埼玉県の煉瓦水門 〜 レンガ造りの樋門・樋管・堰 (市町村別の分布)

 現存数最大の東松山市:
 現存数では、東松山市の10基が最大である。これらは都幾川(荒川の支流)の流域に分布している。
 建設年は小剣樋管(1914年)を除くと、1899年から1905年の短期間に集中していて、
 とりわけ現存する樋管のうちの5基は、1903年に同時に建設されている。
 現存する樋管の形式は箱型または円形のみで、アーチ型は残っていない(アーチ型は2基建設された)。
 東松山市に建設された最初の煉瓦樋管、上根田樋管(1897年、東松山市今泉、新江川、現存せず、
 使用煉瓦数は約15,000個)はアーチ型であった。
 埼玉県立文書館には上根田樋管の設計図(埼玉県行政文書 明2432-16)が保管されている。
 東松山市に建設された樋管は中小規模のものが多かったためか、現存率が高い(総建設数14基の
 うち10基が現存)。しかもほとんどが農業用で、今でも現役で使われていることが特徴である。

 建設数最大の行田市:
 建設数では、行田市が20基と群を抜いている。なかでも星宮村(4基)と太田村(8基)の建設数が多く、
 2村で行田市全体の6割を占めている。太田村は埼玉県初(明治33年竣工)の耕地整理(排水改良)が
 実施された先進的な地域でもある。行田市に数多くの煉瓦樋門が建設された主要因は、
 日本屈指の農業用水路、
見沼代用水の存在にある。見沼代用水と直接関連する取水施設だけでなく、
 見沼代用水へ排水する悪水路に設けられた樋門の多くが、煉瓦造りで改築されている。
 水量が多く水位が高い見沼代用水(星川)からの逆流を防止するためである。
 見沼代用水は行田市の区間では、自然河川の星川を送水路として利用している。
 また、沼沢地(
忍沼小針沼)の干拓のために設けられていた排水樋門も、その多くが煉瓦造りで
 改良されている。行田市に建設された煉瓦樋門は
約半数が現存するが、ほとんどは一部残存であり、
 現役で使われている施設は、北河原用水元圦(1903年)、辯天門樋(1905年)、小針落伏越(1914年)の
 3基のみである。建設時期別の分布を見ると、行田市の樋門は東松山市とよく似ていて、
 煉瓦樋門の黎明期から初期にかけての建設は皆無だが、明治35年前後に集中して建設されている。
 ただ、東松山市との大きな違いは水門の形式が多様性に富み、行田市には用排水の樋管だけでなく、
 堰、掛樋、伏越、逃樋と多種類の構造物が建設されている。取水堰の建設数5基は埼玉県で最大である。
 樋管の通水断面の形状もアーチ型がほとんどで、箱型はわずかに3基が建設されたのみである。
 加えて、曲面施工が導入されるなど、意匠の造形性に富む樋門が数多く建設された(7基)のも
 行田市の特徴である。

 熊谷市、羽生市、鴻巣市
 行田市の近隣町村にも煉瓦樋門が数多く建設されている。
 熊谷市には5基が建設されたが、成田堰用水の元圦を除く、4基が現存している。
 4基の内、3基は六堰用水(荒川から取水する農業用水)の関連施設である。
 このうち、村岡樋管(吉見堰用水)は明治24年(1891)竣工であり、荒川水系最古の樋管である。

 羽生市では、葛西用水と羽生領用水の関連施設の多くが煉瓦造で改築された。
 利根川の右岸堤防には元圦が3基(葛西用水元圦、羽生領用水元圦、稲子圦)も建設されている。
 また、葛西用水と羽生領用水の交差する箇所が多いため、全建設数7基のうち4基が伏越と
 掛樋
(宮田落伏越、岩瀬落伏越、北方用水掛渡樋、宮田逃樋)という特異な地区である。
 
羽生市に建設された全7基の煉瓦水門は、全てがコンクリートで全面的に改修されている。

 鴻巣市は荒川水系と中川水系の両方に跨るのだが、荒川には基(すべて排水施設)が、
 中川水系である元荒川には6基(4基が取水施設、そのうち
基が取水堰)が建設されている。
 元荒川の
煉瓦樋門は現存率が高く、6基のうち5基が残っているが、一部残存が多く、
 現役の施設は笠原樋(用途が取水から排水樋管に変更されている)のみである。

