根川や荒川(全国的な水準でも大河川に属する)ですら、水防上の重要箇所を
 中心に部分的に築堤がなされる程度で、現在のような連続堤防は設けられていなかった。
 無堤防の区間がかなり多く、霞堤のような形態だったのである。利根川や荒川にはそれを裏付ける、
 地域名を冠した旧堤防(村囲堤)や決壊した堤防の修堤碑が今も残っている。
 大河川の無堤防区間の周辺には遊水地が設けられ、領を単位として設置された控堤群(村囲み堤)で
 洪水の防御がなされていた。洪水が氾濫することを前提として、河川施設が配置されていたのである。
 これらは中小洪水に対しては、ある程度の効果があったが、大洪水には無力であった。
 流域の産業構造と土地利用形態が激変し、都市化が進行するに伴い、洪水流出量は増大し、
 氾濫区域は拡大し、湛水時間も長期化していった。
 地域住民の生活様式も洪水防御を基本に成立していた。民家は高台に築かれ、敷地内には水屋や
 水塚と呼ばれる洪水に備えた非常時用の蔵を設け、その軒先には揚舟(水害予備船)が吊るされていた。

 1-4.自衛手段としての煉瓦樋門

 明治期の埼玉県は全国有数の水害県でもあった。堤防が決壊するような大規模な水害が5〜6年に
 一度の頻度で発生していた。これは天明3年(1783)の浅間山噴火によって溶岩流や火山灰、土砂が
 県内の各河川に流入し河床高を上昇させたこと、当時の築堤や治水の技術が劣っていたことも一因だが、
 根本的な原因は河川の計画洪水量が小さすぎたことにある。現代の概念からすれば、1/5年確率に
 相当する程度の洪水量しかなかったことになる。明治29年(1896)に河川法が公布され、全国の
 主要12河川の国直轄化とその高水工事への国費支出が決定されると、その年の埼玉県議会では
 利根川と荒川の改修を優先させることを切望した建議案(陳情案)を可決し、内務大臣 樺山資紀に宛て
 提出している。利根川荒川ノ治水ニ国庫補助ヲ乞フノ建議(→埼玉県議会史 第2巻、1958、p.467)
 利根川と荒川では水害が頻繁であり、県の治水費だけでは、その対処が不可能なので、
 国庫の補助による早急な改修工事を要請した内容である。同様の請願は明治年間を通して
 数回にわたり提出されている。しかし、地元の切なる陳情にもかかわらず、国による利根川、
 江戸川、荒川の河川改修は遅々として進まず、埼玉県下は度重なる水害を蒙っていた。
 一方で治水の利害を巡り、地域間で対立・紛争を繰り返すという旧態の構図から脱却する動きも
 芽生える。それが上述した数々の建議である。近世よりも視野が広がり、国に対して抜本的な河川改修を
 要求し始めたのは、近代の特徴ともいえる。

 煉瓦樋門を建設することは、地元民が生活と資産を守るための自衛手段でもあったのだ。 
 ”地域を守るのは地域の住民”である。この水防活動の基本精神は、現在でも地域の水防団に
 引き継がれている。国や県による水系一貫の抜本的な治水対策がなされなかったために、
 地域内の矛盾や問題点は地元民自らが解決したのである。しかし、それらは所詮、地域単位での
 綻びを繕うような局所的なものであり、根本的な解決策ではなかった。国や県による広域的な対策が
 なされるのは、明治43年の大洪水という痛ましい惨禍を経験してからのことである。
 利根川ではそれまでの河川改修計画が改定(計画洪水量の変更)され、荒川は国の直轄事業として
 明治44年(1911)から第一期改修工事が開始された。埼玉県の範囲は第二期改修工事に
 位置付けられ、大正7年(1918)に工事が着工している。

 以上、当時の埼玉県が置かれていた状況を極言すれば、埼玉県は大消費地である東京府への
 食料供給地であるとともに、利根川、江戸川、荒川の水害から東京府を守るための遊水地であったと
 いえる。なお、埼玉県の遊水地としての役割は、大正時代に始まり昭和初期に完了した荒川の近代改修でも
 完全に解消されることはなく、旧慣行が引き継がれている。吉見町付近に設けられた広大な
 堤外地(堤防間の距離が約2.5Km)と荒川の堤外に20数箇所も設けられた横堤がその証である。
 ともかく明治期の埼玉県では、河川の流域は頻発する洪水と慢性化した排水不良にさいなまれていた。

2.埼玉県における煉瓦樋門の建設数と現況

 2-1.煉瓦樋門の総数とその特異性

 埼玉県では1886〜1930年の約40年間に、およそ250基の煉瓦樋門等(煉瓦を使った河川構造物)が
 建設された(2005年8月現在の確認数)。これは建設記録(埼玉県の行政文書や各種文献・写真)が
 残されている樋門と筆者が現地踏査によって発見した樋門の合計数である(→煉瓦樋門の建設年別分布)。
 ただし、建設記録が残っていないが、現存する煉瓦樋門が約10基あること、煉瓦樋門の現存率は約30%で
 あることから、建設記録が残っていないうえに、既に取り壊されて現存しない煉瓦樋門が約20基あったと
 推定される。このことから埼玉県に建設された煉瓦樋門の総数は、270基以上だと思われる。 
 筆者は他県の煉瓦樋門の建設数については把握していないが(県によって大きな差があると思うが、
 平均すると1県あたりの建設数は10数基ではないだろうか)、埼玉県の建設数は他県と比べると
 おそらく異常とも言える数であろう。
 しかし上述したように、これらの煉瓦樋門は生産活動を安定させ、水害から生活を守るには、
 必要欠くべかざるものであった。ちなみに埼玉県の煉瓦樋門の建設数270基は県全体の
 総数としては確かに膨大だが、一市町村あたりの平均建設数に換算すると約0.84基となる。
 もっとも、煉瓦樋門が建設されなかった秩父郡を除いた場合、その平均は0.93基である。
 旧市町村につき約1基の煉瓦水門が建設されたことになる(あくまでも平均であり、地域毎の偏りは大きい)。
 しかし、旧市町村は概ね現在の市域の大字に相当するから、やはり煉瓦樋門の建設数は多い。

 昭和28年に町村合併促進法が公布され、翌年から俗にいう昭和の大合併が実施されるのだが、
 その時点で(つまり明治22年の市制町村制の施行以降)、埼玉県には実に323もの市町村が存在していた。
 埼玉県の県域は歴史的に小さな町村が分立する傾向が強く、近世には私領、旗本領、天領などに
 細かく分割され統治されていた。1つの村に複数の領主が存在する例も珍しくなかった。
 この320超という数字は奇しくも、現在、埼玉県内に存在する一級河川の数(159)と準用河川の数(195)の
 合計数に近い。ただし、準用河川に建設された煉瓦樋門の数は、一級河川に比べると極端に少ない。
 利根川水系と荒川水系に包含される関係から埼玉県には、二級河川はほとんどない。
 また、埼玉県ではこれらの河川から取水する農業用水路が江戸時代初頭から開発されている。
 例えば、備前渠用水、北河原用水、六堰用水、見沼代用水、葛西用水、羽生領用水、二郷半領用水である。
 この河川と農業用水路の多さが、埼玉県に煉瓦樋門が数多く建設された要因の一つである。
 つまり、煉瓦造りで改良されることになる木造の樋門が、江戸時代から既に数多く存在していたのである。

 ところで、江戸時代に埼玉県の県域に、どのくらいの数の木造樋門が存在していたのかが問題となるが、
 これは史料不足などから知る術がない。ただし、武蔵国入間郡之内村々普請箇所附帳(埼玉県史
 資料編13、p.794-806)などから、ある程度の推測は可能である。同書は入間郡域に存在した道路や橋、
 堰、圦樋などの普請箇所が一覧として記された書であり、入間郡内の村々と題されてはいるが、
 対象となっているのは、ほぼ現在の川越市の市域である(それよりも若干、狭い程度である)。
 筆者が同書から圦樋、水門、堰、吐樋、飛樋、埋樋、掛樋などを集計した結果、総数は99基である。
 江戸時代のいつ頃の記録なのかは不明だが、ともかく川越市の市域には、木造水門が約100基、
 存在していたことになる。それに対して明治期以降に、川越市の市域に建設された煉瓦水門は5基である。
 施設の重要度や地域性の違いはあるが、川越市では既存の木造水門の内の約1/20が後に煉瓦水門へと
 改良されたことになる。このことから類推すると、江戸時代のある時期に埼玉県の県域に存在した、
 木造水門の総数は5,700基となる。このうち、後に煉瓦造で改修されるのは5%にも満たない270基なので、
 煉瓦水門とは、重要度が高く厳選された施設だったことも想像が付く。

