埼玉県の煉瓦水門 〜 レンガ造りの樋門・樋管・堰 (建設年別の分布)
(1)災害復旧工事としての煉瓦樋門
明治時代には産業構造や土地利用の急激な変化に対して、河川砂防工事の対応は後追い的な
局所的なものだった。工事が不備で充分に対応できなかったこともあり、頻繁に大きな水害が発生している。
その中でも被害が甚大だったのは、明治23年(1890)、29年(1896)、35年(1902)、40年(1907)、43年(1910)の
洪水であった。明治23年8月の洪水は後に埼玉県の煉瓦樋門建設を加速させる重大な出来事となった。
埼玉県初の煉瓦樋門である備前渠圦樋(および柴山伏越)が建設されたのは明治20年であるが、
それから明治23年までの4年間には、煉瓦樋門はわずか7基しか建設されなかった。
ところが明治24年度の年間建設数は12基へと急増している。これは洪水により破壊された樋門の
復旧工事として、新たに煉瓦造りの樋門が数多く採用されたからである。
ちなみに埼玉県に現存する最古の煉瓦樋門である谷古田領元圦(葛西用水、越谷市)、
倉松落大口逆除(古利根川、春日部市)、村岡樋管(吉見堰用水、熊谷市)は
明治23年の洪水で破壊された木製樋門を煉瓦造りで復旧したものである。
この洪水では埼玉県内の各地で堤防が決壊し、利根川は北埼玉郡須加村下中条、大里郡妻沼村、
男沼村など、権現堂川は葛飾郡高須賀村、荒川は横見郡東吉見村、大里郡吉見村、入間郡古谷村などで
堤防が決壊している。死亡者16人、流出家屋数720棟だった(→埼玉県議会史 第1巻、埼玉県議会、1958、p.1085)。
被害がほぼ埼玉県全域に及んだので、復旧工事としての煉瓦樋門も一地域に集中することなく、県全域に
分散して建設された。そのことが煉瓦樋門の存在を埼玉県全域に定着させる契機となったと思われる。
明治29年には7月と9月の2回にわたり、洪水が発生している。9月の洪水では江戸川の堤防が
北葛飾郡三輪野江村深井新田(現在の吉川市深井新田)で決壊している。これは、利根川から利根運河を
経由して江戸川へ洪水が流入したのが主な原因だったとされている。江戸川の決壊により、二郷半領、
松伏領など北葛飾郡の全域が大きな被害を受けた。明治30年には9基の煉瓦樋門が建設されているが、
そのうち4基は北葛飾郡杉戸町での建設である。明治30年から31年にかけて煉瓦樋門の建設数が
増加するのも、明治29年の洪水後の復旧工事が多かったためであろう。
明治34年(1901)から36年(1903)にかけて、煉瓦樋門の建設数が急増するのは、明治35年の洪水の
復旧工事に加え、行田市や東松山市のように一度に5〜6基をまとめて建設する形態が多かった
からである。なお、比企郡東吉見村(現.吉見町)も明治35年に一度に5基の煉瓦樋管(箱型)の
建設申請をして、これが受理されているが(埼玉県行政文書 明2504-13)、翌年に荒川の水害に見舞われ、
計画を断念している。これらの地区の煉瓦樋門の建設理由は”腐朽・大破した木造施設(明治25年伏替)を、
煉瓦造りで改良”と申請書に記されている。明治23年と29年の洪水で破壊された樋門の数は膨大だったが、
その復旧工事は煉瓦造りではなく、木造でなされたものが多かったのである。
それらの樋門が老朽化し、明治35年前後に耐用年限がきたのである。
明治40年8月の洪水では神流川、利根川、荒川が破堤した。翌年の6月に荒川中流部の左岸で相次いで
竣工した煉瓦樋門、外谷門樋(鴻巣市)、新堤樋管(桶川市)、八塚門樋(上尾市)は洪水後の復旧工事である。
明治時代で最も被害の大きかったのは、明治43年8月の洪水である。
利根川と荒川が氾濫したため、埼玉県の大半の町村が被災し(被害町村は約200)、
死者・行方不明者は350人以上、流出破壊家屋は約7,800戸、利根川・荒川の堤防決壊は
400箇所を超えている。利根川治水の要であった中条堤も決壊している。中条堤が破堤したのは
