埼玉県の煉瓦水門 〜 レンガ造りの樋門・樋管、堰、伏越 (水系別の分布)
利根川水系:
利根川(本川)に建設された煉瓦樋門は、意外なことに、ほとんどが農業用水の取水施設(元圦)である。
それらは起源が1600年頃まで遡れる古い元圦で、取水方式は利根川には堰を設けない自然流入式であった。
備前渠圦樋(本庄市、1887年)、見沼代用水元圦(行田市、1906年)、羽生領用水元圦(羽生市、1891年)、
葛西用水元圦(羽生市、1894年)、稲子圦(羽生市、1907年)、川辺領圦(大利根町、1915年)、
飯積樋管(北川辺町、1933年?)などの施設が、煉瓦造りで改修されている。
備前渠圦樋と飯積樋管を除く5樋門は、現在では利根大堰に合口されている。
合口はされてはいないが、利根大堰と関連が深い利根加用水の元圦(群馬県千代田町)も
大正4年(1915)には煉瓦造り(2連アーチ)で改修されている。(→群馬縣邑楽郡誌、1917、p.24)
なお、羽生領用水には、羽生領用水元圦と稲子圦の2つの元圦があったようである。
稲子圦は羽生領の北部地域のための用水(北方用水)の取水口であり、寛文年間(1670年頃)に
新たに利根川から取水を始めた。羽生領の北部は元々は、北河原用水からの余水に
依存した水利体系であり、不安定かつ恒常的な用水不足に苦心していたので、その対策である。
稲子用水は利根川から取水し、北方用水へ合流する加用水であり、実質的な水路延長は1Km足らずであった。
利根川の右岸に排水や逆流防止のための煉瓦樋門が設けられなかったのは、利根川の河床が高く、
自然排水は不可能という地形的理由も大きいが、最も大きな要因は中条堤(妻沼町〜熊谷市)の存在であろう。
明治時代末期までは、中条堤と周辺に分布する控堤(村囲堤)によって中規模までの洪水に対しては、
ある程度の防御(遊水機能)を果たしていたと思われる。遊水は利根川の洪水が治まった後に
福川や中川水系の河川から排水されていた。
中条堤が機能を失う大正期には、1909年の利根川第三期改修工事(国営)の着工に伴い、
男沼樋門(妻沼町、1917年)、福川樋門(行田市、1920年)が建設されている。
男沼樋門は利根川への排水、福川樋門は利根川から福川への逆流防止のための施設である。
なお、男沼樋門は純煉瓦造りの樋門としては(筆者の知る限り)、埼玉県で最後に建設されたものである。
利根川(本川)には、埼玉県で最初の煉瓦樋門(備前渠圦樋)と最後の煉瓦樋門が建設されたことになる。
利根川水系の煉瓦樋門は、支川の小山川と派川の江戸川にも建設されている。建設年度が割合に
古いのが特徴である。小山川には四王天圦(岡部町、1895年)、田外圦樋(岡部町、1896年)、
西田堰圦(岡部町、1897年)、矢島堰(深谷市、1897年)、十篠樋管(美里町、1901年)、
小茂田堰圦(美里町、1901年)などが建設された。十篠樋管以外は全てが農業用水の取水施設である。
江戸川には木津内樋管(杉戸町、1890年)、中島樋管(幸手市、1896年)、馬場樋管(庄和町、1919年)、
宝珠花閘門(庄和町、1920年)が建設された。宝珠花閘門(陸閘)以外は全てが農業用水の取水施設である。
なお、現在は宝珠花閘門は施設そのものが現存しないが、それ以外は矢島堰を除いた全てが
コンクリートで全面改修されている。
荒川水系:
荒川(本川)の煉瓦樋門は、排水・逆流防止用の大規模なものが多く、中・下流部を中心に30基以上が
建設された。煉瓦樋門の形式はアーチ型の通水断面に、木製の観音開きゲートが多かった。(→文献59、p.131)
半数以上が明治20年代までに建設されたこと、中流部(大里町〜上尾市)では右岸側に
集中して建設されたこと、下流部(さいたま市〜東京都境)では旧.大宮市、旧.浦和市、川口市、
戸田市の建設数が多かったことが特徴である。
荒川中流の右岸には大きな支川(和田吉野川、市野川、入間川。いずれも荒川の瀬替えに直接関係する)が