 一方、埼玉県は樋門(河川構造物)を除くと、煉瓦造りの土木構造物(道路関連)の建設事例は
 他県と同等あるいはそれ以下である。煉瓦巻きの随道(トンネル)の建設数は他県より明らかに
 少ないし、煉瓦アーチ橋も多くはない。随道やアーチ橋が建設される場合は市町村ではなく、
 県の直轄だったはずである。煉瓦樋門だけが極端に多いことが、埼玉県の地域的な特異性を示している。

 2-2.埼玉県で最初と最後の煉瓦樋門

 埼玉県の煉瓦樋門等の建設は、明治19年(1886)12月の備前渠圦樋(利根川、本庄市)に始まり、
 大正9年(1920)の福川樋門(福川、行田市)で幕を閉じるとされている(→注1)。
 日本国内では明治10年代初頭から鉄道や随道(トンネル)で、お雇い外国人の力を得て、煉瓦を
 使った構造物が建設されていた。河川構造物では、ファン・ドールンの設計による石井閘門(宮城県、
 北上運河)・十六橋水門(福島県、猪苗代湖→安積疎水)が明治13年に竣工している。
 埼玉県初の煉瓦樋門とされる備前渠圦樋(備前渠用水の元圦)も、オランダ人技術者の
 ムルデルによって設計されたという(→注2文献1)。建設工事は埼玉県の直轄で実施されたと
 思われる(→埼玉県議会史 第1巻、埼玉県議会、1958、p.717)。ただし、備前渠圦樋は工事開始は確かに
 埼玉県で最初なのだが、工期が長かったため、竣工は柴山伏越に次いで2番目である。
 備前渠圦樋は農業用水の取水施設(煉瓦造り)としては、おそらく日本で最初のものであろう。
 備前渠圦樋には金属製(材質が鋼または鋳鉄かは不明だが)のゲートが取り付けられていたが、
 金属製のゲートの採用事例としては、日本最古の部類に属すると思われる。
 このゲートは輸入品ではなく、東京職工学校(東京工業大学の前身)が製作している。
 現在、備前渠圦樋はコンクリートで全面的に改修され、名前は備前渠樋門となっている。
 往時を偲ばせるものは、備前渠改閘碑記(明治36年建立)と題された竣工記念碑しか残っていない。

 埼玉県最後の煉瓦樋門とされる福川樋門は、内務省による利根川の第3期改修工事(1909-1930年)の
 特殊工事として建設されたものである。利根川から福川への洪水の逆流を防ぐ3連アーチの樋門だった。
 ゲートは木製の観音開きであり、通水断面の幅は3.6m、当時の樋門としては規模が大きい部類に属した。
 ただし、福川樋門の内部構造は鉄筋コンクリート造りであり、アーチリングは石材、躯体表面には
 煉瓦が貼られていた。見た目は煉瓦造りだが、もはや煉瓦は構造材ではなく装飾材となっていた。
 そういった意味では、福川樋門ではなく、昭和14年(1939)竣工の三領水門(荒川左岸、川口市)が
 埼玉県で最後の煉瓦樋門といえる。福川樋門は福川の改修に伴って、昭和54年(1979)に
 コンクリートで全面的に改修され、幅20mのローラーゲートを3門持つ巨大な施設へと変貌している。
 名称も福川水門へと変更された。旧樋門の跡地には樋門の銘板を使った記念碑が残されている。

 2-3.現存最古と最新の煉瓦樋門

 現在、埼玉県に残る煉瓦樋門で最も古いのは谷古田領元圦(1891年、越谷市、葛西用水)、
 最も新らしいのは矢島堰(1926年、深谷市、備前渠用水)である。
 谷古田領元圦は農業用水の取水樋門だが、現在はもう使われていない。
 現役の施設で最古は村岡樋管(1891年、熊谷市、吉見堰用水)である。
 矢島堰は小山川に設けられた農業用水の取水堰であり、いまも現役の施設である。
 内部構造はコンクリート、表面の一部が煉瓦貼りとなっている。
 なお、現存する樋門で最も使用煉瓦数が多いのは、瓦葺掛樋(1908年、蓮田市〜上尾市、一部残存、25万個)、
 北河原用水元圦(1903年、行田市、19万個)、最も少ないのは前吐樋管(1903年、東松山市、3,000個)となる。
 奇しくもこれら6基はすべて農業用水の取水施設であり、谷古田領元圦と瓦葺掛樋(代替施設は瓦葺伏越)を
 除いた4基は、今も現役である。

 ちなみに、埼玉県史上最大の煉瓦樋門は、見沼代用水元圦(1906年、行田市、利根川、66万個)であった。
 見沼代用水元圦は柴山伏越と共に明治20年(1887)に煉瓦造りで改良する予定だったが、
 明治19年の埼玉県議会予算審議(→埼玉県議会史 第一巻、1956、p.720)で、元圦の建設は否決され、
 結局、柴山伏越のみ煉瓦造りで改良されている(明治20年竣工)。
 元圦は明治39年(1906)に煉瓦造りとなるまで、その後20年間も木造のままであった。
 しかし、見沼代用水元圦は煉瓦樋門としては、意外に寿命が短く(耐用年数の問題ではなく
 社会的な要請が大きい)、昭和13年(1938)にはコンクリートで全面的に改築された。
 その後、昭和43年(1968)に見沼代用水の元圦は廃止され、羽生領用水元圦、稲子圦、葛西用水元圦
 佐波樋管(川辺領元圦)などと合口して、現在では日本最大の取水堰:利根大堰となっている。
 なお、利根大堰に合口された用水路はどれも、利根川の右岸堤防に元圦樋管(取水口)を設けて、
 自然流入方式で利根川から直接取水していた。合口された5基の元圦樋管は明治中期から
 大正初期にかけて煉瓦造りへと改築されている。
 見沼代用水元圦は5基の中では、佐波樋管に次いで煉瓦化が遅かった。
 もっとも佐波樋管は川辺領耕地整理のさいに、新たな水源として利根川から取水することになり、
 大正4年(1915)に新設された樋門である。

 2-4.煉瓦樋門の現状

 現在、埼玉県に残る煉瓦樋門は総建設数の約34%の87基(東京都に建設の1基と
 一部残存を含む)である。そのうちの約30基は、いまだに現役の構造物として活躍している。
 大半は農業関連の取水・排水施設である。その中でも四箇村水閘(春日部市、1896年)、
 榎戸樋管(吹上町、1901年)、北河原用水元圦(行田市、1903年)、小針落伏越(行田市、1914年)は
 建設当初の形態が今もほぼ完全に保存されている。他の施設も改築(ゲートの交換や門柱の増築)の跡は
 見られるが、煉瓦には亀裂は見られず、大規模な補修がなされた例は少ない。
 現存するのは小規模な施設が多いとはいえ、煉瓦造りの樋門は意外に頑丈なのである。
 現役ではない57基の内訳は、一部残存が30基であり、これらは完全に遺構である。
 もはや煉瓦の形跡すら残っておらず、銘板のみ残存のものも多い。
 30基の内10基は代替施設が存在しない。つまり構造物としての存在理由も消失している。
 現役を引退した27基の大半は、朽ち果てて放置されたまま、不遇な扱いを受けている。
 歴史的な価値があり、全国的にも希少な構造物であるにもかかわらず、煉瓦樋門を含めた周辺の
 景観が充分に保全されているとは云いがたい。周辺整備がなされているのは、以下のとおり。
 榎戸堰(吹上町、1903年、遺構)の周辺は水辺公園、千貫樋(さいたま市、1904年)は水郷公園内の
 モニュメント、瓦葺掛樋(蓮田市〜上尾市、1908年、遺構)の周辺は掛樋史跡公園となっている。