(記録に残る限りでは)江戸時代は寛保二年(1742)と天明六年(1786)の2回のみである。
このことからも、明治43年の洪水の規模の大きさがうかがい知れる。
当時の様子を後世に伝えようと建立された石碑が、修萬吉堤之碑(荒川、熊谷市、明治45年建立)、
吉見堤碑(荒川、大里郡大里町、明治44年建立)、久下堤の碑(熊谷市、荒川の瀬替え地点、明治45年建立)、
阿良川堤の復旧記念碑(加須市、控堤が決壊、明治44年建立)、船越堤の水害記念碑(青毛堀川、加須市、
大正2年建立)、石橋供養塔(青毛堀川、加須市、明治44年追記)、水量杭紀念碑(手子堀川、加須市、
明治44年建立)、堤防修築記(見沼代用水、蓮田市、明治44年建立)として残っている。
また、明治44年建立の九頭龍権現も多い。これは洪水の鎮静と堤防の安全を祈願したものだろう。
煉瓦造りで改修したばかりの瓦葺掛樋は、この洪水によって被害を受けている(→改修碑)。
明治43年洪水の被害は未曾有の大きさであったが、翌年に建設された煉瓦樋門は5基と少ない。
明治44年竣工の中水道逆除閘門と一ツ谷逆除(中川、幸手市、設計図現存:埼玉県行政文書 明2998-174)は
破壊された木製樋門を煉瓦造りで復旧したもの。また、明治45年に竣工した二郷半領用水逃樋も同様である。
明治43年の洪水による中小樋門(木造)の被災数は多かったが、煉瓦造りで復旧されたものは、
意外に少なかったようである。この頃になると、土木構造物の主流は煉瓦造りではなく、
コンクリート造りに変わりつつあったことも一因であろう。
江戸時代には享保の改革による新田開発(埼玉県内では1727年の見沼代用水の開削と
周辺沼沢地の干拓)から10数年後に、江戸時代最大級とされる寛保の洪水(1742年)が発生している。
埼玉県では明治30年代中頃から各地で耕地整理(排水改良)が始まったのだが、
奇しくも数年後の明治43年に大洪水が発生している。歴史は繰り返したようである。
なお、明治43年の洪水を契機として、利根川、荒川、中川について、内務省による抜本的な
改修事業が展開されることなる。それらの河川の支川を多く抱える埼玉県でも、
国の事業に関連して、13河川の改修が実施されるのであった。
(2)社会情勢と煉瓦樋門
社会動向の変化に目をやると、日清戦争(1894年)、耕地整理法の公布(1899年)、日露戦争(1904年)の後にも、
煉瓦樋門の建造数が増加しているのがわかる。終戦後の好景気や社会情勢の変化が煉瓦造り樋門の
建設にも、ある程度は反映されたようである。例えば、日清戦争勃発後の明治28年(1895)には、
埼玉県では町村土木補助費の支弁規定が改訂された。
これによって、市町村や組合が煉瓦を使った樋門を建設する場合には、補助金の交付額が高率になった。
また日露戦争の勃発に伴い、埼玉県は戦時下の生産増強策として産業の奨励を図った。
明治37年(1904)の県議会では、勧業補助費の名目で耕地整理費に補助を与えることが
可決されている(→文献14b 3巻、p.46)。戦費を捻出するために非常特別税法が施行され、国民全体が
重い増税負担にあえいでいた時代である。日露戦争は樋門の建設工事にも影響を及ぼし、
四反田樋管(1905年、東松山市、都幾川)は資材の到着が遅れ、工事完了が予定よりも大幅に遅れている。
これは鉄道が軍需物資の輸送を最優先となったためである。戦時下は資本供給が閉ざされ、
加えて金利が高騰したために、軍需産業を除き、日本の産業界全体が不況であった。
不思議なのは1906年で、それまでは煉瓦樋門は毎年10基以上建設されていたのに、
この年は1基しか作られていない。その1基とは、埼玉県史上最大の煉瓦水門(使用煉瓦数66万個)、
見沼代用水元圦である。もっとも見沼代用水元圦の使用煉瓦数は、中規模な煉瓦水門の
10基分以上に相当するのだが。ただし、見沼代用水元圦は1905年11月起工、1906年4月竣功なので、
実質的には1906年に起工して、同年に竣功した水門の数は0である。ちなみに当時の平均的規模の
