新河岸川 (しんがしがわ) (源流から氷川橋まで)  [新河岸川のページ一覧

 撮影地:埼玉県川越市

 新河岸川は延長25Km、流域面積345Km2の荒川水系の一級河川。
 埼玉県川越市上野田町の八幡橋上流に一級河川の管理起点が設置されている。
 管理起点よりも上流は赤間川であり、その源流は入間川から取水する農業用水の落ち水である。
 新河岸川は川越の市街地を取り囲むように流れた後、流路を南東へと変える。
 川越市の南東部で不老川と九十川を合流し、川幅は広がり大きな堤防で囲まれるようになる。
 九十川の合流後は、荒川の右岸に並行して流れ、上福岡市、富士見市、志木市、朝霞市、
 和光市を流れ、東京都に入ってからは板橋区を流れ、最後は北区志茂四丁目で隅田川に合流する。
 河川改修によって本来の流路は大きく変更されているが、概ね武蔵野台地の崖線に沿って
 流れていて、地形は右岸側が洪積台地、左岸側が沖積低地である。

 主な支川は上流から順に真土川、不老川、川越江川 、九十川、福岡江川、砂川堀、富士見江川、
 南畑大排水路、柳瀬川、黒目川、越戸川、白子川がある。支川の大半が新河岸川の右岸へ
 合流している。右岸へ合流する支川の源流域は狭山丘陵である。
 また間接的だが、新河岸川は利根川と繋がっている。
利根大堰で取水した利根川の水が
 武蔵水路を経由して荒川へ導水され、秋ヶ瀬取水堰で取水されて、浄化用水として
新宮戸橋の
 付近(朝霞市宮戸〜志木市下宗岡)で新河岸川へ注水されている。

 派川には新河岸川放水路あり、川越市渋井からさいたま市飯田新田を結び、
 びん沼川(荒川の旧流路跡)を洪水の調節池に利用している。
 なお、新河岸川の流域は急激に都市化が進んでいるので、治水対策として朝霞市下内間木に
 荒川への放流工として朝霞水門、洪水調節として朝霞調整地を建設中である。
 これらの施設が設けられる場所は、かつて新河岸川が荒川へ合流していた付近である。

 河川名の由来:
 新河岸とは江戸中期(1700年以降)に成立した新しい河岸(かし:河川流域の物資輸送基地として
 舟運を中心に発展した集落)のことを指す。従来の河岸は幕府が設立認可し、主に年貢米の輸送で
 発展したのに対して、新河岸は民間資本によって設立され、新しいルート(水運)を開拓し、
 より迅速な物流を展開した。
その最盛ぶりから、外川(荒川の舟運)に対して、新河岸川は
 内川とも称された。もっとも元来は内川と呼ばれていた河川が、新河岸の興隆によって栄えたために
 後に新河岸川と呼ばれるようになったとの説もある。
 新河岸川には
、仙波、扇、下新河岸、福岡、伊佐島、引又、新倉など20以上もの河岸場があった。
 河岸場が置かれた場所は、支川の合流地点の付近が多く、2つの川が物流の結節点となっていた。

 新編 武蔵風土記稿(江戸時代末期の編纂)の入間郡之一(8巻、p.151)には、
 新河岸川の舟運は当時の川越藩主だった松平伊豆守信綱によって、正保元年(1644)又は
 寛文二年(1662)に始められたと記述されている。しかし、次第に川越藩の管理を離れ、
 川越の商人が中心となって運営されるようになった。舟運は江戸と小江戸(川越)を結ぶ物流の
 大動脈だったが、東武東上線の開通などにより、昭和初期には完全に消滅した
 なお、現在の新河岸川の上流部(小仙波町よりも上流)は、かつては赤間川だった。
 前掲書の大袋村には、江戸時代末期の赤間川の源流は、東陽寺の傍らの湧水であり、
 豊田本村などを流れ、最後は伊佐沼へ合流していたとある。
 東陽寺は入間川に隣接しているので、湧水の源泉は入間川であろう。

 舟運の弊害:
 新河岸川は江戸時代以降、水運主体に整備されてきたため、流路には蛇行区間が多かった。
 河道が頻繁に蛇行していると水は流れにくく、概して年間を通じて安定した水量(水深)が望める。
 なお、川越市で新河岸川に合流している九十川は、伊佐沼と新河岸川を結んだ人工河川だが、
 その起源は新河岸川の水量を増加させることと、新河岸川舟運の副水路(運河)の確立を目的として
 
江戸時代に松平伊豆守信綱によって整備されたとされる。このように新河岸川は比較的水量が多く、
 舟運にとっては好都合な河川だったが、その弊害として新河岸川では水害が多発した。
 流域の村々は自衛策として、村を囲む堤防を築き、新河岸川の水害を防いできた。
 富士見市や志木市に残る竹之内堤や佃堤がその旧堤防である。
 宗岡村(現在の志木市宗岡)のように、村全体を堤防で囲んでしまった例もある。