合流していて、この付近は頻繁に堤防が決壊していた。つまり荒川の水防最重要箇所であった。
荒川は河床高が低く、両岸との比高差は大きい。そのため、歴史的に農業用水の取水は困難であり、
唯一の取水施設は川本町、熊谷市、江南町に設けられた六堰(江戸時代初期の創設)であった。
六堰関連の施設は成田堰(熊谷市、1898年)、吉見堰(江南町、1895年、万吉堰とも呼ばれた)、
村岡樋管(熊谷市、1891年)の3基が煉瓦造りで改良されている。このうち、成田堰と吉見堰は
六堰用水に属する用水路の施設なので名称は堰となっているが、建設されたのは取水堰ではなく、
元圦(用水路入口の樋管)であった(→文献22、p.100、文献23)。村岡樋管は吉見堰用水が
村岡堤(荒川右岸の村囲堤)を横断する地点に設けられた樋管(カルバート)である。
なお、中川水系に分類したが、秋葉前堰(熊谷市、1903年)は実質的には成田堰用水の施設である。
元圦の取水方法は、荒川の河道を部分的に塞ぐ小さな洗堰(固定堰)を設け、そこから堤外水路(河川敷に
設けられた導水路)を使って、圦樋(荒川の堤防に埋め込まれていた樋管)まで送水していたと思われる。
熊谷市付近の荒川は扇状地河川から移化帯河川への移行部であり、河床勾配が急激に緩くなり、
河道には大きな砂州が形成されているので、洗堰の形式は浅瀬を利用した斜め堰であったと思われる。
文政年間の調査を元に編纂された新編武蔵風土記稿の大里郡大麻生村(11巻、p.98)には
大麻生堰(六堰のひとつ)の規模が長十間、幅五間と記されているので、荒川の川幅三十間に
比べれば小さな堰であり、荒川の河道を塞いでしまう程の規模ではない。
明治年間の施設規模もおそらく、この記述と大差はなかっただろう。
ちなみに明治時代中期において、荒川に堤防が築かれていた最上流端は左岸が成田堰の
付近(熊谷市広瀬)、右岸が吉見堰の付近(江南町押切)だったが(→文献9)、六堰の取水口付近は
どれも堤防に開口部があり、霞堤のような形態となっていた(迅速測図などによる)。
成田堰と吉見堰は昭和初期に大里用水(六堰用水)として、六堰頭首工(花園町〜川本町)へ合口された。
余談:六堰用水には荒川左岸側に4つの用水路があるが、それら全てが秩父鉄道を横断している。
成田堰用水を除く3用水には、1901年建設のポーナル型プレートガーダー橋(煉瓦橋台)が架けられている。
荒川水系の煉瓦樋門は荒川(本川)には2基しか残っていないが(共に左岸側)、
支川の都幾川と新河岸川、それと市野川の流域(どれも荒川の右岸側)に数多く残っている。
変則積み(翼壁の天端付近がイギリス積みではない)の樋門が多いのが特徴である。
都幾川に残る樋門は東松山市に偏在する。ほとんどが農業用で現役の施設として機能している。
東松山市の市域には都幾川に5基の斜め堰が設けられているが、それらから取水する用水路の
全てに煉瓦樋門が残っている。農業用水は都幾川から自然流入方式で取水されていて、
斜め堰(固定堰)から堤外水路を経由し、堤防に設けられた煉瓦樋門まで導水されている。
これは荒川本川の六堰用水のミニチュア版ともいえる。
中川水系では農業用水の取水が貯留方式(河道を溜井とし、溜井の末端に煉瓦造りの
可動堰を設けて堰上げする)であるのと対照的である。
市野川流域には吉見町に5基の煉瓦樋門が残っているが、そのうち4基が農業用である。
新河岸川の樋門は排水・逆除用が多く、旧堤(河川改修前の堤防)に残されている。
どれも輪中堤防に設けられた内水排除のための樋門である。
新河岸川流域は煉瓦水門の建設当時とは、比べものにならないくらい宅地化が進行しているので、
住宅地の中に旧堤防と明治期の樋門が取り残された、ドラマチックな景観を堪能できる。
少し皮肉な見方をすれば、地域から孤立した無縁な存在になっている(笑)。
当時の新河岸川は宗岡村(現.志木市)の東端で荒川の右岸へ合流していた。
この地域は、新河岸川左岸に設けられていた控堤、佃堤の存在が煉瓦樋門の建設を加速させたともいえる。
