元荒川 〜 前谷落から川面水門 [元荒川のページ一覧]
撮影地:埼玉県北足立郡吹上町、鴻巣市(こうのす)
↑前谷落の合流(上流から) 左岸:吹上町鎌塚一丁目、右岸:吹上町本町ニ丁目 遠所橋の上流では前谷落が元荒川の左岸へ合流する。 農業排水路である前谷落は、行田市持田に端を発し、 前谷地区を経て、途中でがんがら落を合流し流れてくる。 前谷落の流域は茫漠とした低地であり、今は水田が 広がっている。古代の荒川の氾濫原を思わせる地形だ。 前谷落の合流地点に架かるのが水鳥橋。歩行者専用の 屋根付き橋で、和風の洒落た意匠が施されている。 また、小規模だが橋上公園ともなっている。 この付近は橋名にふさわしく、水鳥の遊び場となっている。 |
↑元荒川の旧河道跡(旧上流から) 左岸:吹上町下忍、右岸:前砂 遠所橋の下流には筑波橋、砂山橋、小谷橋と瀟洒な意匠の橋が続く。 小谷橋の左岸側、国道17号線の東には約500mにわたって 元荒川の旧河道跡が残っている。これは昭和初期に 行なわれた元荒川・支派川改修事業で、元荒川の蛇行区間を 直線化したさいに残ったもの。旧河道の跡は吹上町によって、 水辺公園として整備されている。→吹上町の親水公園群 広い駐車場も完備された、閑静で素敵な公園なのだが、 住宅地に囲まれていて、場所が分かりにくいのが難点である。 この付近には前砂、砂山という地名が分布し、蛇行跡もあることから 旧荒川が氾濫したさいに、土砂を堆積させていたことが伺われる。 |
↑三ツ木堰(上流から) 左岸:吹上町袋、右岸:吹上町前砂 前谷落の合流地点から1.8Km下流には、三ツ木堰が 位置する。元荒川は三ツ木堰の下流から東へ北へと 大きく流路を変える。元荒川に囲まれた巾着袋(Ωの 形をした袋)状の地区が吹上町袋。三ツ木堰の上流側は 川幅が広く、かつての溜井の面影が今も残る。(注1) 堰の上流200mの右岸堤防には文久3年(1863)建立の 弁財天・水神宮(願主 大森鳥蔵)も残っている。 2つの神様が習合されているが、共に水の神様なので、 三ツ木堰に関して確実な取水と安全を祈願したものだろう 三ツ木堰の周辺には道祖神も多いが(注2)、これは 道中(西に中山道、北に日光裏街道)の安全祈願だろう。 現在の堰地点には2001年まで、愛乃橋堰と三ツ木堰の 2つの水門が設けられ、水門付近は狭窄部となっていた。 現在の三ツ木堰は老朽化した旧堰(煉瓦造り)の 代替施設として建設されたもので、2003年に完成した。 農業用水の取水堰で右岸の三ツ木地区へ送水する。 自然環境への配慮として魚道も設置されている。 |
↑忍川の合流(下流から) 吹上町袋 三ツ木堰から1.5Km下流では、忍川が元荒川の左岸へ 合流する。忍川は熊谷市から始まる一級河川であり、 荒川と福川(利根川水系)から取水した農業用水の流末が 流れ込んでいる。忍川は元来、行田市と川里町の境界で 星川(見沼代用水)へ合流していたが、昭和初期に実施された 元荒川支派川改修事業のさいに新しい流路(新忍川)が 開削され、元荒川へと繋げられた。新忍川は石田堤を分断して 流れている。この地点から北へ600mの堀切橋(新忍川)の 付近には石田堤の跡が広範囲に残っている。 忍城を水攻めにするために、天正18年(1590)に石田三成が 築いた堤防だ。なお、忍川の第一橋(最下流に架かる橋、 写真右上)である前屋敷橋は鉄道の古レールを再利用した 三連アーチ橋である。元荒川と支派川の改修事業では、 この周辺に古レールのアーチ橋が数多く建設された。 元荒川には上述の小谷橋、笹原橋(三ツ木堰の600m下流)、 渋井橋(鴻巣市〜川里町)が現存する。 この写真の撮影地点である元荒川橋の直下流では、 武蔵水路がサイフォン(伏越)で元荒川を横断している。 |