 幸手市、杉戸町
 中川水系では、幸手市(8基)と杉戸町(8基)も建設数が多い。
 幸手市では8基が建設されたが、そのうちの5基が取水施設(葛西用水、
権現堂川用水、中島用水)で、
 残りの3基が排水施設(権現堂川と中川へ排水)である。取水施設は幸手領が建設したものだが、
 排水施設の内、権現堂川へ排水の2基は羽生領(高須賀門樋)と島中領(外国府間排水機場)が
 建設した。権現堂川と島川(共に昭和初期には中川へと改修される)は幸手領以外の地区からの
 排水が集まる河川であり、悪水の流し方を巡って他領との軋轢も多かった。
 現在、幸手市には権現堂川用水の元圦(1905年)と島中領の排水機場(遺構、1909年)が残るのみである。

 一方、幸手市と同じく葛西用水のかんがい区域で、さらに下流に位置する杉戸町は西を古利根川、
 東を中川と江戸川に挟まれ、中央には幸手領の三悪水路(倉松落、安戸落、神扇落)が
 北から南へと流れている。このような排水河川の分布状況を反映して、杉戸町
に建設された8基の
 煉瓦樋門のうち、明らかに取水施設なのは3基(木津内樋管、安戸落伏越、念仏堰)のみであり、
 残りは排水施設(最終的な排水先は庄内古川(現.中川))となっている。
 現在は杉戸町
には米ノ谷樋管(1897年)と大島新田関枠(1897年)が残るのみだ。
 米ノ谷樋管は現存する埼玉県最古の箱型樋管であり、
同時に修築された米野谷堤の修堤記も残る。
 大島新田関枠は側壁に竣工記念碑が取り付けられ、関枠の設計者名も記されている。
 なお、春日部市に建造された3基(倉松落大口逆除、安戸落逆水除、四箇村水閘)も
 実質的には杉戸町が建設したものである。

 大里町、吉見町、川島町:
 荒川右岸の大里町(7基)、吉見町(12基)、川島町(14基)の建設数の多さが目につく。
 この地域は江戸時代に行なわれた荒川の瀬替えの影響をもろに蒙り、かつては洪水常襲地帯であった。
 荒川以外にも和田吉野川、市野川、 越辺川、入間川の洪水に悩まされ、町の周囲は堤防で囲まれ、
 輪中の様相を呈している。現在でも大里町には相上堤(和田吉野川右岸)、吉見町が大里町内に
 建設した横手堤(荒川右岸)、吉見町には吉見領囲堤大工町堤縦土堤(これら2つは吉見領囲堤の
 中に設けられた控堤)、川島町には川島領囲堤などが残っている。
 江戸時代末期の時点で、これらの地域の土地支配の形態には明らかな差異があり、
 吉見町が旗本の知行地がほとんどだったのに対して、上流の大里町は天領と川越藩領、
 下流の川島町はそのほとんだが川越藩領だった。
 明治時代になると、土地所有は特定の個人へ集中していった(在村大地主化)。
 新編 埼玉県史別編5 統計、p.637などによると、比企郡は明治中期の時点で、農地(水田、畑)の
 面積が小さい割には、小作地率は県平均よりも高かった。比企郡の平均を高めていたのは大地主が
 顕著だった吉見町と川島町である。比企郡は耕地面積が小さい割には水利組合の数が多く、
 煉瓦樋門の建設数も多い。