控堤とは堤内地(河川敷ではなく住宅地の側)に、本堤(本川の堤防)と直角方向に設けられた堤防であり、
本堤が破堤した場合に洪水流の流下を防ぐためのものである。このような二重に防御した堤防のことを
二線堤ともいうが、裏返せば、それほど本川の堤防は破堤しやすかったということである。
また控堤の上流に位置する地域の洪水流や悪水の流下は、控堤の存在によって阻害される。
このような背景があったので、佃堤を挟んで上流の南畑村(現.富士見市)と下流の宗岡村(現.志木市)は
競うように、木製の樋門を煉瓦造りへと改築したようである。その引き金となったのが、1898年に宗岡村に
建設された大小合併門樋であった。これに対し、南畑村は翌1899年に乗越門樋を建設している。
荒川の中流右岸の大里町、吉見町、川島町でも競うように、煉瓦樋門が数多く建設されたが、
建設の動機は南畑村と宗岡村の例とよく似ている。大里町では和田吉野川、吉見町では市野川、
川島町では入間川が荒川の右岸へ合流する付近に、大規模な門樋(逆除け水門)が建設されている。
中川水系:
一方、利根川と江戸川と荒川に挟まれた中川(旧.島川、旧.権現堂川、庄内古川)は、往古の利根川と
荒川の流路跡であり、埼玉県で最も標高の低いところ(0m〜15m)を緩勾配で流れている。
このため、中川は大雨で増水すると水流が滞留して、なかなか減水しなかった。中川の流域は中小河川や
沼沢地が多く分布する低湿地だったので、平水時でも水はけが悪く、湛水被害(排水不良)に悩まされていた。
冠水によって水田や畑の作物が収穫皆無になる、いわゆる水腐地や水損場が非常に多かった。
二年に一回あるいは三年に一回の収穫があれば上出来、という農地も少なくなかったのである。
この地域が恒常的な湛水被害に悩まされたことは、農作業や水害対策に船が欠かせなかったことが
裏付けている。武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)によれば、中川や元荒川の流域では
耕作船(田舟)や水害予備船(揚舟)の所有数が他地域に比べて、非常に多いことがわかる。
水はけが悪い沼地に作られた田んぼ(深田)では、農作業をしようとしても腰まで水に浸かってしまう。
そのような田んぼでは、耕作船を使っての農作業が行なわれていた。耕作船は浚渫船の役割も
果たした。浚渫とは川底に溜まったヘドロを除去することで(浚いと呼ばれる)、ヘドロは肥料として使われた。
一方の水害予備船とは文字通り、水害に備えて各戸が所有する船のことである。
普段は船を家屋の軒先などに吊るして保管しておくが(揚舟)、水害時には、この船を軒から降ろして使った。
大正末期までは、埼玉県の北東部を流れる権現堂川は利根川の派川、南東部を流れる庄内古川は
江戸川の支川であり、共に大河川からの背水の影響下にあった。特に下総台地を流れる江戸川は
天明3年(1783)の浅間山噴火の降灰による河床上昇以来、年々土砂が堆積し天井河川化していた。
江戸川の水位が常に高いので、庄内古川の周辺地域は慢性的な排水不良だけでなく、江戸川からの
洪水の逆流にも悩まされていた。広域的な見方をすれば、中川流域は利根川・江戸川の
右岸堤防と荒川の左岸堤防とに囲まれた輪中にも似た広大な堤内地であり、
外水による洪水と排水不良による内水被害という2つの危機に瀕していたのである。
埼玉県にとって、利根運河(1890年竣工)の存在も悩みの種だった。
埼玉県は利根運河の計画段階時から利根運河を経由して江戸川へ洪水が流入してくる可能性を
危惧していた。利根運河は江戸川から利根川方向へと水が流れるように計画されていたのだが、
明治27年(1894)には閘門の機能が不完全なために、洪水時に利根川の水が利根運河を
伝わって江戸川へ流れ込んでいる。明治27年の埼玉県議会では、このことについての答弁が
おこなわれ、機能が不完全な利根運河の閘門(野田市の利根川右岸付近にあった水堰のこと)を、