水門〜使用煉瓦数5万個程度〜では、工事着工から完成までに、およそ3ケ月を要している。
大正2年(1913)の建設数も0である。1887年の備前渠圦樋から26年間も続いた煉瓦樋門の
連続建設記録(笑)は、この年にストップすることになる。しかし、翌年には煉瓦樋門の建設は再開し、
7基が造られている。1913年の8月には荒川水系を中心に大規模な洪水が発生しているので、
その復旧工事であろうか。この洪水では、比企郡北吉見村(現在の吉見町)で荒川の右岸堤防が
決壊しているが、その詳細と復旧工事の様子は修堤記念碑に記されている。
また、川島町では都幾川の左岸堤防が長楽用水元圦(煉瓦造)付近で破堤している。
長楽氷川神社には、その復旧記念碑(1914年建立)が残っている。
◆煉瓦市場の好不況と樋門建設には相関があるとする説(→文献3、p.89)について:
この説によると、煉瓦市場が好況だと樋門は建設されず、不況になると、(日本煉瓦製造を守るために)樋門が
建設されるのだという(笑)。そのうえ相場よりもわざわざ高い価格で煉瓦を購入したそうである。
根拠が非常に乏しく、強引な論理展開には無理があり、破綻している。
同説は建設された煉瓦樋門ではなく、現存する煉瓦樋門の数(それも調査不足のためにわずかに28基、
ちなみに埼玉県に建設された煉瓦樋門の総数は270基以上)と煉瓦市場の好不況を対応させているところが、
致命的である。肝心の煉瓦市場の好不況の根拠も主観意的で曖昧である。例えば日露戦争の勃発に伴い、
軍需優先の政策から日本の工業全般が不振となったが、煉瓦業界も同様であった。
埼玉県の煉瓦業界の生産価額は下表の示したとおり、明治36年(1903)を100とすると、日露戦争勃発の
明治37年(1904)が66、明治38年(1905)が90である。
しかもこの説では、最も重要な事実の認識を誤っている: 煉瓦樋門は農業用水の過不足解消や
水害から住民の生活を防衛するために(村相互の利害対立を調停しながら)建設されたのであって、
日本煉瓦製造(以下、日煉と略)をつぶさないために建設されたものでは決してない。
同解説の著者は、樋門の土木工学的意味や当時の社会背景を知らないのではないか、と疑いたくなる。
また同解説には誤った記述が多く、不充分な調査しかしていないのに断定的な結論も目立つ。
当時の日煉は、日本有数規模の煉瓦工場であり、かつ中央の省官庁御用達の地位を築いていて、
景気変動に対しても経営が安定していた。日煉の社史には、「当社は景気の激しい変動の中でも、
その影響を受けることなく常に安定した受注を堅持していた」(→文献20、p.83)とあるし、
事実、公共事業関連の大口発注が相次いでいた。
仮に(地元民が日煉を守るために)、煉瓦樋門の年間建設数を10基から20基に倍増させたとしても、
日煉にとっては煉瓦の受注量が70万個程度増えるだけのことである。
年間の煉瓦生産量が2,000〜3,000万個(明治35年頃)であった日煉にとって、
この量は経営に直接、影響を及ぼすようなものではない。
なお、明治期には日煉のお膝元である深谷市には、煉瓦樋門は1基(矢島堰、明治30年)しか建設されていない。
年度 | 建設 | 残存 | 現存する煉瓦水門(所在地) | 戸数 | 生産価額 |
主なできごと |
〜1890 | 7 | 0 | 埼玉県初の煉瓦樋門、備前渠圦樋の竣工(1887) 日本煉瓦製造会社の設立(1887) |
(円) |
大洪水(1890) 水利組合条例 |
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1891 | 12 | 3 | 谷古田領元圦(越谷市、葛西用水) 倉松落大口逆除(春日部市、旧倉松落) 村岡樋管(熊谷市、吉見堰用水) |
足尾銅山 鉱毒事件おこる |
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1892 | 5 | 1 | 五ヶ門樋(庄和町、中川) | 東京煉瓦職組合結成 | ||