 これらの地域は、もともと新河岸川と荒川に挟まれた水が溜まりやすい低地だったが、洪水を
 防ぐために村の周囲を堤防で囲んだ結果、凹のような地形となってしまい、悪水(雨水や農業排水)の
 逃げ道(排水先)がなくなってしまった。村が湛水してしまうのを防ぐには、悪水を排除する必要があった。
 その対策として、旧堤防には村からの悪水を、新河岸川へと排水する樋門が数多く設けられた。
 新河岸川流域の旧堤防には、そのような治水の歴史を偲ばせる煉瓦や石造りの水門(明治期に建造)が
 数多く残っている。一例を挙げると、沼口門樋笹原門樋三軒家樋管(以上、川越市)、
 水越門樋山形樋門乗越門樋(以上、富士見市)、大小合併門樋北美圦樋新田圦樋籠嶌樋管
 いろは樋(以上、志木市) である。ただし、乗越門樋といろは樋は一部残存。

 新河岸川の近代改修:
 新河岸川は大正時代末期まで、北足立郡内間木村(現在の朝霞市下内間木付近)で、荒川に合流していた。
 そのため下流部では荒川からの洪水流の逆流に悩まされ、一方で
周辺地域は右岸側の台地から
 流れ込む支川の洪水によって
常襲的に湛水被害を受けていた。旧態化した新河岸川の河道では、
 洪水の流下能力が不足し、すでに限界に達していたのである。つまり新河岸川は外水による洪水が
 頻発し、同時に内水氾濫による湛水が長時間化し、まさに二重苦の状態だった。

 当時、東京都の区間の荒川では国直轄による荒川放水路の建設工事が進められており、
 付帯工事として新河岸川の荒川からの分離が実施された。朝霞市から岩淵水門まで
 現在の新河岸川の流路(約10Km)は、こ
の改修工事のさいに開削された。
 これを受けて、埼玉県では新河岸川の上流改修の工事を、大正10年(1921)に着工し、
 昭和6年(1931)に竣工した。これは埼玉県が同時期に実施した13河川改修事業の一つに
 位置付けられている。赤間川を新河岸川へ繋げ、九十九曲りと称された新河岸川の蛇行部分の大半を
 直線化し、併せて築堤が施された。蛇行をショートカットして直線化した河道のことを、土木用語では捷水路という。
 以上をまとめると、現在の新河岸川の流路は、上流部(ほぼ川越市の区間)は赤間川と新赤間川(人工水路)、
 中流部は旧流路の蛇行を改修、下流部(ほぼ東京都の区間)は人工水路で成り立っている。

 いろは橋(志木市)の左岸橋詰には、改修工事の竣工記念碑である新河岸川改修碑(昭和6年建立、
 題字は内務省土木局長
 丹羽七郎)が設置されている。その碑文には、蛇行の除去によって
 新流路の総延長は従来よりも二里二十三町(約10Km)も短くなったとある。
 また、碑文には
”促機運之熟成則斎藤翁之力与居多”とあるが、新河岸川治水会の結成、
 県議会への改修工事実行の働きかけなどに人力を尽くしたのは、地元の北足立郡馬宮村
 (さいたま市飯田新田)出身の県会議員、斎藤祐美だった。斎藤はその功績から治水翁と称された。

 新河岸川の源流部
(1)新河岸川の源流部(上流から) 川越市豊田本
 尚美学園大学から南へ200m付近。入間川が形成した沖積
 低地には、一面に水田が広がっている。かつては川越藩の
 穀倉地だったのだろう。この中に流れる数多くの
 農業用水路や排水路の落ち水が赤間川へ合流し、
 やがて新河岸川となる。水田の傍らには小さなポンプ小屋が
 目に付くが、用排水に問題があるのだろうか。
 白髭神社の付近には、路傍に
水神宮が祀られている。
   新河岸川の管理起点
  (2)新河岸川の管理起点(上流から)
   左岸:川越市上野田町、右岸:川越市野田町一丁目 
   (1)から1.4Km下流。八幡橋(やわた)の上流50mで、右岸へ
   都市下水路が合流する。合流地点が新河岸川の一級河川の
   管理起点であり、標石が設置されている。写真の右側が下水路、
   野田町の段丘崖に沿って流れているが、延長は意外に短く
   約1Km、野田中学校の南側で終わっている。
   八幡橋の下流で新河岸川はJR川越線、東武東上線を横断する。
   東上線の
赤間川橋梁は大正3年(1914)建設で、橋台は煉瓦造だ。

 黄金橋の付近
(3)黄金橋の付近(下流から)
 右岸:川越市末広町三丁目、左岸:川越市月吉町
 (2)から900m下流、川幅は約7m。黄金橋(こがね)は
 星野女子高の南側に架かる。昭和36年(1961)竣工だが、
 銘板には河川名が
赤間川と記されている。下流の石原橋
 付近の右岸に設けられた親水公園の名も赤間川公園だ。
 赤間川は入間川からの伏流水や農業用水の余水を
 水源とする(注1)。昭和初期に治水対策として、それまで
 まったく別の川だった赤間川を新河岸川に繋いだ(注2)
. かつては新河岸川の起点は
伊佐沼だった。
 星野女子高の西、お茶屋橋の上流側では左岸へ
 真土川が合流している。川越水上公園の付近から
 流れて来る川だが、実態は農業排水路である。