埼玉県の技師の設計で改修する旨が埼玉県の書記官から報告されている。
”閘門ノ件ニツイテハ千葉県デ承諾シマシテ、本県技師の設計デ、千葉県デ改造スルコトニナリマシタ”と、
記録が残っている(→埼玉県議会史 第一巻、1956、p.285)。
しかし明治29年(1896)の洪水で再び、利根川の水は利根運河を経由して、江戸川に流れ込み、
その結果、北葛飾郡三輪野江村(現.吉川市三輪野江)付近の江戸川の右岸堤防は決壊している。
この原因は利根運河の存在にあるとして、埼玉県議会では内務大臣 樺山資紀に宛て、
”利根運河会社ヲシテ閘門ヲ増設セシムル建議”を提出している(→埼玉県議会史 第2巻、1956、p.467)。
適切な場所にもう1基、閘門(水位調節堰)を増設することを要求したのである。
この建議(陳情)は通らなかったようで、さらに明治31年(1898)には内務大臣 西郷従道に宛て、
”利根運河閘門移設ノ建議”を提出している(→埼玉県議会史 第2巻、1956、p.727)。
以後、この建議は明治32年から34年にかけて、毎年提出されている。
明治29年の洪水以降、利根運河の流れは恒常的に逆流(設計当初とは逆に利根川から江戸川へと
流れる)するようになったと云われている。
中川水系は治水と排水不良に苦しむ反面、恒常的に農業用水が不足する地域でもあった。
農業用水路の形式は用排水兼用が多かったが、用排水兼用では用水の充分な取水も、
排水の安全な流下も共に不完全だったのである。
用水の管理に万全を期すためには、常に排水の処理を念頭におく必要に迫られた。
中川水系の最大の特徴は、沼沢地干拓のための悪水路(堀、落し)に設けられた排水樋門と
用悪水路をせき止めて取水する可動堰の多くが、煉瓦造りで改良されたことである。
中川水系では可動堰(取水堰)の残存数が極めて多い。悪水路に設けられた取水堰の存在と
それを許容してきた歴史が、この水系全体の用水不足を象徴している。
見沼代用水や葛西用水といった大用水路でも、末端の支線までは完全に用水が到達しなかった。
そのため、悪水(本来なら排水すべき水)を堰き止めて、用水として利用してきたのである。
取水堰は悪水の流下を阻害する最大の原因でもあったが、近世から踏襲されてきた水利システムであった。
逆に見れば、当時の技術では利根川や荒川のような大河川には可動堰の建設は不可能だったともいえる。
中川流域には見沼代用水と葛西用水という日本最大級の農業用水路が存在し、
見沼代用水の排水は堀や落し(農業排水路)を経由して、大落古利根川(葛西用水)に集められる。
大落古利根川が最終的に落ちる先が中川である。このように、農業用水の広域的な反復利用が
おこなわれてきた特異な地域である。しかも中小河川や用排水路が数多く分布するので、それらの
交差箇所も少なくなかった。それを反映してか、樋門、堰、伏越、掛樋、逃樋、閘門、排水機場と
あらゆる形式の河川構造物が煉瓦造りで建設されている。
神扇落樋管(神扇落→中川、杉戸町、1897年)や北河原用水伏越・逃樋(北河原用水→見沼代用水、
行田市、1907年)、松高圦(八間堀と根用水路、吉川市、1907年)のような、当時としては珍しい形式の
煉瓦構造物も作られている。
神扇落樋管は2連アーチの門樋(逆流防止水門)であるが、天端には権現堂川用水を送水するための
掛樋(水路橋)が併設されていた。北河原用水伏越・逃樋は北河原用水が見沼代用水と交差する地点に
設けられ、伏越が鉄管、逃樋が煉瓦造りであった。松高圦は八間堀の下を根用水路が
横断する箱型2連の伏越だが、1連が伏越、もう1連が逃樋(余水吐き)となっていた。
松高圦の設計図は埼玉県立文書館に保管されている(埼玉県行政文書 明2516-20)。
また、埼玉県の煉瓦樋門にしては、凝ったデザインのもの(翼壁、側壁が曲面施工)や
明治20年代に建設された古い樋門(黒い煉瓦が使われている)が残っているのも、中川水系の特色である。