 わずかだが顕彰されている煉瓦樋門も存在する(以下は2002年現在の状況)。
 例えば、甚左衛門堰枠(草加市、1894年)は県指定史跡、落合門樋(騎西町、1903年)は騎西町指定史跡、
 いろは樋(志木市、1898〜1903年、遺構)は志木市指定文化財である。
 教育委員会による説明板が設置されているのは、八幡堰(伊奈町、1899年、遺構)、三間樋(騎西町、1902年)、
 万年堰(宮代町、1902年、遺構)、榎戸堰(吹上町、1903年、遺構)、庄兵衛堰枠(白岡町、1907年)、
 瓦葺掛樋(蓮田市〜上尾市、1908年、遺構)である。
 ただし、ほとんどが遺構であり、本来の形態を留めている煉瓦樋門はごくわずかである。
 なお、本来の樋門としての役割は終えたが、現在は道路橋として新たな役割を与えられ、
 現役復帰しているものもある。これは手放しで喜ぶべき状況とは云いがたい。
 これらの樋門は当初の設計荷重(加味されているのか自体が疑問だが)以上の負荷に
 常時さらされているので、今後、煉瓦に発生する亀裂等が心配である。
 保全という観点からは、最も危険な状態に瀕している樋門だといえる。

3.創成期の煉瓦樋門の特徴

 創成期(1886〜1893年)には26基の煉瓦樋門が建設されている(総建設数の約10%、平均すると
 1年間に約3基のペース)。内訳は取水施設(元圦や伏越)が8基、排水施設(逆流防止や門樋)が18基で、
 治水施設の比率が高い。傾向としては取水施設は利根川水系、排水施設は荒川水系を中心に
 建設されている。これら26基は起源が江戸時代にまで遡れる歴史の古い構造物であり、
 なおかつ、利水・治水の重要度が高かったので、優先して木製から煉瓦造りへと改築された。
 26基中4基しか現存していないが、その理由は皮肉なことに重要度が高かったからである。

 3-1.巨大な樋門の建設

 樋門は洪水時にゲートを閉じると、本来の利水・治水の用途を問わず、堤防の替りとなる構造物だ。
 木製のまま腐朽が進行してしまうと施設の全壊だけでは済まず、最悪の場合、周辺の堤防の
 決壊にもつながり、大惨事を引き起こすことになる。創成期に建設された煉瓦樋門の特徴は
 概ね巨大だったことだ。一般的に土木構造物の規模は設計・建設技術等が習熟するにつれ、
 巨大化していくものだと思うのだが、埼玉県の煉瓦樋門では技術的に未熟であったはずの
 創成期から既に、巨大な樋門が建設されている。使用煉瓦数を施設規模の大小の目安とすると、
  柴山伏越(1887年、白岡町〜蓮田市、23万個、元荒川、取水、全面改築)、
  津田合併門樋(1891年、大里町、22万個、荒川、排水、現存せず)、
  羽生領用水元圦(1891年、羽生市、18万個、利根川、取水、現存せず)、
  台山門樋(1891年、吉見町、19万個、市野川、排水、全面改築)、
  庄内古川門樋(1891年、吉川市、40万個、江戸川、排水、現存せず)、
  文覚門樋(1893年、吉見町、26万個、文覚川、排水、煉瓦残存)、
  葛西用水元圦(1894年、羽生市、37万個、利根川、取水、現存せず)。
 どれも現存最大である北河原用水元圦(1903年、行田市、19万個)と同等かそれ以上の
 煉瓦数である。明治30年(1897)以降に建設された樋門では、煉瓦数が20万個を超える物は意外に少ない。
 高須賀門樋(1901年、幸手市、23万個、島川)、見沼代用水元圦(1906年、行田市、66万個、利根川)、
 稲子圦(1907年、羽生市、21万個、利根川)、瓦葺掛樋(1908年、蓮田市〜上尾市、25万個、
 綾瀬川〜見沼代用水)、大吉伏越(1909年、越谷市、38万個、新方川〜葛西用水)である。

 排水施設の場合、既設の複数の樋門を合併して新たに1基を建造した例が多い。よって施設が
 巨大化したのも創成期の特徴である。津田合併門樋、台山門樋、文覚門樋がこれに相当する。
 なかでも吉見領(1896年までは横見郡)は、市野川に設けられていた木造の5樋門を1891年から
 1893年までのわずか2年間のうちに、台山門樋と文覚門樋の2樋門へと改造している。
 興味深いことに、台山門樋と文覚門樋は後に統合され、現在は排水機場を伴った吉見樋管となっている。
 点在していた樋門を一箇所にまとめる工事では、必然的に新たな排水路の路線開削が必要となり、
 単純に木造樋門を煉瓦で改良するだけでは済まないので、全体の建設費は高くなる。
 また、樋門の統合によって新樋門にかかわる関係村町の区域が広がり、樋門からの排水量も多大と
 なるので、悪水の排除方法や樋門の操作に関して、新たな紛争が生じる可能性もあったであろう。
 したがって、紛争の防止には、種々の規約などの制定が必要だっただろうし、紛争が
 発生した場合、樋門の管理者(主に郡長)には統率や調停の能力が要求されたと思われる。

 注目すべきは1891年に建設された庄内古川門樋が、1906年に見沼代用水元圦が竣工するまで、
 実に15年間も埼玉県最大規模の煉瓦樋門だったことだ。庄内古川門樋の竣工記念碑
 宇和田公園(幸手市上宇和田、権現堂川の旧堤防を改修して公園として整備)に建っている。
 一方、創成期の煉瓦樋門では竣工後に樋管の一部が破損する問題も露見している。
 例えば明治23年(1890)6月竣工の木津内樋管(杉戸町、江戸川、11万個)では、竣工の翌年に
 樋管中央部に突然、損所が発生し、応急処置としてセメントを充填して補修したとの記録が
 残っている(埼玉県行政文書 明1779-62)。この樋管破損は施工の不慣れが原因だと思われる。
 木津内樋管は当面は現状を維持しながら凌いでいたようだが、
 後に明治29年と明治33年には本格的な補修工事が実施されている。

 3-2.転換期となった明治23年の洪水

 明治20年(1887)に備前渠圦樋(埼玉県初の煉瓦樋門)が建設されたのを契機として、
 創成期からただちに煉瓦樋門の建設ブームが到来したわけではない。明治23年(1890)までの
 煉瓦樋門の累加建設数はわずかに7基であった。年間の平均建設数は2基に満たない。
 ところが明治23年8月には埼玉県全域で大規模な洪水が発生し、既存の木造樋門の多くが破壊され、
 翌年以降、その災害復旧工事としての煉瓦造樋門の建設が増えている。明治24年に煉瓦樋門の
 建設数が12基へと急増しているのは、このためである(→煉瓦樋門の建設年別分布)。
 各町村が被災した樋門の復旧を煉瓦造で希望したのは、災害復旧扱いなので補助金が得やすかったことも
 あるが、わずか7基とはいえ既に煉瓦樋門の建設実績があったことが大きかったと思われる。
 当時の村は自村だけではなく、他村の治水や利水の動向にまで常に目を光らせていたこと、
 特に他村の煉瓦造の樋門については、強い関心と興味を持っていたことが想像される。
 隣村が建設した煉瓦樋門に対しては、羨望と共にある種の脅威を感じたはずである。
 とりわけ、それが治水・排水施設だった場合、隣村の樋門破壊は皆無となり、それに伴って堤防決壊も
 減少するので、そのしわ寄せが自村に波及してくる可能性が高くなる。→領という水防共同体
 煉瓦樋門の建設申請書には、その建設理由として定型文のように”腐朽大破した木造樋門を
 伏せ換え”とあるが、心情的には”隣の村が煉瓦樋門を建設したから”だったに違いない。
 村や領の治水強化は、周辺の村や領での新たな治水強化へと連鎖していったのである。

 明治24年までに、煉瓦樋門は児玉郡、大里郡、北埼玉郡、南埼玉郡、北葛飾郡、北足立郡、比企郡に
 建設されている(ただし、後に他の郡へ編入された旧郡、例えば横見郡は比企郡、幡羅郡は大里郡へ集計)。
 煉瓦樋門は最終的に秩父郡には建設されなかったので、備前渠圦樋の竣工からわずか4年の間に
 入間郡を除いた、全ての郡に煉瓦樋門が建設されたことになる。これら約20基は埼玉県の東半分、
 しかも大河川の周辺部に分布していた。つまり県境であり、北は利根川(群馬県との境)、
 南は荒川(東京都との境)、東は江戸川(千葉県との境)、西側だけは荒川の沿線が境界となっていた。
 これら3河川から離れた、いわば内陸部に建設されたのは柴山伏越(見沼代用水、白岡町〜蓮田市)と
 谷古田領元圦(葛西用水、越谷市)のみである。不思議なことに、入間郡での建設開始は非常に遅く、
 最初に建設された煉瓦樋門は、明治31年(1898)竣工の大小合併門樋(志木市、新河岸川)である。
 明治30年頃の入間郡は耕地の水田化率が秩父郡、児玉郡に次いで低く、水田化率が高い北葛飾郡や
 南北埼玉郡に比べると、その半分以下であった(埼玉県統計書などによる)。