 大里町は町域の東側に荒川の大囲堤があり、これは連続堤防だった。しかし、町域の北端に
 あった百間出と南端にあった横手堤の存在が悩みの種だった。百間出(ひゃっけんだし)とは
 寛保年間(1740年頃)に築造されたとされる水制工であり、荒川左岸の現在の熊谷市月見町と見晴町の
 付近から、荒川の河道に向かって斜めに突き出して設けられた。熊谷宿を洪水の被害から守るためである。
 当初はその長さが百間(180m)だったようだが、増築を重ねるうちに、全長は三百間(540m)にまで
 達していたようである。百間出の存在によって、荒川の流心は右岸に向けられ、その水衝部である右岸の
 村岡、手島では堤防が決壊することが多かった。したがって、右岸側は百間出の撤去を要求し、
 水論(水争い)から訴訟問題に発展している(埼玉県史 資料編13、p.541)。
 これは荒川を挟んだ左岸と右岸の対立である。
 また、横手堤は和田吉野川が荒川へ合流する地点から、約1Km南の地点に存在した。
 和田吉野川は大里町の主要排水路だが、周辺地域は標高が低く、洪水時には荒川からの逆流に
 悩まされ、湛水被害の常襲地だった。その1Km下流に吉見町によって横手堤は築かれた。
 横手堤は大里町にとっては頭痛の種であり、吉見町に対して、その撤去を再三に渡り要求していた。

 吉見町の西側には丘陵地帯があり、丘陵地帯が低地へと移行する部分には築堤はない。
 つまり吉見領囲堤は西側が開放されていたため、そこから丘陵部に降った雨が悪水(地表流出)として
 領内へ進入して来た。その流下を防ぐために吉見領囲堤の中には、大工町堤や縦土堤などの
 村囲堤が築かれたのである。吉見領にとって領内の悪水排除は深刻な問題であり、例えば
 明治19年(1886)に領内を東西に横断する新道(現在の県道27号東松山鴻巣線)の計画が
 持ち上がった時には、道路の新設によって悪水の流下が阻害され、湛水被害が大きくなることを
 理由に大規模な反対運動が起こっている(→埼玉県議会史 第1巻、1956、p.723)
 一方、川島領囲堤は完全な輪中堤防である。川島町は町域全体が平坦地であり、その外周を
 堤防で囲んでいる。ただし、長楽、正直、梅ノ木地区は大囲堤の堤外となっていた。

 大里町、吉見町、川島町の堤防には江戸時代から、悪水圦(排水樋管)や逆除(洪水の逆流防止の
 ための樋管)が伏せ込まれ、外水を防御し、内水(領内や村内に溜まった水)を排除していた。
 明治時代には内水の最終的な排水先は、大里町が和田吉野川、吉見町が市野川、川島町が
 入間川と荒川だった。これらの河川は全て荒川へ合流していて、しかも各町の排水樋管は荒川との
 合流部付近に集中していた。市野川の堤防は、吉見町前河内から大串にかけての約2Kmの区間は、
 左岸側が吉見領大囲堤の一部、右岸側が川島領大囲堤の一部だった。この付近は市野川の荒川への
 合流地点からは約4Kmも上流だが、河道に狭窄部が設けられていたこと、荒川から市野川へ洪水が
 逆流することなどが原因で水害が多発した。歴史的に両岸の堤防の高さを巡って、吉見領と
 川島領との間での争いが絶えなかった。特に市野川の左岸堤防には、吉見領の排水樋管が
 設けられていた箇所が多かったため、外水だけでなく内水によっても堤防が決壊することが多く、
 水防の重点箇所でもあった。木製の樋管は腐朽が早いだけでなく、洪水によって頻繁に
 破壊されたのだが、その改築・復旧工事は慣例的に地元によっておこなわれていた(組合普請)。
 この地域は伝統的に樋管建設には習熟していたのである。

 明治期になって、上流に位置する村が頑丈な煉瓦造りの樋門を建設すると、下流側の村も競うように
 樋門を煉瓦で改築した。樋門は洪水時にはゲートを閉めることにより、堤防と一体となって堤内地を
 守るものだが、周辺の堤防及び樋門が堅牢になった場合、往々にして最も弱い箇所(例えば木製の
 樋門が残ったままの地点)の堤防が切れるからだ。他村の治水強化は近隣の村へ危機感を及ぼした。
 煉瓦樋門建設の是非は、村の存亡をかけた死活問題でもあった。
 そのため、この地域には煉瓦樋門の創生期から巨大な逆除け水門が相次いで建設されている。
 例を挙げると、大里町では玉造門樋(1888年)と津田合併門樋(1891年)、吉見町では台山門樋(1891年)と
 文覚門樋(1893年)、川島町では釘無門樋(1891年)と寺田門樋(1892年)である。
 これらは治水上の重要度が高い施設なので、後にコンクリートで全面的に改修・統合が行われ、
 より規模が大きい施設へと変貌を遂げている。

