大島新田関枠 (その1)(その2)
所在地:北葛飾郡杉戸町佐左衛門(さざえもん)、安戸落 建設:1897年
幅(内法) | 高さ | 堰柱長 | 側壁長 | ゲート | その他 | 寸法の単位はm 巻尺または歩測による *は推定値 |
9.3 | 1.8 | 1.8 | 2.5(上流) 5.6(下流) |
角落し×4 | 右岸の側壁改築 ゲート増設 |
大島新田:
大島新田とは、安戸沼と倉松沼(ともに大落古利根川と中川が形成した沖積地に位置した沼沢地)を
干拓してできた地区である。町人請負の新田開発であり、享保8年(1723)に江戸柳橋の商人、
大島清兵衛が地元の安戸村の名主と共に開発に着手した。
まず、沼の周囲に北付廻堀と南付廻堀を開削し、沼への水の流入を遮断した。
付廻とは迂回路のこと、堀とは後述する落(おとし)と同じで、悪水路(排水路)のことである。
その後、沼の中央に主要排水路を掘り、堀上げ田方式で沼沢地を干拓して、約120haの新田を開発した。
これが大島新田の始まりである。ところが、それまで遊水池(兼.溜井)として機能していた安戸沼が
新田開発されたことによって、大島新田の下流の村では悪水の量が増大して、湛水被害が深刻になった。
これを解決するために、北付廻堀を安戸落へ、南付廻堀を倉松落へと導く大改修を施した。
享保15年(1730)に井沢弥惣兵衛の指揮で、安戸落に設けられた堰が大島新田関枠の発端である。
当時は扉(ゲート)が7枚であったため、七本圦と称されていた。
大島新田関枠の設計者:
当初の関枠は木製だったので腐朽が激しく、その後、幾多の改修が施されている。
明治9年(1876)にはゲート数を減らして4枚とし、さらに明治30年(1897)には県税の補助
(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て(設計者は埼玉県技手の小河原 次良一)、
木製から煉瓦造りの堰へと改良した。
これは堰形式の施設としては、矢島堰(小山川、深谷市)と並び、埼玉県で最初のものである。
なお、杉戸町の中川沿岸には、大島新田関枠と同年に3基の煉瓦樋門が建設されている。
上流から惣新田堰枠(2門)、神扇落樋管(2連アーチ)、米ノ谷樋管(箱型1口)である。
惣新田堰枠と神扇落樋管は現存していない。
神扇落樋管は門樋(逆流防止水門)であるが、天端には権現堂川用水を送水するための掛樋が
併設されていた。神扇落が中川に合流する地点には、神扇落樋管の竣工記念碑が残っているが、
それには技術官として大島新田関枠と同じく、小河原 次良一の名が記されている。
また、明治31年には大島新田関枠から700m下流に安戸落伏越が竣工している。
これは中郷用水路(葛西用水の支線)が安戸落の下を横断する伏越(使用煉瓦数33,000個)であった。
現地に残る石碑によれば、安戸落伏越の設計者も大島新田関枠と同じく、小河原 次良一である。
工事発起人:
工事発起人である八代村長、新井愛太郎は当時、埼玉県議会議員(北葛飾郡選出)を
兼任していた。竣工検査証によれば、大島新田関枠が建設されたのは、
北葛飾郡八代村大字戸島字大島新田である。八代村の村域の大半は現在は
幸手市となっているが、大島新田地区だけは杉戸町へ編入されたようである。
新井愛太郎は明治28年(1895)の埼玉県議会予算審議では、建設否決であった四箇村水閘を
可決に持ち込んでいる。四箇村水閘とは旧.田宮村(現.杉戸町)の悪水路:四ケ村落が
中川へ合流する地点に設けられた煉瓦造りの逆流防止樋門である。
なお、明治27年には安戸落が中川へ合流する地点、現.春日部市八丁目に安戸落逆水除(煉瓦造り)も
建設されている。竣工記念碑には関連町村として幸松村、田宮村、堤郷村、八代村、高野村、杉戸町の
6町村が記されているが、幸松村(現.春日部市)と八代村(現.幸手市)以外の4町村は現.杉戸町である。