 もう一つ注目すべきことは、大規模な災害復旧工事のさいに、入札情報の漏洩や談合などの
 不正入札が露見した点である。明治24年に建設された煉瓦樋門、釘無樋管(川島町、煉瓦数約17万個)と
 庄内古川門樋(吉川市、煉瓦数約40万個)の工事に絡んで、不正があったようで、
 埼玉平民雑誌に収賄疑惑が報じられている(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.71)
 埼玉県は工事の適正化と公正化を図るために、明治21年(1887)に土木工事入札請負規則を制定しているが、
 入札に関しては官民の癒着が少なからずあったようで、県の担当係官が落札予定金額を漏洩したとの
 疑惑も多かった。その後、明治31年に入札請負規則は改定され、随意契約請負方式と競争入札への
 参加資格制限の条項が設けられている。一般競争入札による弊害は、工事遂行能力のない業者でも
 最低価格を投じれば落札できてしまうことだが、それを排除するために参加資格を設定し、指名競争入札へと
 移行したことになる。しかし、入札制度の問題点を根本的に解決したものではない。
 埼玉県の煉瓦樋門建設史において、明治23年の洪水は転換期ともいえる重要な出来事であった。

 3-3.近代化を象徴する土木構造物が農村地帯に出現

 創成期の樋門は建材が煉瓦であるだけでなく、通水断面の形式は26基すべてが円型または
 アーチ型であり、日本古来の圦樋とは外観だけでなく構造まで異なり、まさに洋風の河川構造物であった。
 例えば、使用建材(木→煉瓦、セメント)、通水断面(箱型→アーチ型)、構造形式(柱梁→壁)である。
 そして、煉瓦樋門にはこれまで見たこともない、鋸状や歯状、塔などの装飾が施されていた。
 明治24年頃には蘭人工師(オランダ人技術者)の大半は既に帰国していたので(残っていたのは
 デ・レイケのみ)、煉瓦樋門の設計は若い日本人技術者によっておこなわれたと思われる。
 埼玉県は洋風の土木工事に対応するために、明治10年代から若手技術者の育成制度を設けていたが、
 この成果が煉瓦樋門の建設では大いに発揮されたわけである(→注4)。

 なお、煉瓦樋門が建設されたのは都市部ではなく、主に農村地帯であった。それも村境、群境が多く、
 現在でもどちらかと言えば辺鄙な所である。町や村の発展を象徴するような場所とは言い難い。
 しかし、明治20年代前半の埼玉県では都市部ですら、煉瓦造りの建築や構造物は非常に珍しく、
 鉄道の橋梁くらいしか存在しなかったはずなので、煉瓦と鉄のゲートで構築された樋門は、
 その壮観さと先進性から村の自慢であったに違いない。村の交通手段は自転車すら無く、
 すべて徒歩に頼っていた時代である。自転車の価格は小学校教員の月給と同じ位だったので、
 一般人では購入不可能であり、自転車は村に数台しかない希少な存在だった。
 一般世帯に自転車が普及し始めるのは、大正10年(1921)頃からである。
 近代化を象徴する土木構造物は、まず最初に農村地帯に出現したのであった。

 当時、埼玉県の煉瓦樋門の存在は、土木界では全国的にも有名だったようである。
 明治29年(1896)に愛知県が発行した樋管の設計基準書:改良樋管設計書(埼玉県行政文書 明2437-18)には、
 他県の樋管建造例として、岐阜、三重、徳島、熊本、埼玉の5県の仕様書と設計図が紹介されている。
 埼玉県からは大前門樋(1894年、吉見町、全面改築)、文覚門樋、葛西用水元圦が選ばれている。

4.最盛期の煉瓦樋門の特徴

 最盛期である1894〜1905年(明治27〜38年)には、およそ150基(総建設数の約60%、
 平均すると1年間に約13基のペース)が建設された(→文献1と筆者の調査結果から集計)。
 1894年(明治27年)を最盛期の始まりとしたのは、この年を境に煉瓦樋門の建造数が恒常的に
 増加し始めたという歴史的事実もさることながら、煉瓦樋門に対する行政側の支援体制と
 様々な補助金制度が確立し始めたからである。社会背景(国策を反映した)に影響されつつも、
 治水・利水に必要であるからこそ、煉瓦樋門の建設数は増加したのである。
 景気の動向をかんがみて、好況だと煉瓦樋門の建設をやめて、不況だと建設するといったことは
 なかった(→煉瓦樋門の建設年別分布)。一方、最盛期から煉瓦樋門工事の主導権は、それまでの
 民間主体から次第に官主体へと移行している(→注3補)。

 4-1.行政側の支援体制の確立

 明治23年洪水の復旧工事などを経て、明治26年(1893)までに埼玉県内には、26基の煉瓦樋門が
 建設されている。洋式の工事に不慣れなので試行錯誤も多かっただろうが、それらの建設に伴う経験と
 実績は確実に技術力として蓄積されていたと思われる。埼玉県の内務部第二課(土木課に相当)は、
 1894年から1895年にかけて、煉瓦樋門建設に関する設計基準書を作成した形跡が確認できる。
 今後、建設数が急増するであろう煉瓦樋門について、その使用材料の規定や施工方法の標準を
 明文化したのである。この基準書は文書の形としては残されていないが(未発見)、出典は同書からだと
 思われる、基礎工の施工方法、モルタルやコンクリートの配合方式、使用すべき煉瓦の等級、
 施工時の煉瓦積みの注意事項などが、後年に建設された樋門の仕様書で随所に見られる。

 また、1894年には埼玉県は独自にセメントの強度試験方法を確立した。
 これは翌年に施工された〆切掛渡井に即座に適用されている。セメントはモルタルやコンクリートを
 配合するさいの主材料であり、特にモルタルは煉瓦の目地として接着剤の役目を果たす重要な材料である。
 埼玉県独自の試験方法が導入されたのは、当時まだ日本国内では工業規格としてセメントの
 試験方法が公布されていなかったからである。埼玉県独自の規格とはいえ、強度試験の方法が
 確立されたことによって、一定水準以上の性能を持つセメントが、煉瓦樋門の建設に使われるようになり、
 それは同時に煉瓦樋門の土木構造物としての信頼性を保障する要因ともなった。
 樋門の建設者側にとっては、建設工事に使うセメントの選択肢(購入先と価格)も増えたと思われる。

 なお、煉瓦樋門の設計や工事状態の確認のために、町村や水利組合は埼玉県に対して、技術者の
 派遣を依頼することが多かった→注4。現代では考えられないが、当時は県の技術者が市町村の
 土木工事の設計や工事監督を代行(当然のことながら建設現場に常駐することはない)していたのである。
 技術者派遣請願を受けて、埼玉県知事の命の下、県からは技術者(主に技手、技師よりも下の役職)が
 現地へ派遣された。この復命書(県から派遣された技術者が現地踏査や工事監督等を履行した報告書)が
 埼玉県立文書館には、行政文書として数多く保存されている。

 ここで、当時の埼玉県内の社会動向に目をやると(後述することになるが)、明治28年(1895)には
 埼玉県の町村土木補助工事の規定が改訂され、煉瓦を使った樋門を建設するさいには木造に比べて
 補助金の交付率が高くなっている(総工事費に対して煉瓦が4割〜6割、木製は3割〜5割の補助)。
 ただし、対象となるのは主要23河川の堤防に設ける樋管のみであった。明治10年代には
 樋門建設への補助金は法制上は人夫賃金のみだったから、情勢の変化に即した法改正が
 展開されたことがわかる。