 治水だけでなく利水にも難儀した地域であり、農業用水の取水のための堰や樋管の多くが煉瓦で
 改良されている。煉瓦水門は大里町に1基(遺構)、吉見町に6基(遺構2基)、川島町に3基が
 現存しているが、それらの大半は農業用の施設であり、吉見町の3基、川島町の3基は今も現役である。
 農業用水の主な取水先は、大里町が荒川(吉見堰用水)、吉見町が和田吉野川(二十ヶ村用水)、
 市野川(市野川用水)、ため池、川島町が都幾川(長楽用水)と越辺川(中山用水)である。
 吉見町と川島町は大囲堤によって外部からの水の浸入を防御しているのだが、農業用水だけは例外であった。
 吉見町の二十ヶ村用水(横見川)は、上流の大里町の悪水(農業排水)に依存した水利形態なので、
 大里町との間で治水と利水の利害関係が交錯し、事情はことさら複雑であった。
 例えば、大里町に現存する唯一の煉瓦水門である横見堰(遺構)は吉見町が建設した。
 吉見町の水元(堰場)は大里町だった。横見堰で取水した用水は横手堤(吉見町の控堤)を樋管で横断し、
 下流の大里町小八林で2つに分水される。この地点に設けられた2基の分水工(分量樋、1913年竣工、
 石造り)も吉見町が建設したものである。取水に関する重要施設が大里町内に存在するのである。

 吉見町の東部には荒川からの水害を防ぐために大囲み堤が築かれていたが、堤外にも耕作地は
 広がっていた。町の西部には丘陵地帯が広がり、眼前に市野川が流れているにもかかわらず、
 地形の関係から市野川からの充分な取水は困難であり、不足分は天水(雨水)に頼らざるしかなかった。
 丘陵地帯の溜池にまで煉瓦樋門が建設されたのは、埼玉県では吉見町のみである。
 しかし溜池の堰堤が大雨によって決壊し、低地へ被害を及ぼすこともあった。
 この地域の歴史は水との闘いの歴史でもある。わずかに残った煉瓦樋管は、まさに歴史の生き証人である。

 さいたま市、富士見市、志木市:
 荒川の下流部では旧.浦和市に8基、旧.大宮市に5基、富士見市に8基が建設されている。
 旧.浦和市では荒川本堤、鴨川、鴻沼川などに排水樋門(逆流防止用)が分布していた。
 旧.大宮市の5基の内訳は、荒川の排水樋門が3基、見沼代用水関連の取水施設が
 2基(砂村伏越、〆切掛渡井)だった。さいたま市には13基もの煉瓦樋門が建設されたのだが、
 現存するのは千貫樋(旧.浦和市)と〆切掛渡井(旧.大宮市)のみである。

 富士見市では荒川本堤(現.びん沼川)と新河岸川の周辺に逆流防止用の
 樋門が分布していた。富士見市に建設された樋門は全てが排水施設だった。
 さいたま市と富士見市の煉瓦樋門は、荒川の河川改修に関連して全面的に改修されているので、
 残存率は極めて低い。富士見市の新河岸川には水越門樋(1904年)と山形樋門(1904年)が
 残っているが、それは旧堤防の廃棄と共に樋門も放置されという消極的な理由による。

 それに対して、近隣の志木市では総建設数5基のうち4基が残っていて、現存率が高い。
 志木市に建設された煉瓦樋門は新河岸川の左岸(旧入間郡宗岡村)に集中している。
 宗岡村は新河岸川と荒川に挟まれた村だったので、水害常襲地帯であり、村の周囲を堤防で
 囲み(村囲堤)、輪中の形態となっていた。煉瓦樋門は村囲堤に伏せ込まれ、新河岸川や
 荒川からの洪水の逆流を防ぐとともに、輪中内が湛水するのを未然に防いでいた。