1893 | 2 | 1 | 文覚門樋(吉見町、文覚排水路) 煉瓦残存 | 富岡製糸工場払い下げ | ||
1894 | 9 | 1 | 甚左衛門堰枠(草加市、伝右川) | 日清戦争 | ||
1895 | 8 | 1 | 〆切掛渡井(さいたま市、加田屋川) 煉瓦残存 | 町村土木補助費の 支弁規定改訂 |
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1896 | 6 | 1 | 四箇村水閘(春日部市、中川) | 大洪水 河川法公布 |
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1897 | 9 | 4 | 旧・矢島堰(深谷市、備前渠用水) 長楽用水掛樋(川島町、長楽用水(都幾川) 大島新田関枠(杉戸町、安戸落) 米ノ谷樋管(杉戸町、中川(旧堤) |
金本位制度確立 海老原煉瓦石製造所 |
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1898 | 15 | 3 | 五反田堰(吉見町、横見川) 吉根樋管(坂戸市、高麗川) 大小合併門樋(志木市、新河岸川(旧堤) |
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1899 | 12 | 4 | 八幡堰(伊奈町、綾瀬川) 鎌田樋管(東松山市、九十九川) 乗越門樋(富士見市、新河岸川) 北美圦樋(志木市、新河岸川(旧堤) |
治外法権撤廃 耕地整理法公布 |
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1900 | 8 | 4 | 宮田落し伏越(羽生市、宮田落〜中川の起点) 銘板のみ 岩瀬悪水圦(羽生市、岩瀬落が葛西用水を横断) 銘板のみ 横見堰 (大里町、和田吉野川) 堰柱、銘板残存 新田圦樋(志木市、新河岸川(旧堤)) |
利根川第一期 改修工事着工 |
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1901 | 19 | 9 | 松原堰(行田市) 堂前堰(行田市) 久保樋(行田市) 榎戸堰組合用水樋管(吹上町、元荒川) 宮地堰(鴻巣市、元荒川) 永傳樋管(東松山市、都幾川) 永府門樋(吉見町、市野川用水) 山王樋管(川島町、長楽用水(都幾川) 笹原門樋(川越市、八幡川?) |
八幡製鉄所 操業開始 |
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1902 | 15 | 6 | 関根門樋(行田市、関根落〜見沼代用水) 三ッ木堰(鴻巣市、元荒川) 笠原堰(鴻巣市、元荒川) 三間樋(騎西町、新川用水(見沼代)) 万年堰(宮代町、備前前堀川) 三原樋管(東松山市、都幾川) |
8 | 23,105 | 長島煉瓦工場 (吹上町)創業 |
1903 | 21 | 15 | 北河原用水元圦(行田市、中条堤(福川右岸) 秋葉前堰(熊谷市) 杣殿樋管(行田市〜熊谷市、忍川) 源兵衛門樋(行田市、見沼代用水) 落合門樋(騎西町、見沼代用水) 榎戸堰(吹上町、元荒川) 皿田樋管(蓮田市、元荒川) 高畑樋管(東松山市、都幾川) 奈目曽樋管(東松山市、都幾川) 前吐樋管(東松山市、都幾川) 前樋管(東松山市、都幾川) 矢来門樋(東松山市、都幾川) 天神沼樋(吉見町、天神沼) 京塚樋管(川島町、長楽用水(都幾川)) いろは樋(志木市、新河岸川) |
6 | 194,100 | 浅野セメント 回転窯の使用開始 |
1904 | 11 | 4 | 阻水エン塔(吉見町、大沼) 水越門樋(富士見市、新河岸川(旧堤) 山形樋門(富士見市、新河岸川(旧堤)) 千貫樋(さいたま市、荒川(旧堤) |
6 | 127,445 | 日露戦争 |