 町村土木補助工事はその申請数が多かった。明治35年(1902)の記録だが、町村土木補助工事の
 申請数は510件、金額にして約16万3000円、査定の結果、補助の対象としたのが259件、
 金額にして約13万7000円である(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.1110)
 ただし、259件は県が補助対象として認可したものであり、県議会でそれらの工事および予算が
 承認されるとは限らない。承認されたものは翌年の明治36年度に工事が実施された。
 明治36年には埼玉県史上最大の年間21基の煉瓦樋門が建設されている。
 町村土木補助工事の件数の約1割が煉瓦樋門だったことになる。当時の町村土木補助費は
 道路橋梁費補助と治水堤防費補助に大別されていた。治水堤防費補助の内訳は堤防費、樋管費、
 樋管及水路費だった。煉瓦樋門はおおむね、治水堤防費補助の樋管費に含まれていた。
 明治35年度の町村土木補助費は道路橋梁費が55,386円(43,408円、風水害臨時予算:11,978円)、
 治水堤防費が91,483円(21,688円、風水害臨時予算:69,795円)の合計146,869円であり、
 治水堤防費は全体の62%を占めていた。治水堤防費の詳細は堤防費が33,310円、樋管費が34,914円、
 樋管及水路費が23,259円だった。町村土木補助費全体に占める樋管費の割合は24%である。
 上述したように、町村土木補助工事に占める煉瓦樋門の割合は件数では約10%だが、
 金額では24%となっている。この数字は煉瓦樋門への補助率が高かったことを裏付けている。

 行政側の支援体制が確立した頃の埼玉県知事は、第7代 千家尊福である。
 明治期の埼玉県は知事と県議会が県政の方針をめぐって対立することが多く、知事不信任案が
 度々提出され、知事の任期がわずか1年だった例が非常に多い。第3代 吉田清英が就任中の
 明治19年(1886)に呼称が県令から県知事に変更となったのだが、その時から明治40年(1907)に
 就任した第14代 島田剛太郎までの21年の間に、実に11人もの県知事が就任している。
 そのような状況下だが、千家尊福の就任期間は明治27年(1894)1月から明治30年(1897)4月までの
 3年間に及んでいるので、彼は比較的、県政をうまくまとめたといえる。これと似た傾向は
 第12代の木下周一の時にも見られる。彼が知事に就任していたのは明治35年(1902)2月から
 明治38年(1905)9月までだが、この時期は埼玉県の煉瓦樋門建設の最盛期だった。
 なお、千家尊福は静岡県知事を経て、明治31年には東京府知事に就任するが、在職中の
 明治36年には東上鉄道設立の発起人に名を連ねている。東上鉄道とは後の東武東上線である。

 4-2.黒い焼過煉瓦から赤煉瓦への移行

 明治28年頃からは樋門の表積みの煉瓦が、それまでの黒い焼過煉瓦から赤煉瓦へと
 突然かつ急激に転換している。これは市場の煉瓦供給能力の問題を解決したものであり、
 中小工場が手作業で製造するために、供給量が不足しがちな焼過煉瓦から機械式設備を
 備えた大工場が製造する供給量が豊富な赤煉瓦への移行といえる。明治20年代後半に
 焼過煉瓦を大量に入手することが、いかに困難であったかは、文覚門樋(1893年、文覚川、吉見町、
 総煉瓦数26万個)の建設記録に残されている(埼玉県行政文書 明1792-15)
 結局、水利組合が購入したのは赤煉瓦だったが、それは埼玉県の技術者によって材料試験が
 実施され、建材として問題が無いことが明言されている。焼過煉瓦は強度・耐食性・耐水性に
 優れるとして、樋門の表面の建材として推奨されていたのだが、その必要数は樋門全体の煉瓦数の
 2割程度と少ない。それでも焼過煉瓦は市場の供給能力が不足していたのである。
 そのような状況をふまえ、埼玉県の内務部では”煉瓦樋門の建材として、今後は赤煉瓦を
 使用することも可”との内部通達があったと想像できる。
 なお、赤煉瓦が使われている埼玉県で現存最古の樋門は、四箇村水閘(1896年、中川、春日部市)である。
 四箇村水閘が竣工した明示29年は河川法が交付された年である。河川法が制定されるに至った大きな
 要因の一つに国会議員:湯本義憲の行なった数々の建議が挙げられる(→利根川百年史、関東地方建設局、p.488-495
 奇しくも湯本義憲は埼玉県の埼玉村(正確には小針村)の出身である。地元の前玉神社(さきたま)には
 湯本治水翁頌徳碑(題字は内閣総理大臣、清浦奎吾)が建てられている。

 樋門の建材が焼過煉瓦から赤煉瓦へ移行するのと時期を同じくして、煉瓦の質だけでなく形状にも変化が
 生じてくる。特別鋳型煉瓦(直方体以外の特別の形を指定し注文した煉瓦。アーチリング、面壁と翼壁の
 結合部などに使われた)の使用率が減少し始める。これは工場へ特注した煉瓦でなく、現場で加工した煉瓦で
 代用することが多くなったためである。→異形煉瓦と加工煉瓦
 しかし、明治28年頃まで樋門に黒い焼過煉瓦が採用されていた理由(当然、埼玉県からの指定や推奨が
 大きく作用していただろう)がはっきりしない。埼玉県には地元に煉瓦製造会社としては、日本屈指の
 規模を誇る日本煉瓦製造が存在していて、その煉瓦の質は高かったにもかかわらずだ。
 推測だが、創設間もない日本煉瓦製造は官公庁からの大型受注の煉瓦を納品するのに精一杯で、
 地元の市場へ煉瓦を供給するだけの余裕がなかったのではないだろうか。
 ちなみに、日本煉瓦製造が工場から日本鉄道(現.JR高崎線)の深谷駅まで専用線で結び、
 煉瓦の大量輸送を開始したのが明治28年である。
 明治28年は煉瓦樋門の新しい形式:箱型が出現した年でもある。埼玉県で最初に造られた箱型門は、
 四王天圦(小山川、岡部町、1895)だ。箱型樋門という構造形式は規模が大きい樋門の建設には
 不向きであり、対象は中小樋門に限られるが、施工性と経済性が良く、工期も大幅に短縮できる。

 以上をまとめると、設計基準書の成立、セメントの強度試験方法の確立、赤煉瓦への移行、
 補助金交付額の高率化、箱型樋門の出現といった煉瓦樋門を建設するさいの重要な要素が
 出揃い、かつ不備だった点は解消されている。行政側の支援体制と建設材料市場の状況が
 整ったことによって、明治28年頃に煉瓦樋門の量産体制が確立したといえる。

 4-3.箱型・円形樋門の出現と同一地区での大量建設

 最盛期で特筆すべきは煉瓦樋門の工事期間の短さである。中小規模の樋門が多かったせいもあるが、
 どれも数ヶ月という驚くべき早さで竣工している(→注3)。
 年度別の建設数は1900年までは約10基と横ばいだが、1901〜1903年には、19基、15基、21基と急増している。
 1903年の年間建設数21基は、埼玉県の煉瓦樋門建設史上の最多だったが、この年の建設地には
 偏りがあり、行田市と東松山市の周辺に集中していた。行田市周辺(熊谷市、吹上町、騎西町を含む)が9基、
 東松山市周辺(吉見町、川島町を含む)が9基であり、合計18基は、この年の総建設数の86%を占めている。

 建設数急増の原因は一度に数基をまとめて建設する地区(あるいは水利組合)が出現してきたことにある。
 それまでは一度に建設するのは、せいぜい2基であったが、1901年の行田市皿尾地区、
 1903年の行田市小針地区、同年の東松山市のように一度に4〜6基を建設した例が見られる。
 これには煉瓦樋門の新形式として、箱型と円形(土管)が出現したことが少なからず関係している。
 煉瓦樋門の基本的な形式はアーチ型であり、これは煉瓦樋門の創成期から終焉まで採用されたが、
 建設に若干、手間を要するのと小規模な樋門の建造には不向きな点が欠点であった。
 そこで増大する樋門建設の需要を満たすために、施工が容易な形式(箱型や円形の通水断面)の樋門が
 発案されたのである。ただし、厳密に云うと円形(土管)は復活である。明治23年(1890)に既に
 蔵田圦樋(中川、春日部市)が
建設されているが、それ以降は明治31年の田中樋管(都幾川、東松山市)が
 建設されるまで、ほとんど建設実績がなかったのである。