 戸田市、川口市:
 現存が確認されていないので、下表には記してないが、戸田市に8基、川口市には16基(注17)
 煉瓦水門が建設されている。戸田市の煉瓦水門はその全てが荒川に設けられていた。
 川口市では荒川と芝川に分布していた。これらはほとんどが排水施設であり、洪水の逆流防止用として
 建設された。取水施設は川口市に瀧圦(1893年、見沼代用水東縁、伏越)が建設されたのみである。
 両市共に、埼玉県の煉瓦水門の創成期から既に煉瓦造での建設経験があり、戸田市では
 明治22年(1889)に曲尺手圦(荒川)、川口市では明治24年(1891)に善光寺樋管(荒川)が建設されている。
 戸田市と川口市は荒川の堤外地だった地区が多く、かつては戸田市と川口市の荒川周辺は
 埼玉県屈指の煉瓦工場密集地帯であった。明治(おそらく10年頃から)から大正時代にかけて、
 中小の煉瓦工場が数多く創設されている。
 なお、八潮市の綾瀬川にも、煉瓦造りと思われる樋管が少なくとも2基以上建設されている。(注18)

 明治時代の後期まで、東京を洪水から守るための治水対策として、荒川、利根川、江戸川は意図的に
 洪水の流下が疎外されていた。例とえば、隅田川(現.荒川)の隅田堤・日本堤、利根川右岸の中条堤
 江戸川の棒出しなどである。埼玉平野は、東京へ洪水が流下するのを防ぐ遊水池であったのだ。
 県南部の町村では、埼玉県から転出して東京府へ編入すれば、堤防をより強固なものに
 改築してもらえると、本気で考えていたようである。
 明治44年には草加町、鳩ヶ谷町他3町村が、東京府への編入願いを提出している。

市町村 建設数 樋門、樋管、門樋 その他 一部残存
深谷市 3(注1)   矢島堰   旧・矢島堰
妻沼町 2       男沼樋門
熊谷市 5*(注2) 村岡樋管 名称不明
杣殿樋管*
秋葉前堰    
大里町 7       横見堰
羽生市 7(注3)       北方用水掛渡樋
宮田落伏越 岩瀬悪水圦
行田市 20*(注4) 杣殿樋管*
北河原用水元圦
辯天門樋
松原堰
堂前堰
小針落伏越* 福川樋門 久保樋
源兵衛門樋
二本松圦 関根門樋
川里町 2*     小針落伏越*  
騎西町 3(注5) 落合門樋 三間樋      
菖蒲町 5(注6) 新久保用水樋管     小竹堰 名称不明
久喜市 2   古笊田堰    
白岡町 4   庄兵衛堰枠    
幸手市 8(注7) 新圦     島中領排水機場
杉戸町 8 米ノ谷樋管 大島新田関枠    
宮代町 1       万年堰
春日部市 4 四箇村水閘 倉松落大口逆除      
庄和町 5(注8) 五ヶ門樋     下柳永沼排水機場
宝珠花閘門
吉川市 3       小佐衛門前伏越
越谷市 2 谷古田領元圦      
草加市 2 甚左衛門堰枠      
三郷市 3 二郷半領用水逃樋
二郷半領不動堀樋
     
東京都葛飾区 1     弐郷半領猿又閘門  
吹上町 2 榎戸堰組合用水樋管      榎戸堰
鴻巣市 9(注9) 笠原樋 三ッ木堰     宮地堰 笠原堰
圦ノ上堰
蓮田市 3* 皿田樋管     瓦葺掛樋*
上尾市 4*       瓦葺掛樋*
伊奈町 5       八幡堰
岩槻市 4(注10)       末田用水圦樋
東松山市 14(注11) 永傳樋管 高畑樋管 奈目曽樋管
矢来門樋 前吐樋管 前樋管 三原樋管
四反田樋管 小剣樋管 鎌田樋管
     
吉見町 12(注12) 坂東樋管 永府門樋   阻水エン塔
天神沼樋
五反田堰
文覚門樋
川島町 14(注13) 京塚樋管 山王樋管   長楽用水掛樋  
坂戸市 1 吉根樋管      
川越市 5(注14) 笹原門樋 三軒家樋管 沼口門樋    
富士見市 8(注15) 水越門樋 山形樋門     乗越門樋
さいたま市 13(注16) 千貫樋     〆切掛渡井
志木市 5 大小合併門樋 北美圦樋 新田圦樋     いろは樋
35*   43 30

