村岡樋管

 所在地:熊谷市村岡〜万吉(まげち)、吉見堰用水  建設:1891年

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
呑口 25*   2.0* 2.8 0.4 アーチ
1.4*
焼過煉瓦
要石、鋸状装飾
吐口

 設置場所と施設の現況:
 村岡樋管は荒川大橋の右岸橋詰、吉見堰用水が県道11号熊谷小川秩父線を横断する地点に
 設けられている。機能的には水路カルバートであり、万吉方面から流れて来る用水は村岡樋管によって
 県道の下を潜って送水されている。用水路は村岡樋管を通過後に、手島支線と村岡支線の
 2派に分かれる。村岡樋管は今なお現役の施設だが、荒川大橋の工事や県道の拡幅工事に伴い、
 呑口側は全面的に改修されていて、原形を留めていない。しかし吐口側は竣工当初の形態が
 ほぼ残されており、優れた意匠(要石を配したアーチリングと煉瓦による鋸状の装飾)が見て取れる。
 なお、アーチ部に要石が設けられた煉瓦樋門は、埼玉県には村岡樋管の他には存在しない。
 現存する煉瓦樋門では埼玉県で3番目に古いが、荒川水系の樋門としては現存最古である。
 また、現役で活躍している施設としても埼玉県で最古であり、非常に貴重な存在である。

 建設の経緯:
 村岡樋管は明治23年8月の洪水によって、大破した木造の旧施設(村岡圦樋)を煉瓦造りで改良したもの。、
 大里郡吉岡村外一ヶ村組合が、県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、
 明治24年(1891)10月6日に吉岡村大字村岡(現.熊谷市村岡)に建設した。
 組合名の外一ヶ村とは、大里郡市田村(現.大里郡大里町)である。
 吉岡村は村岡村、万吉村、平塚新田村が合併して、明治22年に誕生したばかりであった。
 村名は万吉村のと村岡村のを合わせた人工的なものである。
 なお、大正末期に建立された吉岡村の道路元標市田村の道路元標は今もなお残っている。

 六堰用水の関連施設は明治期に5基が煉瓦造りで改良されたが、村岡樋管はその最初の施設であり、
 元圦である吉見堰圦(江南町、荒川)は、村岡樋管から4年後の明治28年に煉瓦造りとなった。
 吉見堰用水とは、六堰用水(荒川の六堰頭首工から取水する6つの農業用水路、大里用水)の一つ。
 六堰用水は400年以上の歴史を持つ埼玉県最古の農業用水である(注2)
 昭和14年(1939)には6つの用水路の元圦が、六堰頭首工に合口され、名称は大里用水へと変わった。
 それまで、吉見堰用水の元圦は6つの用水路のうちで、最も下流に位置していた。
 なお、村岡樋管と同年には東隣に位置する吉見村(旧大里町津田)に、津田合併門樋が建設されている。
 これは荒川の右岸に設けられた2連アーチの逆流防止水門だが、総煉瓦数は村岡樋管の約4倍という、
 巨大な施設だった。明治23年の洪水によって、荒川の堤防は吉見村で二箇所(玉造と津田)が
 決壊しているので、堤防の修復を含めた復旧工事として建設されたのだろう。
 津田合併門樋は現在は全面的に改修され、通殿川排水機場(和田吉野川)となっている。

 村岡樋管の規模と構造:
 村岡樋管の総工費は3,650円であり、同年6月に竣工した倉松落大口逆除(春日部市)とほぼ同額である。
 総工費の内1,730円を組合村費で捻出し、不足分の1,920円は地方税の補助金に頼っている。
 総工費に占める補助金の割合は53%だが、災害復旧工事の割には意外に低率である。
 規模は樋管長 12間(21.8m)、通水断面の幅 4尺5寸(1.3m)、高さ 4尺7寸5分(1.4m)(埼玉県行政文書 明1776-17)
 煉瓦数は約67,700個(焼過煉瓦:6,400個、一等煉瓦:46,700個、二等煉瓦:14,600個)であり、
 使用煉瓦数だけで判断すると、埼玉県に建設された煉瓦樋門としては中規模である。
 しかし、かつての荒川大囲堤(注1)に伏せ込まれた施設なので、樋管長は意外に長い。
 基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
 杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを
 打設した方式である。