1905 | 13 | 7 | 辯天門樋(行田市、旧忍川) 笠原樋(鴻巣市、元荒川) 圦ノ上堰(鴻巣市、元荒川) 新圦(幸手市、中川(旧堤) 四反田樋管(東松山市、都幾川) 坂東樋管(吉見町、横見川) 沼口門樋(川越市、伊佐沼) |
6 | 174,416 | ポーツマス条約締結 日比谷焼き打ち事件 |
1906 | 1 | 0 | 7 | 391,683 | 鉄道国有法 | |
1907 | 9 | 2 | 庄兵衛堰枠(白岡町、庄兵衛堀川) 下柳永沼排水機場(庄和町、中川) | 8 | 401,359 | 大洪水 利根川破堤 |
1908 | 5 | 2 | 北方用水掛渡樋(羽生市、葛西用水) 瓦葺掛樋(蓮田市〜上尾市、見沼代用水) |
16 | 487,932 | 藤田煉瓦製造 平方煉瓦製造所 |
1909 | 9 | 4 | 島中領排水機場(幸手市、権現堂川) 小竹堰(菖蒲町、元荒川) 古笊田堰(久喜市、備前堀川) 弐郷半領猿又閘門(東京都葛飾区、大場川) |
13 | 473,946 | 利根川第三期 改修工事着工 |
1910 | 3 | 2 | 三軒家樋管(川越市、新河岸川放水路) 小佐衛門前伏越(吉川市、木売落) 銘板のみ |
11 | 370,882 | 大洪水 利根川破堤 |
1911 | 5 | 0 | 9 | 443,820 | 関税自主権を回復 | |
1912 | 4 | 1 | 二郷半領用水逃樋(三郷市、第二大場川) | 12 | 323,290 | |
1913 | 0 | 0 | 17 | 342,723 | 大洪水 | |
1914 | 7 | 3 | 小針落伏越(行田市〜川里町、小針落、野通川の起点) 小剣樋管(東松山市、都幾川) 二郷半領不動堀樋(三郷市、第二大場川) |
14 | 338,255 | 第1次世界大戦 |
1915 | 6 | 2 | 新久保用水樋管(菖蒲町、備前堀川) 末田用水圦樋(岩槻市、元荒川) | 12 | 332,105 | 赤堀川(利根川) の拡張 |
1916-1919 | 3 | 1 | 男沼樋門(妻沼町、利根川、1917) 銘板のみ | 赤煉瓦減産協定 (1919) |
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1920〜 | 9 | 3 | 福川樋門(行田市、福川、銘板のみ、1920) 宝珠花閘門(庄和町、江戸川、銘板のみ、1920) 矢島堰(深谷市、小山川、1926) |
秩父セメント創業 (1923) |
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不明 | 3 | 3 | 名称不明(熊谷市、荒川) 二本松圦(行田市、見沼代用水) 名称不明(菖蒲町、栢間赤堀) |
戸数、生産価額は、煉瓦製造業のもの (新編 埼玉県史 別編5 統計、1993、p.384より引用)
1902年の生産価額は疑問である(筆者の意見)。1909年以降には、耐火煉瓦も含まれている。
建設数は、明治期埼玉県の煉瓦造・石造水門建設史、是永定美/土木史研究
第17号、土木学会、1997 を基本とした。
これに現地踏査や文献調査によって存在を確認した以下の樋門を追加して集計した。
(1891)台山門樋(台山排水路→市野川、吉見町荒子) →埼玉県行政文書 明1778-57、文献39、p.840
(1894)砂村伏越樋(芝川、さいたま市見沼区砂町)
→文献5、年表
(1897)長楽用水掛樋(長楽用水、川島町) 現地踏査
(1898)騎西領用水堰(見沼代用水、騎西町 →文献5、石碑)、
中山圦(越辺川→中山用水、川島町吹塚、埼玉県行政文書 大932-2-2)
本田用水樋管(古利根川、松伏町松伏、埼玉県行政文書 明2450-8)
(1899)長楽圦樋(都幾川→長楽用水、川島町長楽、埼玉県行政文書 大839-40)
(1901)永傳樋管(都幾川、東松山市) 現地踏査
(1903)赤城樋管(荒川、川島町出丸下郷) →文献56、p.280
