石仏、水辺の神様 (その2)_ | 水辺の神様の一覧 |
↑水死男女菩提 利根川(左岸) 群馬県邑楽郡千代田町舞木 利根川の左岸堤防の裾、 円福寺の門前。 天明三年(1783)七月八日建立 浅間山の噴火による水死者を 供養したもの。この付近にまで 水死体が流れ着いたのだろう。 |
↑義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうが) 埼玉県幸手市北一丁目、正福寺 埼玉県指定旧跡。天明三年の 浅間山噴火が原因の飢饉の さいに、幸手町の有志が難民を 救済した。発起人は知久景信(注)。 この善行を褒め、関東郡代の 伊奈氏が建てた碑。 高さ173cm、幅88cmと大きい。 |
↑百体観音堂 埼玉県児玉郡児玉町小平 小山川の右岸には、山の中腹に成身院がある。 その百体観音堂は、さざえ堂と称され、外観は 2層だが内部は3層の螺旋構造となっている。 天明三年の浅間山噴火の死者を弔うために、 各地から寄付を集めて建立された。 (注)知久家の先祖は信濃国伊那郡(現在の長野県の 一部、伊奈氏の領地だった)の出身である。 知久家は幸手宿の名主や本陣を努めている。 |
↑水難供養塔 利根川(左岸) 群馬県邑楽郡千代田町上五箇 利根川の左岸堤防付近、長性寺 本坊跡。明治十三年(1880)の 洪水で利根川の堤防が208間に わたり破堤し、19人が亡くなった。 その弔いのため、地元の人々が 大正二年一月に建立。 高さ109cm、幅43cm。 |
↑大洪水溺死供養 烏川 群馬県藤岡市立石新田、信迎庵 信迎庵は烏川の右岸堤防に隣接する。 この供養塔は明治43年(1910)の洪水 での死者を弔うために、地元の人々が 大正十五年三月に建立 高さ155cm、幅30cm。 信迎庵には2基の橋供養碑もある。 |
↑勝軍地蔵尊 谷田川、群馬県邑楽郡板倉町下五箇 谷田川の右岸堤防の裾、長良神社の脇。 板倉町指定重要文化財の馬に乗ったお地蔵さん。 元禄十二歳(1699)十一月二十四日 施主 丸谷村中 奇しくも→の勝軍地蔵と同じ年の建立である。 本来、勝軍地蔵は戦国武将などに信仰されたのだと いうが、この地蔵の建立は丸谷村である。 |
↑勝軍地蔵 埼玉県北埼玉郡北川辺町小野袋 谷田川の右岸堤防の裾、八幡宮。 元禄十二年 |
↑線刻勝軍地蔵 埼玉県北埼玉郡北川辺町麦倉 利根川の左岸堤防の近く、 内野集会所(薬師堂)。文久三年 |
↑水神宮と風天宮 利根川(利根川橋の下流左岸) 群馬県邑楽郡明和町斗合田 手前が水神宮、奥が風天宮。天明年間に建立?。 この付近では昭和初期まで、斗合田の渡し(渡船)が 運営されていた。これらは水運の安全を 祈願したものだろうか。明治から大正期にかけて 利根川には永久橋は、ほとんど架けられなかったので 渡しは埼玉県と群馬県を結ぶ唯一の交通手段だった。 この付近の利根川の両岸には水神宮と風天宮が 数多く分布している。→利根川流域の水神宮と風天宮 |
↑雷電社 埼玉県行田市須加 利根川の右岸堤防の近く。神社といっても小さな祠 (享保二年建立)が祀られているだけだが、鳥居は立派である。 敷地内には明治時代初期の様式である几号(きごう)を持つ測量の 水準点がある。標石には(不:几号、B.M.、基標 No.29、埼玉縣)と 刻まれている。几号水準点とは、お雇い英人の指導で実施された 全国測量のさいに設置されたのが起源。利根川の右岸には几号が 付いた水準点が数多く分布していて、行田市北河原や 深谷市江原などにもある。几号水準点については以下のページが詳しい。 おもしろ地図と測量(http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/) |
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