笹原門樋

 所在地:川越市古谷上、八幡川(笹原排水路?)  建設:1901年

  長さ 高さ 天端幅 翼壁長 袖壁長 通水断面 ゲート その他 寸法の単位はm
巻尺または歩測による
*は推定値
上流側 18* 3.2 2.4

3.4

アーチ1.5* 木製スルース
下流側 下流側(川表)はコンクリート製のカルバートに改造されている。

 笹原門樋の現況:
 国道16号線から川越総合運動公園へ向かう道路を約1.1Km北上すると、道路の左脇に
 煉瓦造の小さな塔が目に入る。道路の下に設けられているのが笹原門樋だ。
 この道路は昭和初期の河川改修によって荒川と入間川が、現在の流路(共に新規開削)となるまでは、
 旧荒川(現.びん沼川)の右岸堤防だったようである。→この付近の荒川入間川
 笹原門樋は旧荒川からの洪水流が八幡川(古川)へ逆流するのを防ぐ水門として設けられたのだろう。
 八幡川(古川)は江戸時代頃までの入間川の旧流路跡だが、後にそれを悪水路(排水路)へと改修して
 使っていたようだ。八幡川を遡って行くと、名称は笹原排水路に変わり、最後は伊佐沼へと辿り着く。
 笹原排水路は伊佐沼の余水を放流するための水路である。
 笹原門樋は橋梁を意識したデザイン(塔や天端付近の装飾)なので、橋の役目も担ったようである。
 現在は、道路の拡幅に伴い、川表(吐き口)側は大幅に改築され、新たにコンクリート製の
 樋管が継ぎ足されている。上を道路が走っているので、今風の分類ではカルバートとなる。

 建設の経緯:
 笹原門樋は腐朽した既設の木造樋管を煉瓦造りで伏せ替えたもの。川越町と六ケ村(芳野村、
 古谷村、南古谷村、仙波村、高階村、福岡村)が埼玉県に建設申請をし、県税の補助(町村土木補助費)と
 埼玉県の技術指導を得て、入間郡古谷村大字古谷上に建設した。申請書を見る限りでは
 申請者は川越町他六ケ村となっているので、当時は水利組合は存在していなかったようである。
 既設の樋管は地形的に問題がある地点に設置されていたため、充分な排水効果が得られなかった
 ので、新樋管の設置位置は従来の地点から変更されている。このため、笹原門樋の建設と同時に、
 新たに悪水路(排水路)が掘削されている。名称は笹原門樋となっているが、設置目的は
 逆流防止よりも耕地排水の方に重点が置かれた施設だったようである。
 樋管建設費は笹原門樋が7,054円(約57%の4,045円は県からの補助金)、悪水路掘削が
 2,008円(約41%の816円は県からの補助金)であった(埼玉県行政文書 明2487-5)
 これは当時の町村土木事業としては平均的な補助率である。ただし、当時は樋門の煉瓦造りでの
 改良には約60%と高率な補助が得られたので、笹原門樋の方が悪水路掘削よりも補助率が高くなっている。
 なお、笹原門樋が建設された古谷上地区には、入間郡古谷村の村役場が置かれていた。
 場所は現在の川越市役所 古谷出張所の敷地内である。そこには大正時代末期に
 設置された古谷村の道路元標が今も残っている。

 笹原門樋の仕様、設計者:
 笹原門樋は樋管長12間半(22.5m)、通水断面はアーチ型で幅6尺(1.8m)、中央高5尺5分(1.5m)、
 使用煉瓦数は約93,000個(表積:選焼過32,000個、裏積:焼過61,000個)であり、
 埼玉県に現存する煉瓦樋門では大きい部類である。悪水路の掘削長は90間8分(162m)であった。
 笹原門樋と悪水路の設計者は、埼玉県技手の野村武。野村は本田用水樋管(1899年、松伏町)、
 笠原堰(1902年、鴻巣市)、万年堰(1902年、宮代町)、矢来門樋(1903年、東松山市)を設計している。
 なお、笹原門樋の建設工事に関しては、何やら重大問題が発生したようである。
 竣工した翌年の明治35年(1902)の埼玉県議会の予算案一読会では、
 ”これまで町村土木工事については、かの順礼樋管や笹原樋管のごとき重大問題が
 起こったことがあるが〜以下略”との質疑が出されている(→埼玉県議会史 第2巻、埼玉県議会、1958、p.1073)。
 順礼樋管(幸手市、権現堂川、1899年)の事例が、引き合いに出されているので、
 政治の絡んだ不正な手抜き工事がおこなわれたのであろうか。

 追補:笹原門樋は、土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
 →日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。

 笹原門樋(上流側から)
↑笹原門樋(上流側から)
 八幡川?(笹原排水路)は写真手前から奥へ流れて、
 古川排水路へ合流する。笹原門樋は本来、こちら側が
 川裏であり、建設当初は反対側に
観音戸(鉄製の
 マイーターゲート)が付けられていた。
 現在のゲートは改修工事で付け替えられたもの。
 この時にコンクリート製のゲート戸当りが増設されている。
 使われている煉瓦は色が均一ではないが、これは
 経年劣化ではなく、選別された煉瓦が使われなかった
 からだろう。翼壁は、もたれ式で、常時水位以下は
 白っぽく変色している。翼壁は意外と厚く、45cmある。
   面壁天端の歯状装飾
  ↑面壁天端の歯状装飾
   天端には、煉瓦の小口面を縦に凸凹に並べて、
   デンティル(
歯状の装飾)が施されている。
   川裏(樋門の正面ではない)に、これだけの
   装飾が施されているのは意外である。
   翼壁天端は
小口縦-長手横とシンプル。
   銘板には竣工年が楷書体で刻まれている。

 
刻印煉瓦
↑刻印煉瓦
 翼壁と塔の結合部付近で見つけた(^o^)v
 煉瓦の平の面(最も面積の大きい面)には
 刻印があり、小判形の枠の中には漢字が
 刻まれている。枠内を右から左へ読むと
 (明治時代だよ)、上敷免が判読できる。
 この煉瓦は
日本煉瓦製造の深谷工場で
 作られたもの(注)。同社は日本で最初に
 
機械を使って煉瓦を製造した。日本屈指の
 煉瓦工場であり、現在も深谷市上敷免で
 操業している。

   塔と翼壁
  ↑塔と翼壁(横から)
   塔は正方形断面で、一辺56cm、高さ80cm。
   先端にはモルタル製の帽子が、かぶせられている。
   階段部分(写真の右側)は近年に増設されたものだが、
   一見して、煉瓦の破損が激しい。
   そのうえ、煉瓦の積み方はかなり雑である。

(注)地元ではなく、遠方の深谷市の煉瓦が使われている点が興味深い。
 川越市の周辺には明治20年代に既に、煉瓦工場が存在していた形跡がある。
 川越市府川の八幡神社には、
煉瓦造りの手水鉢が奉納されているが、
 その壁面には”明治廿八年十二月
 府川煉化工 青木里吉”と記されている。
 煉化工が煉瓦職人か煉瓦工場なのかは不明だが、手水鉢に使われている煉瓦は、
 手抜き成形の赤煉瓦(鼻黒)なので、府川(入間川の右岸、当時は
 入間郡山田村大字府川)では、明治20年代後半に小規模な煉瓦工場が
 操業していた可能性が高い。→
埼玉県の煉瓦工場
 なお、明治31年(1898)には入間川の右岸堤防に、
 府川悪水樋管(埼玉県行政文書 明2440-24)が建設されている。
 これは川越市の市域に最初に建設された煉瓦樋門である。


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