また、庄内古川(現.中川)流域には、明治期に5ケ所、大正末期には9ケ所に排水機場(機械排水)が
設置されていたとの記録がある(→文献17、p.673)
中川水系の煉瓦樋門は、中川、見沼代用水の周辺、元荒川に(一部残存だが)数多く残っている。
中川の本川は大正末期から昭和初期にかけて、大規模な河川改修がおこなわれているのだが、
撤去されずに、今もなお現役で使われている樋門が多いのは意外である。
しかも、五ヶ門樋を筆頭に、四箇村水閘、米ノ谷樋管と明治30年以前の希少な樋門が残っている。
見沼代用水には、幹線水路に10基以上の煉瓦樋門が設けられていたが、現存するのはわずかであり、
それも一部残存なので、現在も使われている施設は一つもない。
しかし、見沼代用水と密接な関係を持つ星川と忍川の周辺には、数多くの煉瓦樋門が残っている。
元荒川には、農業用水の取水堰とその関連施設が数多く建設されたが、そのほとんどが現存する。
特に上流部の吹上町、鴻巣市、菖蒲町のわずか12Kmの区間には、5基の煉瓦堰が群として残る。
河道に溜井(ためい)と呼ばれる貯水池を併設し、用排水を反復利用しているのが特徴的である。
取水堰は溜井の下流側に設けられるので、堰の平面形状は側壁が樋門の翼壁のように八の字の形をしている。
埼玉県史上最大の煉瓦堰、末田須賀堰(岩槻市、1905年、10門、現存せず)が建設されたのも、元荒川である。
なお、元荒川は水量が少ないうえに、上流に5つもの堰が設けられていて水をせき止めてしまうので、
最下流の末田須賀堰では、かんがい期になると用水不足に悩まされたようである。
末田須賀堰から取水している越ヶ谷町や大沢町の関係者(町村長や助役)が、上流5堰のゲートを
開放してもうらうようにと行脚した記録も残されている。(→大正五年 旱魃水貰日記、葛西用水史 資料編下巻、p.1464)
水系 | 河川名 | 現存する煉瓦水門(所在地、建設年、備考) | 関連ページ |
利根川 | 利根川 | 男沼樋門(妻沼町、1917、銘板のみ) | 利根大堰 利根運河 |
小山川 | 旧・矢島堰(深谷市、1897、備前渠用水、側壁と堰柱残存) 矢島堰(深谷市、1926?、小山川、煉瓦と笠石) |
備前渠用水 日本煉瓦製造 |
|
福川 | 北河原用水元圦(行田市、1903、中条堤) 福川樋門(行田市、1920、銘板のみ) | 中条堤 北河原用水 |
|
権現堂川 | 島中領排水機場(幸手市、1909、銘板のみ) | 権現堂堤 稲荷木落 |
|
江戸川 | 宝珠花閘門(庄和町、1920、銘板のみ) | ||
中川 | 中川 | 宮田落し伏越(羽生市、1900、葛西用水を横断、中川の起点、銘板のみ) 新圦(幸手市、1905) 米ノ谷樋管(杉戸町、1897) 四箇村水閘(春日部市、1896) 五ヶ門樋(庄和町、1892、非・赤煉瓦) 下柳永沼排水機場(庄和町、1907) |
新・槐堀川 手子堀川 午の堀川 |
安戸落 | 大島新田関枠(杉戸町、1897) | 竣工記念碑 | |
葛西用水 | 北方用水掛渡樋(羽生市、1908、橋脚残存) 岩瀬悪水圦(羽生市、1900、銘板のみ) 谷古田領元圦(越谷市、1891、非・赤煉瓦) |
埼玉用水 | |
大落古利根川 | 倉松落大口逆除(春日部市、1891、旧倉松落→大落古利根川、非・赤煉瓦) | 葛西用水 会の川 | |
備前前堀川 | 万年堰(宮代町、1902、銘板、水切り残存) | 騎西領用水 | |
備前堀川 | 古笊田堰(久喜市、1909) 新久保用水樋管(菖蒲町、1915) | ||
庄兵衛堀川 | 庄兵衛堰枠(白岡町、1907、埋没) | 隼人堀川 | |
見沼代用水 | 源兵衛門樋(行田市、源兵衛落、1903、塔残存) 二本松圦(行田市、不明、煉瓦残存) 関根門樋(行田市、関根落、1902、塔残存) 落合門樋(騎西町、1903、埋没) 三間樋(騎西町、新川用水、1903、埋没) 瓦葺掛樋(蓮田市〜上尾市、1908、橋台・翼壁残存) 〆切掛渡井(さいたま市、加田屋川、1895、煉瓦残存) |