建設数は、文献1:明治期埼玉県の煉瓦造・石造水門建設史、是永定美/土木史研究 第17号、土木学会、1997 を基本とした。
それ以外に筆者が現地踏査や文献調査によって存在を確認した以下の樋門を追加して集計した。

(注1)矢島樋管(小山川、深谷市矢島、1926)を含む
(注2)名称不明(荒川、熊谷市宮本町、建設年不明)を含む
(注3)宮田逃樋(中川の起点、羽生市上羽生、1930)を含む
(注4)二本松圦(見沼代用水、行田市小針、建設年不明)を含む
(注5)騎西領用水堰(見沼代用水、騎西町上崎、1898)を含む
(注6)新久保用水樋管(備前堀川、菖蒲町三箇、1915)、
    名称不明(栢間赤堀、菖蒲町小林、建設年不明)を含む
(注7)島中領排水機場(権現堂川、幸手市外国府間、1909)を含む
(注8)川辺村排水機(中川、庄和町赤崎、1907) →庄和町庄内古川史料集、P.53-60
    下柳永沼 排水機場(中川、庄和町水角、1907)、
    馬場樋管(江戸川、庄和町西金野井、1919、埼玉県行政文書 大915-1)を含む 本体は土管、面壁に煉瓦
(注9)笠原樋(元荒川、鴻巣市笠原、1905)を含む
(注10)春山堀排水機場(元荒川、岩槻市、1907)、
    須賀川用水樋(元荒川、岩槻市新方須賀、1922、埼玉県行政文書 大1314-5)を含む 本体はコンクリート、面壁に煉瓦
(注11)永傳樋管(都幾川、東松山市神戸、1901)、小剣樋管(都幾川、東松山市正代、1914)を含む
(注12)台山門樋(市野川、吉見町荒子、1891)、
     阻水エン塔(大沼、吉見町南吉見、1904)、権兵衛堰(権兵衛用水路、吉見町大和田)を含む

(注13)
長楽用水掛樋(長楽用水、川島町長楽、1897)、
     中山圦(越辺川→中山用水、川島町吹塚、1898、埼玉県行政文書 大932-2-2)、
     長楽圦樋(都幾川→長楽用水、川島町長楽、1899、埼玉県行政文書 大839-40)、
     赤城樋管(荒川、川島町出丸下郷、1903)→
文献56、p.280、
     高木樋管(入間川、川島町出丸中郷、1915、埼玉県行政文書 大662-49)を含む
(注14)沼口門樋(伊佐沼、川越市鴨田、1905)、三軒家樋管(新河岸川放水路、川越市渋井、1910)を含む
(注15)郷志門樋(びん沼川、富士見市東大久保、1914、埼玉県行政文書 大432-26)を含む
(注16)砂村伏越樋(芝川、さいたま市見沼区砂町、1894)を含む
    上ノ圦樋管(荒川、さいたま市西区宝来、1912、埼玉県行政文書 大103-15)を含む
    中圦堰枠(鴻沼川、さいたま市桜区田島、1914、埼玉県行政文書 大430-9)を含む
    下ノ大圦樋(荒川、さいたま市西区宝来、1915、埼玉県行政文書 大665-66)を含む
(注17)横曽根樋門(緑川→荒川、横曽根村、現.川口市)を含む →川口市史 通史編 下巻p.296
    三領水門(荒川左岸、川口市、1939) →荒川上流改修60年史、荒川上流工事事務所、1979、p.161
    武永圦(芝川、川口市青木五丁目、1912、埼玉県行政文書 大104-19)
(注18)大曽根新々田樋管(綾瀬川、八潮市大曽根)→八潮市史 資料編 近代II、八潮市、1983、p.325
    西袋新田渡シ(綾瀬川、八潮市西袋、渡シは、落し?)  〃  大正2年の調書に煉瓦土管の記述あり

戻る:[埼玉県の煉瓦水門  考察:[煉瓦樋門の建設史][水系別の分布[市町村別の分布]建設年別の分布