 村岡樋管
↑村岡樋管(呑口) (上流から) 熊谷市万吉
 村岡歩道橋(県道11号線)から西へ50mの地点にある。
 写真の奥に見えるのが県道11号線。この県道は
 
荒川大橋の右岸橋詰を起点としているが、村岡地区の
 付近はかつての荒川大囲堤の一部、村岡堤(水除堤)を
 改修したもの。村岡堤は平面形状的には霞堤であり、
 荒川の本堤(
万吉堤)に対して斜めに接続している。
 なお、吉見堰用水の余水は県道11号線に沿って流れ、
 荒川大橋の橋詰の村岡排水樋管(堰上橋:国道407号を
 横断)から荒川へ放流されている。正確には村岡樋管は
 村岡用水樋管ということになる。呑口側は全面的に
 改修されている。呑口側には銘板を含め、秀逸な意匠が
 施されていたと思われるので残念である(注3)
   吐口
  ↑吐口(下流から) 熊谷市村岡489付近
   県道の拡幅工事で打たれたコンクリートが、村岡樋管の上に
   覆い被さっているので、本施設は非常に見つけにくい。
   すぐ下流では市道が吉見堰用水を横断しているが、そこには
   古いRC橋:
村岡橋(昭和4年竣工)が架かっているので目印となる。
   村岡樋管の現況は、上部にコンクリート床版が置かれているだけで
   なく、盛土もなされているようなので、竣工当初に比べて上載荷重が
   かなり増加しているはずなのだが、亀裂などは見られない。
   写真の撮影は非かんがい期だが、翼壁の汚れ具合(白っぽい)から
   推測すると、通水時にはアーチトップの上まで水位が上昇するようである。
   翼壁は両岸に大きく、もたれた(傾いた)形式。
   吉見堰用水はここから下流で国道407号を横断し、その後は荒川の
   右岸堤防の裾に沿って流れる。途中の分水が
通殿川の源流となる。

 面壁とアーチ
↑面壁とアーチ(吐口側)
 赤煉瓦ではなく、黒っぽい色の煉瓦(
焼過煉瓦)が
 使われている。アーチは煉瓦小口の3重巻き立て。
 アーチリングは普通煉瓦のみで組まれ、くさび形の
 
異形煉瓦は使われていない。面壁天端には煉瓦小口の
 角を並べて、
鋸状の装飾が施されている。
 要石の表面には楯状迫石の浮彫りが施されている。
 煉瓦アーチと要石の組み合わせは、
高台橋(埼玉県
 さいたま市、高沼用水)でも見られる。
 吐口側にも拘らず、村岡樋管の装飾は豪華である。

   翼壁と袖壁
  ↑袖壁と翼壁
   手前が袖壁、奥が翼壁。村岡樋管の基本的な煉瓦組みは
   
イギリス積だが、翼壁天端は煉瓦小口の縦で組まれ、
   
迫り出しは施されていない。面壁周りの豪華な装飾に対して、
   翼壁部は意外に素朴だ。使われている煉瓦は他の
   煉瓦樋門に比べると小さめで、平均実測寸法は
   21
3×102×55mm。寸法と色は均一ではなく、
   かなりのバラツキがあり、形が歪んだ物が多い。
   煉瓦の平の面を確認した限りでは、煉瓦の成形は
   機械抜きではなく、
手抜きだと思われる。