 箱型と円形はアーチ型に比べ、小規模な煉瓦樋門の建設に向いていて、しかも建設費が少なくて済む。
 とりわけ円形という形式は、樋管本体は既製品である土管であり、煉瓦造りの部位は面壁と
 翼壁(堤防の護岸を兼ねる)しかなく、施工が容易であったと思われる。同じくらいの規模の
 アーチ型に比べれば円形は、建設のさいの煉瓦積の工数は極端に少なくなる(→補足1)。
 例えば、1903年に東松山市に建設された5基の内訳は、4基が箱型、1基が円形であり、
 もはやアーチ型は建設されていない。
 一度に数基をまとめて建設する場合、省力化のために同一設計の樋門が建設されることもあった。
 1901年に行田市に建設された松原堰と堂前堰、1903年の源兵衛門樋(行田市)と落合門樋(騎西町)、
 1903年に東松山市に建設された高畑樋管と奈目曽樋管は同一設計の樋門であり、寸法・形状が
 まったく同じである(→煉瓦樋門の市町村別分布)。もっとも松原堰と堂前堰の場合、施行方法に
 歴然とした差があり、とても同一設計に見えない。なお、1900年に羽生市に建設された宮田落伏越と
 岩瀬悪水圦もまったく同じ寸法・形状である。これらは葛西用水路の下を横断する伏越であり、
 わずか200mの区間に2基が建設された。

 なお、最盛期に建設された煉瓦樋門の造形は、創成期に比べ、装飾的要素の少ない形態が主流だった。
 しかし、新たな潮流として(主流になるには至らなかったが)、曲面を導入した新しい造形の
 煉瓦樋門が現れている。施工に手間のかかる形式の樋門が、施工の省力化をめざした箱型の出現後に
 造られ始めたのは興味深い。煉瓦で曲面施工された樋門は、それまでの平面で構成された定型的な
 デザインを刷新するものだった。→曲面施工
 翼壁に曲面を導入したデザインの樋門(コンクリート製)は、昭和初期(1930年頃)に埼玉県でも
 流行したが、実は明治30年代に既にその萌芽があったのである。→曲面を持つRC樋門

 4-4.農業用水の取水堰の出現

 最盛期には多種多様な水門(中小規模が多い)が建設されたが、農業用水の取水堰の建設開始は
 意外に遅く、明治30年(1897)建設の旧・矢島堰(深谷市、備前渠用水)が埼玉県で最初の堰である。
 旧・矢島堰が建設されるまでに、既に埼玉県内には60基近くもの煉瓦樋門が造られている。
 埼玉県の煉瓦堰は一級河川の支川クラスの排水河川(用排水兼用)に設けられたものが多い。
 利根川水系と荒川水系での事例は少なく、建設地が中川水系に集中していたのが特徴である。
 一般的に施設の規模は小さく、ゲート数も最大で5門程度であった。埼玉県史上最大の煉瓦堰は、
 元荒川に設けられた末田須賀堰(岩槻市、明治38年、10門)だが、これは突出した規模である。
 取水堰の構造形式は箱型樋門とほとんど同じであり、建設開始時期もほぼ重なる点が興味深い。
 堰に設けられたゲートは木製であり、1連の場合はスルースゲート(引き上げ式)が採用されることも
 あったが、多連の場合は角落し(はめ込み式)が主流だった。巻き上げ式のゲート(鋼製)が
 取水堰に設置された例はないようだ。→ゲートの分類

 埼玉県に建設された煉瓦堰の形式は堰枠(可動堰、自在堰、ゲート付)のみであり、筆者の知る限り、
 固定堰(洗い堰)の建設事例はない。この理由は固定堰には原則としてゲートは設けられないこと、
 そのため堰高も低いことなどから、あえて煉瓦造としなくても在来の様式である石積みや蛇籠でも、
 強度的には問題がなかったからだと思われる。荒川水系の都幾川や越辺川には石積み(蛇籠)の
 形態を髣髴とさせる固定堰(斜め堰)が今も数多くあり、現役の施設である。
 堰枠ではゲートを操作することによって、河川や用水路の水流を堰き止め、用水の取水に必要な水位を
 確保した。このような堰上げによる用水の取水方式を、当時は逆水とも称した。堰のゲートは水位を、
 高くするための物であり、その機能は樋門(取水、排水を問わず)とは、根本的に異なるのである。
 なお、用水不足が深刻な場合には、逆水留(洪水の逆流防止)である排水樋門のゲートを、
 かんがい期に常時閉鎖し、本来の排水路を用水路として使い、農業用水の取水に使うこともあった。
 この場合も俗称としては、逆水と呼ぶことがあったので紛らわしい。

 4-5.耕地整理事業と煉瓦樋門

 最盛期の社会的背景としては、埼玉県では明治28年(1895)に町村土木補助工事の規定が改訂され、
 不朽材料(煉瓦)を用いた樋門を建設する場合には、工事費への補助額が高率になっている。
 また、補助規定の改訂に加え、耕地整理法の公布(1899年)が煉瓦樋門の急増に大きく影響していると
 思われる。同法に基づき、埼玉県では耕地整理事業に対して、明治34年(1901)から補助金を交付している。
 1900年前後に実施された初期の耕地整理事業は試験的な要素も多く、概ね事業の規模は小さい。
 規模が小さいために、地主数人の同意だけで容易に実施できたともいえる。
 例えば、北埼玉郡太田村(現在の行田市小針周辺)の耕地整理などがこれに相当する。
 明治期の耕地整理事業では、農地の区画整理よりも用排水施設の整備、特に湿田の乾田化に
 対して重点が置かれていたようである。排水改良のために用悪水路の改修がおこなわれると、
 水路の最下流に設けられた排水樋門の改築が必要となることもある。また、排水不良が改善され、
 水はけが良くなることは、往々にして用水量の増大にもつながる。
 これを機会に老朽化した木造の取水施設を、煉瓦で改良しようという動きも出てくる。

 ただし、耕地整理事業に付随しての煉瓦樋門の建設は、上下流間の紛争を誘発した事例も多く、
 特に中川水系において顕著であった。例えば、宮地堰(元荒川、鴻巣市、1901年)、
 小竹堰(元荒川、菖蒲町、1909年)、大吉伏越(新方川〜逆川、越谷市、1910年)、
 小針落伏越(小針落〜忍川、行田市〜川里町、1914年)などである。
 耕地整理によって上流側地区の排水改良がなされると、必然的に下流側地区への悪水の
 流入量が増大する。しかし、下流側は上流側の思うままには悪水を流下させなかったのである。
 恒常的な排水不良に悩まされた、中川水系にとって、他地区から流入して来る悪水量が
 増えることは、紛争が勃発するほどの死活問題であった。

 このように耕地整理には旧来の水利秩序を崩壊させる一面があった。
 なお、耕地整理の是非を巡って事態が紛糾した挙句に、結局、他地区で耕地整理が実施され、
 その悪水を受け入れざるを得なかった地区が、すぐさま耕地整理を展開した例も多い。
 例えば足立郡鴻巣町・常光村の耕地整理(明治34年竣工)後の常光村・加納村の耕地整理、
 北埼玉郡太田村の耕地整理(明治34年開始)後の屈巣村・広田村の耕地整理(明治35年開始)などである。
 こうして悪水はその量が増え、さらに下流の地区へと流されたのである。
 ともかく、明治時代の埼玉県では耕地整理が盛んに行われ、大正2年(1913)の時点では、
 工事完了面積の11,200haは全国四位の規模だったという(埼玉県行政史 第二巻、p.136)
 大正時代になり、埼玉県内で大規模な耕地整理事業が展開されるようになると、悪水量の増大は
 無視できない問題となり、利根川・荒川の治水問題を絡め、既存の水利体系・排水体系の根本的な
 矛盾が露呈し始める。そして、排水幹線の抜本的な改良策として、大正末期から昭和初期にかけて
 埼玉県による13河川の改修が実施されることになる。

 4-6.排水機場の出現

 明治期の排水樋門は自然排水方式が主流であり、ゲートを閉じることで外水(河川洪水)の流入は
 防げたが、ゲートを閉じている間は内水(住宅地側の洪水)の排除は不可能であった。
 本川からの洪水の逆流を食いとめる代償として、住宅地側では支川の氾濫などによる湛水が
 余儀なくされたのである。全面的に水害を防御するのではなく、多少の水害は受容しようという発想である。
 この考え方自体は近世から何ら変化していない。しかし何も対策をしないで、洪水をただ傍観して
 いたのではなく、洪水常襲地域では歴史的に湛水被害を最小化するような防御システムが形成されていた。
 まず居住形態による防御である。そもそも古くからの民家は長年の経験から、洪水被害を受けにくい、
 自然堤防などの微高地に建てられた。屋敷内には土を高く盛った上に、水塚(水屋)と
 呼ばれる非常時用の蔵(食料などを貯蔵しておく)が設けられ、その軒には揚舟(水害予備船)が
 括り付けられていた。これらは水害に対する古来からの自己防衛手段である。