↑川面水門の付近(下流から) 右岸:鴻巣市川面、左岸:吹上町袋 川面とは元荒川に面した地に由来するのだろう(注3)。 忍川の合流地点から300m下流、元荒川の右岸には 川面水門(写真左端)が設けられている。この水門は 武蔵水路の左岸へ繋がっていて、大雨の時には元荒川の 洪水は武蔵水路へ放流される。つまり武蔵水路は 元荒川の放水路として機能する。武蔵水路とは 行田市須加の利根大堰から取水し、鴻巣市糠田で 荒川へ合流する延長約15Kmの都市用水路。 利根川の水は武蔵水路を経由して荒川へ送られている。 |
↑緑道さかい橋の付近(上流から) 左岸:行田市野、右岸:鴻巣市川面 緑道さかい橋から撮影。この付近の川幅は約25m。 両岸にはまだ、はっきりとした堤防は築かれていない。 周辺の後背湿地は見事な水田地帯へと変貌している。 元荒川と上越新幹線の高架橋が壮大な光景を創り出している。 緑道さかい橋は元荒川に架かる歩行者専用橋。 橋名はさきたま緑道の橋であること、架橋地点が行田市、 鴻巣市、吹上町の境(さかい)であることから、そのままに 命名されたと思われる。なお、行田市野は元荒川の左岸だが、 氷川神社が鎮座している(注4)。 |
(注1)三ツ木溜井は、武蔵国郡村誌の足立郡三ッ木村(3巻、p.259)に
”長三十八間巾二間より十間 周囲八十三間 村の西方にあり用水に供す”と
記されている。明治9年(1876)の時点で、溜井(元荒川の河道を利用した貯水池)は、
川幅の広いところで十間(約18m)、周長が八十三間(約150m)だったことがわかる。
ちなみに、三ツ木溜井の西側、前砂地区の観音堂は旧宝蔵院の跡だが、
その起源は元荒川(当時は荒川)の洪水のさいに、この地へ観音像が
流れ着いたのを祀ったことに由来するのだという。中川水系には、この種の漂着伝承が
多く、近隣では愛染堂(星川、熊谷市下川上)、天洲寺(見沼代用水、行田市荒木)、
総願寺(不動尊、会の川、加須市不動岡二丁目)にも同様な伝承がある。
(注2)三ツ木堰周辺の道祖神
袋:三ツ木堰から北へ200m、消防学校の付近:明治三十年(1897)建立
明用:三ツ木堰から北西へ600m、三嶋神社の境内:文久元年(1861)建立
三ツ木:三ツ木堰から東へ600m、三ツ木神社の境内:天明年間(1780年頃)の建立?
なお、三ツ木堰から南西へ100mには、旧中山道(県道365号線)が通っていて、
前砂バス停の付近には、一里塚(日本橋から14番目)が設けられていた。
現在はその跡形もなく、吹上町教育委員会による跡地の案内標柱が立つのみ。
前砂バス停の南側の小字名は、頭殿(づうでん)である。
埼玉県にはこれと語源が同じだと思われる通殿(づうどの)、頭殿(づどの)、
蔵殿(ぞうどの)、重殿(じゅうでん)、尉殿(じょうどの)、上殿、ソウトノなどの
地名や神社が数多く分布している。→ 通殿や頭殿について
(注3)鴻巣市川面は鴻巣市の最北端に位置し、西を吹上町、
東を行田市に囲まれ、南側を除いた3方向が元荒川に接している。
現在はすこし閑散とはしているが、箕田郷の内として、意外に
古くから開けた土地のようである。応安元年(1368)の上杉民部大輔の
寄進状に、その名が記されている(新編 武蔵風土記稿8巻、p.36)
箕田郷の地頭から、鎌倉の鶴岡八幡宮に社領として寄進されている。
(注4)吹上町袋地区も元荒川の左岸に位置するので、かつては埼玉郡袋村だった。
その村社 袋神社の前身も氷川神社であった。袋神社は大正2年(1913)に
女體、稲奈利、諏訪、天神、雷、氷川の6社を合祀したもので、
当時は女體神社(女体、如体)と称していた。
袋神社の持ち寺だった西福寺の山号は、女体山である。
女体とは古代からの信仰であり、船霊を祀る場合が多い。