(注1)六堰用水は慶長7年(1602)に関東郡代 伊奈忠次によって開発された。
  最初に玉井堰用水、奈良堰用水、大麻生堰用水が開削されている(全て現在の熊谷市の区域)。
  これらの後に開削された成田堰用水、御正堰用水、吉見堰用水を加え、
  六堰用水と称される。上記の開発は全て伊奈忠次による。御正堰用水と吉見堰用水を除く、
  4用水のかんがい区域は荒川の左岸側である。ただし成田堰用水は上記の5堰が
  開発される50〜100年前には、既に存在していたという見解もある。
  成田堰用水改修記念碑(熊谷市石原)の碑文には延徳三年(1491)に
  忍城主成田氏によって開削されたこと、荒川から導水して400町余りの
  水田のかんがいに供したことが記されている。
  なお、吉見堰用水の吉見とは比企郡吉見町のことではなく、上吉見領を指す。
  旧大里郡吉岡村や吉見村がこれに相当する。さらに紛らわしいことに、
  吉見堰用水は開削当初、不思議なことに堰元でもない万吉村の名を冠して、
  万吉堰用水と称されていた。もっとも中世には大里郡には万吉郷というのが
  存在したので、万吉は村名ではなく郷荘名である可能性が高い。
  新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代の文政期の時点で、
  上吉見領の大半は幕府と川越藩(松平大和守)の領地であり、
  吉見堰用水の灌漑区域は川越藩領だった。
  なお、旧大里郡吉見村は、現在の熊谷市相上、冑山、箕輪、玉作、
  津田、向谷、小八林で構成されていた。旧村に関する遺構として、
  
吉見村道路元標吉見堤碑(荒川、大里郡大里町、明治44年建立)等が残っている。

(注2)荒川大囲堤は新編武蔵風土記稿(内容は江戸時代末期に執筆)の
  大里郡
 上吉見領 村岡村(11巻、p.108)に、”水除堤は高一丈三四尺
 
 大囲堤と呼び、当村より始て隣村手嶋村に達せり、当所に高四尺、長八間、
  横八尺の圦樋あり、郡中十一ヶ村の用水とす”とある。これによれば、
  当時の堤防の高さは3.9m〜4.2mであり、現在よりもかなり低い。
  圦樋ありと記されているのが村岡樋管。木造の圦樋であり、
  横八尺(2.4m)の記述には疑問が残るが、おおむね施設規模は現在よりも小さい。
  なお、大囲堤は武蔵国郡村誌(内容は明治9年の調査を基に執筆)の
  大里郡村岡村(9巻、p.65)には、”馬踏二間
 堤敷十一間 水門一ヶ所
  高四尺横六尺
 修繕費用は官に属す”と記されている。
  荒川大囲堤の高さについては記述がないが、馬踏(堤防天端幅)が3.6m、
  堤敷(敷幅)が20mなので、堤防の規模は武蔵風土記稿の執筆当時よりも
  大きくなっているようだ。郡村誌の記述内容は意外に信頼性があるようで、
  特に堤敷の十一間は、村岡樋管の現在の樋管長12間に対して矛盾がない。
  なお、明治17年(1884)測量の迅速測図、熊谷駅によれば、大囲堤は当時既に
  現在の堤防形態と似た配置となっている。右岸堤防に接続する形で、
  現在の県道11号線に沿って、長さ約600mの控堤が設けられている。
  ただし、右岸堤防は万吉地区付近(万吉堤)で消滅し、それよりも上流は
  無堤となっている。万吉堤の平面配置は荒川の流路に対して、平行ではなく
  斜めに取り付けられていて、開口部もあるので霞堤だったのだろう。
  なお、左岸には当時まだ、百間出(荒川の河道に向かって斜めに
  延びた突堤)が現存している。百間出の平面配置も霞堤だった。
  以上のように、村岡樋管は荒川治水の要所に取水施設として設けられた。
  この利水形態は横手堤に設けられた
分量樋(大里町、荒川)、
  中条堤に設けられた
北河原用水元圦(行田市、福川)と良く似ている。

(注3)村岡樋管の呑口側にはゲートが装備されていたが、出来形帳には門樋及び
  器械一組と記されているだけなので、どんな形式だったかは不明である。
  ただ、器械と記されていること、用水施設であることなどから、おそらく鋼製の
  スルースゲートだったと思われる。また、出来形帳には彫刻石二本と計上されて
  いるので、呑口側には銘板が2枚(施設名と竣功年)付けられていたと推測される。


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