 次に人員動員のネットワークが存在した。水害予防組合(水防団の前身)などが組織されていて、
 出水時には地元から人が出て、水防活動に従事した。彼らは地元の河川の特性を熟知していた。
 排水樋門にはゲート操作の専任者が置かれ、長年の経験と勘から適切なタイミング(湛水被害を
 最小化にする)で、ゲートは閉鎖された。また、ゲート閉鎖後の対処方法について、周辺地域では相互に
 取り決めや協定書を交わし、排水路へ流入する支川の水量の調節をおこなっていた。
 これは湛水地域を一箇所に集中させずに、分散させる効果がある。
 施設面では本川へ合流する支川の改良がおこなわれた。堤防がない場合は新たに築造し、
 堤防がある場合は嵩上げをおこない、支川の河道貯留量を増やして氾濫を防いでいた。
 応急対策として支川の堤防に土のう(土俵)を積んで、嵩上げすることもあった。
 また、本川と支川の合流地点の近傍には、遊水地に相当する空間が設けられ、洪水の一部が一時的に
 貯留されることが多かったのだが、産業構造や社会構造が激変するにつれ、そのような土地利用形態は
 許容されなくなり、また遊水地の効果は低減していったようである。

 このため明治40年(1907)頃から、内水の排除が可能である強制排水(ポンプ場)方式の樋門が、
 中川水系(庄内古川沿岸)を中心に建設されている。当時の庄内古川は江戸川の支川であり、
 周辺の地域は江戸川の高水位の影響下にあり、慢性的な排水不良のみならず、江戸川からの
 洪水の逆流にも悩まされていた(→煉瓦樋門の水系別分布)。つまりポンプが設置され、強制排水が
 可能になったとはいえ、排水先である庄内古川は流域からの排水量を安全に流下できる条件を
 満たしていたとは言い難かった。

 強制排水方式の樋門が出現する数年前、明治37年の埼玉県議会では、勧業補助費として
 耕地整理事業に関連して排水器械を据え付ける場合には、高額の補助を与えるという案が可決されている。
 これは耕地整理の前提として、耕地の湛水排除が必要とされていたからであろう。
 強制排水方式の樋門は現存する物はないが、遺構としては下柳永沼悪水路普通水利組合 排水機場(1907年、
 庄和町、中川)と島中領排水機場(1909年、幸手市、権現堂川)が残っている。共に耕地整理組合ではなく
 水利組合によって設置された。これらは機械排水による機場の遺構として非常に貴重な物である。
 特に下柳永沼悪水路の遺構には、排水機場の基礎部分と思われる赤煉瓦造りの土台が現存する。
 使われている煉瓦には金町煉瓦の刻印が確認でき、埼玉県の煉瓦樋門としては
 日本煉瓦製造以外の煉瓦が使われた珍しい事例の一つである。
 しかし、中川水系の排水機場は稼動した期間が短かった。排水施設としての寿命はわずかに20年間である。
 内務省直轄による庄内古川の改修工事が昭和3年(1928)に完了すると、周辺地域の排水能力は
 かなり向上したようであり、その効果として中川への自然排水が可能となった。そのため、もはや排水機場を
 存続させる必要がなくなったので、庄内古川に9箇所あった旧排水機場は全てが撤去されている。
 埼玉県の煉瓦樋門建設史上、一番最後に出現し、一番最初に自然消滅したのが排水機場である。

5.煉瓦樋門の終焉

 5-1.コンクリート樋門の台頭

 埼玉県ではコンクリート製の樋門の建設は、明治40年(1907)頃から始まっていたようである。
 桶川市の備前堤(綾瀬川を元荒川から締め切った堤防)には、明治45年竣工のコンクリート製の
 樋門が2基現存している。それらは形態的には煉瓦樋門と大差なく、建築材料である煉瓦が
 コンクリートへ置き換わっただけ(しかも無筋コンクリート)の古典的なものだが、
 竣功当時は新しい時代の到来を象徴したのに違いない。

 明治時代には隆盛を誇った煉瓦樋門ではあるが、新しい材料:コンクリートの出現によって、
 大正元年(1912)以降の建設数は激減する。昭和初期までの約15年間の煉瓦樋門の建設数は、
 補修工事を含めても30基程度である。大正6年(1917)に煉瓦樋門の建設は終焉を迎えて
 いるので(→5-2)、事実上、大正時代の煉瓦樋門の建設数は19基となる。
 最盛期である明治36年(1903)には年間21基が建設されたので、これに比べれば大正時代の
 年間平均建設数は、もはやピーク時の1/10しかない。セメントの低廉化などにより、コンクリート樋門の方が
 煉瓦樋門よりも経済性の面で有利となったこと、コンクリート樋門に比べて、煉瓦樋門は建設工事に
 手間がかかることなどが、建設数が大きく減少した理由であろう。煉瓦樋門では煉瓦を一個づつ積んで、
 本体を構築しなければならないのに対し、コンクリート樋門は型枠を組んで、コンクリートを
 流し込むだけで本体の工事が完了する。

 さらに関東大震災(1923年)後の[煉瓦は地震に弱い]という根拠無き風評が、決定的な追い討ちをかける。
 しかし、煉瓦樋門は一般建築物(高さがあり、しかも躯体の大部分が地上に露出しているので
 重力の影響をもろに受ける)とは異なり、地震に弱い構造物ではない。
 構造物の規模と耐震強度の関係については、埼玉県に建設されたような中小規模の樋門では、
 その材料が煉瓦であろうとコンクリートだろうと大差はない。
 事実、関東大震災では埼玉県の煉瓦樋門は、一基たりとも完全倒壊していない(→注5)。
 付言すれば、日本最大の煉瓦建築物である東京駅は、関東大震災と東京大空襲という大きな災禍にも、
 びくともしなかった(もっとも東京駅は鉄骨煉瓦造ではあるが)。
 関東大震災で倒壊した一般建築物の多くは、煉瓦の目地材にセメントではなく漆喰を使った安普請だった。

 コンクリート製の樋門の出現と時期を同じくして、埼玉県では産業構造に大きな変化が現れている。
 明治時代中期までは埼玉県の主な産業は農業であり、例えば明治33年(1900)には産業全体に
 占める農業の生産高は64%、工業の生産高は36%だった。それが大正14年(1925)には立場が逆転し、
 農業が40%、工業が60%となっている(→埼玉県史 通史編6、p.114)。埼玉県では明治時代末期から近代産業が
 急激に発展し、大正時代は産業の中心が農業から工業へ完全に移行した時期である。

 5-2.擬・煉瓦樋門の存在

 大正期以降は時代の潮流として、土木建材の主流は煉瓦からコンクリートへと移行しており、
 あえて樋門の構造形式に、煉瓦造りを選定する理由は存在しなかった。
 例えば埼玉県で大正中期から昭和初期にかけて建設された煉瓦樋門は、内部構造は
 コンクリート造りであり、煉瓦は外装として貼られているにすぎない。
 もともとは目地材だったセメントに主役の座を奪われ、煉瓦は装飾材に成り下がってしまうのである。
 筆者の知る限り、純粋な煉瓦造り樋門で埼玉県最後のものは、大正6年(1917)に
 竣工した男沼樋門(妻沼町、利根川)である。これは使用煉瓦数が約15万個の比較的大規模な樋門で
 通水断面はアーチ型、石材による豊かな装飾が施されていた。
 皮肉なことに埼玉県では、関東大震災が発生した1923年には日本煉瓦製造(株)の系列会社として
 秩父セメントが創業している。かつての煉瓦の供給元もセメント(コンクリート)へと移行を開始している。

 土木史では概括的に煉瓦造の樋門は、樋門の構造材が木または石からコンクリートへと
 移行するまでの過渡期の構造物とされている。しかし厳密に区分すると、煉瓦からコンクリートへ
 完全に移行する途中には、上述した様な煉瓦を外装材とした擬・煉瓦樋門が存在したのである。
 さらに昭和初期に建設されたコンクリート樋門では、石材を使って笠石、隅石などの装飾が
 施されたものも現存している。例えば中川にそのような古い水門が多い。
 そして、石材による装飾も次第に行われなくなり、最後はコンクリートの表面にアーチリングや
 石積み(布積み)を模した装飾が施されたコンクリート樋門が現れる。例えば長野落伏越(1933年、
 長野落〜旧忍川、行田市〜川里町)、沈砂池水門(1939年、大里用水、川本町)などである。
 これらの造形は煉瓦樋門へのオマージュであり、その懐かしい意匠を継承したのだと筆者は想像している。