(1904)阻水エン塔(大沼、吉見町) 現地踏査
(1905)笠原樋(元荒川、鴻巣市) 現地踏査
沼口門樋(伊佐沼、川越市) 現地踏査
(1907)春山堀排水機場(元荒川、岩槻市)、下柳永沼排水機場(中川、庄和町)、
川辺村排水機(中川、庄和町) →庄和町庄内古川史料集、P.53-60
(1909)島中領排水機場(権現堂川、幸手市) →文献18、p.553
(1910)三軒家樋管(新河岸川放水路、川越市) 現地踏査
(1912)上ノ圦樋管(荒川、さいたま市西区宝来、埼玉県行政文書 大103-15)
武永圦(芝川、川口市青木五丁目、埼玉県行政文書 大104-19)
武江樋管?(芝川、川口市青木五丁目、埼玉県行政文書 大104-19)
(1914)小剣樋管(都幾川、東松山市) 現地踏査
中圦堰(鴻沼川、さいたま市桜区田島、埼玉県行政文書 大430-9)
郷志門樋(びん沼川、富士見市東大久保、埼玉県行政文書 大432-26)
互圦樋(綾瀬川、東京都足立区南花畑三丁目、埼玉県行政文書 大249-2) アーチリングが焼過(横黒・鼻黒)煉瓦
(1915)三ッ家堰(真名板堰、関根落、行田市真名板、埼玉県行政文書 大666-74) →文献15には1919年竣工と記されている
川辺領圦(佐波樋管)(利根川、大利根町佐波、埼玉県行政文書 大674-26)
→文献17には1913年竣工と記されている
新久保用水樋管(備前堀川、菖蒲町) 現地踏査
高木樋管(入間川、川島町出丸中郷、埼玉県行政文書 大662-49)
下ノ大圦樋(荒川、さいたま市西区宝来、埼玉県行政文書 大665-66)
(1917)本郷樋管(渡良瀬川、北川辺町本郷、埼玉県行政文書 大819-2) 本体はコンクリート、表面を煉瓦と花崗岩で化粧
(1919)馬場樋管(江戸川、庄和町西金野井、埼玉県行政文書 大915-1) 本体は土管、面壁に煉瓦
(1922)須賀川用水樋(元荒川、岩槻市新方須賀、埼玉県行政文書 大1314-5) 本体はコンクリート、表面を煉瓦と花崗岩で化粧
新田樋管(新田悪水路、松伏町築比地、埼玉県行政文書 大1314-10) 本体はコンクリート、面壁を煉瓦で化粧
鹿島樋管(鹿島悪水路、松伏町築比地、埼玉県行政文書 大1314-10) 本体はコンクリート、面壁を煉瓦で化粧
(1926)矢島堰、矢島樋管(小山川、深谷市矢島) →文献4
(1930)宮田逃樋(中川起点、羽生市) →文献17、p.1009
(1930-1933)飯積樋管(利根川、北川辺町飯積) →文献28、p.262
(1939)三領水門(荒川左岸、川口市) →荒川上流改修60年史、荒川上流工事事務所、1979、p.161
(不明)権兵衛堰(権兵衛用水路、吉見町大和田) 聞き取り調査で確認。建設は権平圦(1902年)と同時期だと思われる
煉瓦造りであったと思われる樋門等
(1910)金崎悪水吐樋管(新堀悪水路、庄和町金崎、埼玉県行政文書 明2997-171) 建設申請書はあるのだが、その後の経緯が不明
天久保樋管(見沼代用水、さいたま市上野田) →文献5、p.353 天久保用水路の元圦
(1912)屈巣沼東堰(屈巣沼、川里町屈巣〜鴻巣市郷地) 建設時期と場所から、煉瓦造りである可能性大
(1914)高坂用水元圦(都幾川、東松山市下唐子、埼玉県行政文書 大434-51)
小剣樋管の建設と同時に中居樋管の予算書が提出されているのだが、その後の経緯が不明
(1915)中渡排水機場(利根川、大利根町) 川辺領耕地整理事業によって佐波樋管と同時に建設された。
排水機場の樋門は煉瓦造りだった可能性が高い。
(建設年不詳)大曽根新々田樋管(綾瀬川、八潮市大曽根) →文献50、p.325、大正2年の調書に煉瓦土管の記述あり
(建設年不詳)西袋新田渡シ(綾瀬川、八潮市西袋、渡シは、落し?) →文献50、p.325、〃
(建設年不詳)名称不明(用水路、草加市栄町) →草加市史 資料編V、1992、口絵、煉瓦造りの2連アーチ。堰ではなく橋である可能性大