見沼代用水元圦 笠原樋管 八間堰 柴山伏越 |
|
星川 | 秋葉前堰(熊谷市、1903、曲面) 松原堰(行田市、1901、埋没、曲面) 堂前堰(行田市、1901、埋没、曲面) 久保樋(行田市、1901、門柱残存) |
新星川 中ノ目堤 |
|
忍川 | 杣殿樋管(行田市〜熊谷市、1903、忍川) 辯天門樋(行田市、1905、旧忍川、曲面翼壁) 小針落伏越(行田市〜川里町、1914、小針落→旧忍川→野通川) |
旧忍川 酒巻導水路 石田堤 |
|
元荒川 | 榎戸堰組合用水樋管(吹上町、1901) 榎戸堰(吹上町、1903、側壁残存) 三ッ木堰(鴻巣市、1902、撤去) 宮地堰(鴻巣市、1901、側壁残存) 笠原堰(鴻巣市、1902、側壁残存、曲面) 笠原樋(鴻巣市、1905) 圦ノ上堰(鴻巣市、1905、門柱のみ) 小竹堰(菖蒲町、1909、堰柱残存) 皿田樋管(蓮田市、1903、円形) 末田用水圦樋(岩槻市、1915、銘板のみ) |
元荒川の起点 沼田堤 赤堀川 野通川 小針落 長野落 関根落 |
|
栢間赤堀 | 名称不明(菖蒲町、不明、煉瓦残存、円形) | ||
綾瀬川 | 八幡堰(伊奈町、1899、取水路?残存、円形) | 原市沼川 | |
伝右川 | 甚左衛門堰枠(草加市、1894、非・赤煉瓦) | ||
木売落 | 小佐衛門前伏越(吉川市、1910、銘板のみ) | ||
大場川 | 弐郷半領猿又閘門(東京都葛飾区、1909、大場川、アーチリングに黒っぽい煉瓦) 二郷半領用水逃樋(三郷市、1912、第二大場川) 二郷半領不動堀樋(三郷市、1914、第二大場川) |
第二大場川 | |
荒川 | 荒川 | 村岡樋管(熊谷市、1891、アーチ、非・赤煉瓦) 名称不明(熊谷市、不明、埋没、アーチ) | 荒川の冠水橋 |
鴨川 | 千貫樋(さいたま市、1904、鴨川→荒川、2連のアーチ) | 石橋供養塔 | |
和田吉野川 | 横見堰(大里町、1900、全面改修、旧堰の堰柱、銘板残存) | 相上堤 和田吉野川の冠水橋 |
|
都幾川 | 永傳樋管(東松山市、1901) 奈目曽樋管(東松山市、1903) 高畑樋管(東松山市、1903) 矢来門樋(東松山市、1903) 前吐樋管(東松山市、1903) 前樋管(東松山市、1903) 三原樋管(東松山市、1902) 四反田樋管(東松山市、1905) 小剣樋管(東松山市、1914) |
斜め堰 都幾川の冠水橋 越辺川の冠水橋 |
|
九十九川 | 鎌田樋管(東松山市、1899、円形) | 越辺川へ合流 | |
大沼 | 阻水エン塔(吉見町、1904、ため池の取水塔) | 市野川 | |
天神沼 | 天神沼樋(吉見町、1903、卵形管、楕円集水枡、曲面翼壁) | 比企丘陵の溜池 | |
横見川 | 坂東樋管(吉見町、1905) 五反田堰(吉見町、1898、全面改修、旧堰の煉瓦散在) | 市野川へ合流 | |
市野川用水 | 永府門樋(吉見町、1901、ニ連の箱型) | 市野川の冠水橋 | |
文覚排水路 | 文覚門樋(吉見町、1893、撤去、煉瓦残存) | 吉見領囲堤 大工町堤 |
|
長楽用水 | 京塚樋管(川島町、1903) 山王樋管(川島町、1901) 長楽用水掛樋(川島町、1897) |
都幾川から取水 川島領囲堤 |
|
入間川 | 笹原門樋(川越市、1901、八幡川?) 沼口門樋(川越市、1905、伊佐沼) | ||
高麗川 | 吉根樋管(坂戸市、1898、黒っぽい煉瓦を部分的に使用) | 高麗川の冠水橋 | |
新河岸川 | 三軒家樋管(川越市、1910、新河岸川放水路) 水越門樋(富士見市、1904) 山形樋管(富士見市、1904) 乗越門樋(富士見市、1899) 大小合併門樋(志木市、1898) 北美圦樋(志木市、1899) 新田圦樋(志木市、1900) いろは樋(志木市、1903、撤去、水槽残存) |
佃堤 新河岸川放水路 九十川 石橋供養塔 |