  備前渠樋門
  ↑備前渠樋門(利根川右岸、埼玉県本庄市久々宇)
  備前渠用水の樋門。
元圦は2km上流(本庄市山王堂)で、
  そこから堤外水路で導水している。
    福川樋門の記念碑
     ↑福川樋門の記念碑(福川右岸、埼玉県行田市北河原)
     左上に見えるのは福川水門(逆流防止水門)
     福川はこの地点から700m下流で
利根川の右岸へ合流する。

(補足)煉瓦供給所としての日本煉瓦製造
 深谷市の日本煉瓦製造(株)の工場が本格的に創業を開始するのは、明治22年(1889)からである。
 同年、9月にホフマン式輪窯3基とカッセル窯1基(表積用煉瓦の製造)を備えた工場が完成した。
 ホフマン輪窯1基につき、最盛期には月産約65万個の煉瓦が焼成できたという。
 明治24年2月には、鉄道庁から碓氷トンネル用の煉瓦1250万個を受注している(24年4月から
 25年6月までに完納)。創業当時の日本煉瓦製造の年間総生産数は明治22年が約400万個、
 明治23年が500万個であったので(→文献20、p.85)、明治24年の大口受注を契機に、
 それまでの年間総生産数の約3倍もの増産体制へと移行したことになる。
 しかし、増産体制が確立すると舟運による輸送力不足が顕著になってきた。
 明治26年(1893)5月には、操業以来初めての生産縮小に陥ったが、この原因は輸送能力の不足から
 煉瓦の大量在庫が発生し置き場所がなくなったからであった。(→文献20、p.60)

 明治28年頃まで埼玉県は煉瓦樋門の表積には、耐水性重視から横黒・鼻黒煉瓦を推奨していたようである。
 埼玉県に残る明治28年以前に建設された6基の樋門のうちの5基、
 谷古田領元圦(越谷市、明治24年)、倉松落大口逆除(春日部市、明治24年)、村岡樋管(熊谷市、明治24年)、
 五ヶ門樋(庄和町、明治25年)、甚左衛門堰枠(草加市、明治27年)には、表積みに黒っぽい色の
 煉瓦(横黒・鼻黒)が使われている。おそらく、これらは日本煉瓦製造の煉瓦ではない(→注6)。
 さらに興味深いのは、これらの樋門は村岡樋管を除くと、どれも千葉県と東京都の境界付近、
 埼玉県の南東部に分布している。古利根川や江戸川による舟運が盛んであった地域なので、
 下野煉化製造会社(栃木県下都賀郡野木町、明治21年創業)や金町煉瓦(三郷市に隣接、江戸川沿い、
 明治21年創業)あるいは、隅田川(現.荒川)の周辺に数10戸もあったという、小規模な煉瓦工場
 (現.東京都北区、荒川区、足立区、葛飾区)が製造した煉瓦が使われているのだろうか?(→注7
 一方、埼玉県の北西部、大里郡岡部町には樋門ではないが、黒っぽい色の煉瓦が
 使われているアーチ橋、岡のれんが橋も現存する。

 日本煉瓦製造の煉瓦が樋門に使われ始めるのは、明治28年頃からである。
 明治28年は日本煉瓦製造が、工場から日本鉄道(現.JR高崎線)の深谷駅までを専用線(上敷免鉄道:
 日本初の民間専用線)で結び、煉瓦の大量輸送を開始した年でもある。
 この頃は煉瓦の増産体制と大量輸送が確立した反面、官公庁による大口受注が一段落したために、
 余剰煉瓦が地元(埼玉県)へ出回り始めたのだと推測される。
 明治29年以降に建設された現存樋門のうち、煉瓦の色が確認できたものは73基だが、
 そのほとんどに(日本煉瓦製造のものと思われる)鮮やかで光沢のある赤煉瓦が使われている。
 上敷免製(日本煉瓦製造)と刻印された煉瓦も、25基で確認できる(最古は明治30年建設の旧・矢島堰)。
 当時の埼玉県は樋門工事に地域的重要度や工事の難易度から等級を定めていたが、
 煉瓦樋門の場合は工事の等級に拘らず、日本煉瓦製造の煉瓦を使うことを推奨していたようである。
 工事仕様書には”樋門の建材には機械抜き成形の煉瓦を用いること”と記されている事例も多く、
 見沼代用水元圦の仕様書(設計:安藤光太郎)のように、”煉瓦ハ可成上敷免製ヲ用ヒ”と、
 日本煉瓦製造の煉瓦を使うようにと指定されているものもある。(→文献5、p.135)

 このような建設背景があったため、明治36年に唐子村(現.東松山市)の煉瓦樋管建設で発覚した、
 煉瓦詐称事件は、仕様書に指定された(上敷免製の)煉瓦の替わりに品質の悪い(とされる)他社の煉瓦が
 使われているのが問題となったのである。(→埼玉県行政文書 明2496-3)
 明治41年の時点では記録に残っているだけでも、埼玉県内には16ケ所に煉瓦工場があったにも拘らず、
 樋門建設用の煉瓦は日本煉瓦製造がほぼ独占していたと思われる。
 これには、渋沢栄一の政治力が影響していたことは否めないが、日本煉瓦製造の製品は近代化された工場で
 生産されたものであり、品質(強度、形状、色)の高い煉瓦を大量に供給できたのも事実である(→注8)。
 明治20年代には耐水性良好等の理由から、赤煉瓦に対して優位性を保っていた横黒・鼻黒煉瓦だが、
 最大の難点は供給量の低さであった。明治30年以降に埼玉県の煉瓦樋門建設は最盛期を迎えるのだが、
 それを支えたのが日本煉瓦製造のずば抜けた煉瓦供給能力であった。
 埼玉県は全国でも類を見ない煉瓦樋門の建設数を誇るが、それは切なる建設需要と地元からの
 資材供給が見事にバランスした幸運な結末ともいえる。


煉瓦樋門建設と当時の日本の情勢:

 1877 埼玉県、水理学生徒の制度を開始(後に治水生徒などと改称)
 1883 日本鉄道の上野〜熊谷間が開通(現在のJR高崎線)
 1887 埼玉県で最初の煉瓦樋門:柴山伏越が竣工
  〃 日本煉瓦製造(株)が深谷市に設立
 1889 大日本帝国憲法発布
 1890 利根運河開通、ムルデル帰国
  〃 水利組合条令の公布
  〃 埼玉県各地で大水害
 1894 日清戦争勃発
  〃 埼玉県、独自にセメントの強度試験方法を確立
 1895 埼玉県、町村土木補助費の支弁規定を改訂(煉瓦を用いた樋門工事への補助率が高率になる)
  〃 この頃から樋門に使われる煉瓦が焼過(黒)から赤煉瓦に変わる
 1896 河川法公布(主要河川の国直轄化、直轄高水工事への国費支出、市町村へ水防を義務づけ)
  〃 四箇村水閘が竣工(赤煉瓦が使われている埼玉県で現存最古の樋門)
 1897 煉瓦造の農業用水取水堰の出現:矢島堰
  〃 この頃から樋門の構造形式として箱型が多くなる
 1899 耕地整理法の制定
 1900 利根川改修工事着工、木曽三川改修の竣工
  〃 川俣事件
 1903 デ・レイケ帰国
  〃 煉瓦樋門建設のピーク(年間21基建設)
  〃 煉瓦詐称問題が発覚
 1904 日露戦争勃発
 1906 見沼代用水元圦が竣工(埼玉県史上最大の煉瓦水門)
 1907 政府、谷中村に土地収用法を適用(渡良瀬遊水池、足尾銅山鉱毒事件)
  〃 この頃から強制排水型の樋門(ポンプ場を併設)が出現する
 1908 水利組合法の制定
 1910 関東地方で大洪水、中条堤の廃止(利根川、連続堤防へ)
 1914 第一次世界大戦勃発
 1917 純煉瓦造としては埼玉県で最後の樋門:男沼門樋竣工
 1923 関東大震災

戻る:[埼玉県の煉瓦水門] 関連項目:[樋門の注釈][県の補助金][建設年別分布][市町村別分布][水系別分布