   
濯紫公園(たくし)の付近
  (4)濯紫公園(たくし)の付近(下流から)

   右岸:川越市喜多町、左岸:川越市石原町一丁目
   (3)から800m下流。坂下橋の右岸上流に濯紫公園(親水公園)が
   ある。公園名は、この付近に柳沢吉保(のちに大老)の家臣の
   別荘、濯紫園があったことに由来する。玉石積みの護岸と
   階段護岸、遊歩道が施されていて、水辺を身近に体験できる。
   また、新河岸川の下流には東明寺橋、道灌橋など、
   
景観に調和したデザインの橋が架けられている。
   ここから300m南東は[札の辻]で、高札場があった所だ。
   川越の市街地には、蔵造りの街並みの中に
古い洋館が数多く残る。
   新河岸川に流れる水は透明度が非常に高く、
   橋の上からでも、放流された鯉が泳ぐのが見える。
   水辺に集まる水鳥(鴨やアヒル)の多さにも驚かされる。

 田谷堰の付近
(5)田谷堰の付近(上流から)
 左岸:川越市宮元町、右岸:川越市志多町
 (4)から600m下流。概ね北へ向かって流れてきた新河岸川
 だが、この付近から流路は南へと向かう。ここは新河岸川の
 最北端である。
田谷堰はその変曲点に設けられている。
 昭和13年(1938)に建設された農業用水の取水堰で、
 左岸の3基の樋管へ送水する。堰の下流側には田谷橋が
 併設されていて、橋の銘板には河川名が新赤間川と
 記されている。この付近の川幅は約9m、昭和初期の
 河川改修の痕跡が、いまだに残っている区間だ。

   氷川橋の付近

  (6)氷川橋の付近(下流から)
   右岸:川越市宮下町二丁目、左岸:川越市氷川町
   (5)から400m下流。新赤間川(開削された水路)の区間。
   氷川橋の右岸橋詰には、氷川神社が鎮座する。
   境内の新河岸川寄りには
弁才天と水神社が祀られている。
   氷川橋は旧上尾街道(現在は県道51号川越上尾線)に架かり、
   氷川神社の神橋(参詣橋)的な役割を果たしている。
   擬宝珠(ぎぼし)が設けられるなど、和風のデザインとなっている。
   新河岸川には景観整備がなされていて、両岸には桜が植樹され、
   護岸には木杭や板が用いられている(河川断面は複断面)。

(注1)八幡橋(上野田町)の上流で2つの流れが合流しているが、そこから下流が
  一般的に新河岸川と呼ばれている。時代を経て周辺環境や社会環境の変化などから
  新河岸川の管理起点は、より上流へと移動している。合流する2つの流れのうち、
  北側を流れるのが赤間川である。川越市内を上野田、豊田本、大袋と西へ向かえば、
  赤間川の流れを辿れるが、増形や藤倉地区に入ると、流れが細流となるうえに、
  多くの用水路や排水路が合流しているので、探索はかなり複雑になる。
  これらの水路は上奥富用水堰(入間川、狭山市柏原〜奥富)から
  取水した農業用水の流末である。なお、川越市内のこれらの用水路
  (赤間川の源流)沿いには、江戸時代に建てられた
石橋供養塔が数多く残っている。
  用水路に架けた石橋を供養(竣工記念と安全祈願等)したものである。

(注2)かつての赤間川は伊佐沼に流れ込んでいたわけだが、
  昭和初期の河川改修のさいに、田谷堰の付近で塞き止められ、
  新赤間川を開削して、流れ込む先を新河岸川へ繋ぎ変えられた。
  洪水で赤間川が増水すると、流入先の伊佐沼はあふれ、周辺地区は
  湛水状態に陥っていたという。
  改修前:赤間川→伊佐沼→九十川→新河岸川
  改修後:赤間川→新赤間川→新河岸川
  改修前の新河岸川は伊佐沼を介在し、そこへ流入する赤間川と流出する九十川で
  構成されていたわけだが、改修後の水系では伊佐沼は切り離されている。
  厳密には新河岸川の支川である九十川へは、大樋圦を介して伊佐沼の水が
  導水されるので、新河岸川は完全に伊佐沼から切り離されたわけではない。
  改修前の新河岸川のように、沼へ流入する河川と沼から流出する河川で
  構成された河川形態(沼が自然湖沼か人工湖かは別として、沼には
  洪水の調節機能がある)は、中川水系ではさほど珍しくない(
中川青毛堀川
  
原市沼川などがある)が、荒川水系では珍しい。
  なお、赤間川の旧流路は
旧赤間川として今も残っている。
  概ね県道51号川越上尾線に沿っている。


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