新井愛太郎は安戸落逆水除の竣工記念碑には、改築主唱者として名を連ねている。
これらのことから、県議会での大島新田関枠の建設予算審議は有利に展開したと想像できる。
余談だが、上記6町村は道路元標(大正時代に設置)の現存率が高く、幸松村と杉戸町を除いた4村に残る。
大島新田関枠の特徴:
大島新田関枠は建設費
1,175円、使用煉瓦数が15,000個(表積:選一等 6,000個、裏積:普通一等 9,000個)、
ゲート3門(横6尺、高さ5尺)の小規模な構造物である(埼玉県行政文書 明2447-5)。
基礎の工法は当時一般的だった土台木である。これは地盤へ基礎杭として松丸太を打ち込んでから、
杭頭の周囲に木材で枠を組み、中に砂利や栗石を敷詰めた後に突き固めて、その上に捨コンクリートを
打設した方式である。昭和13年頃に安戸落が拡幅されたのに伴い(倉松川改修の関連事業であろう)、
右岸側の側壁はコンクリートで改築され、現在はゲートが1門増設された状態となっている。
竣工記念碑には堰枠ではなく関枠と記されていて、形態も取水堰であるが、機能的には
閘門(制水門)だったと思われる。悪水路の水位調整(北付廻堀から安戸落へ流れ込む流量を制御する)と、
安戸落の悪水が大島新田へと逆流するのを防ぐことが主な目的だったようだ。
大島新田関枠のすぐそばには、大島新田からの悪水を安戸落へと排水する施設である中水道逆除閘門が
設けられていた。このため、大島新田関枠は北付廻堀、安戸落、中水道という3つの悪水路と
中水道逆除閘門の状態を確認しながら、ゲートを操作する必要があり、運用管理はかなり複雑で
困難であったと思われる。しかも洪水時に限れば、上流側(現.幸手市)はゲート全開、
下流側(現.春日部市)は全閉を要求するのが常である。大島新田関枠のゲート操作量が
上流側の悪水排出量と下流側への悪水流入量を大きく左右させるからである。
つまり、大島新田関枠の運用管理に関しては、上下流の利害の対立にも直面することになる。
追補:大島新田関枠は土木学会の[日本の近代土木遺産]に選定された。
→日本の近代土木遺産のオンライン改訂版、書籍版は日本の近代土木遺産(土木学会、丸善、2005)。
↑大島新田関枠(上流から) 中水道(写真右方向)との水位調整、安戸落から 大島新田への逆流(写真奥から手前)の防止を担った。 右岸の側壁、堰柱はコンクリートで改築されている。 左岸は側壁と2つの堰柱が当初からの煉瓦造りである。 左岸側壁の下流側に埋め込まれた竣工記念碑には、 発起人、工事関係者と共に設計者の名も記されている。 |
↑大島新田関枠(下流から) 現在は堰柱の上に幅1.2m、厚さ0.1mのコンクリート板が 並べられ、橋桁となっている。竣工当初はこの部分には 石材が使われ、ゲートの操作台を兼ねていた。 石材の側面には施設名が刻まれていたと思われる。 写真の上部に見えるのは、旧.北付廻堀と大島新田の周囲堤。 堤は沼を堀上げた土を盛って築いたのであろう。 |
←側壁と堰柱(上流)から 側壁と堰柱はイギリス積みで組まれている。 使われている煉瓦は赤煉瓦で、平均実測寸法は220×105×55mm。 少し小ぶりで形も直方体でなく、歪んだものが多い。 表積の煉瓦は選一等焼のはずなのだが、 表面には光沢は見られず、色はくすみ加減で 鮮やかさに欠ける。この煉瓦は機械抜きではなく、 手抜きの可能性が高い。 水切りは石造りで、見事なアールが付けられている。 角落しの溝は、上流側(大島新田側)にある。 なぜか、左岸の側壁には角落しの溝が切られていない。 ゲートは幅1.8m(1間)のものを使っていたようだ。 大島新田関枠から100m南側、開閉橋(北付廻堀、昭和13年竣工)の 橋詰には明治44年(1911)に建設された煉瓦造りの樋門、 中水道逆除閘門の石碑が建てられている。 中水道は中悪水路とも呼ばれる排水路で、 大島新田からの排水のために掘られたもの。 |